ハルノートに対する覚書伝達遅延問題の資料

mototchen

電報システム

明治4年(1871)年、デンマークの大北電信会社が、長崎~上海、長崎~ウラジオストック間の海底ケーブルを敷設。
太平洋横断海底ケーブルは明治39年8月1日に直通回線が開通しました。ルートは
東京→小笠原→グアム→ミッドウェー→ホノルル→サンフランシスコ。
(なんで太平洋戦争で、開戦と同時にグアム占領したり、ミッドウェーまで攻撃しないといかないと、わかるね(^^♪
戦前,戦中の通信について 【OKWave】

商用電報です.ルートは
外務省電信室
→東京中央電報局
→電文の95%は米本土へ無電(この段階で米海軍が傍受)
→RCA電信会社経由でワシントンへ
→大使館ポストへ配達
です.
残り5%は海底ケーブル経由ですが,こちらについては米諜報機関は,電信会社から横流ししてもらいました
Outbreak of the Pacific War FAQ|軍事板常見問題 第二次大戦別館

公文書資料

大使館の状況

二、電信課ニハ最後マデ宿直者ハナカッタ。
交渉開始後モ館内ニ宿直者ノ居レル余地ガナカッタシ(自分ノ着任(十六年三月)以前ニモ電信課宿直員ノ話ガ出タガ、部屋ガナクテ駄目ニナツタト聞イテ居タ)、皆自動車ヲ持ッテ居テ、最急ノ場合ハ十分以内デ躯ケツケレルカラ大丈夫ダト言ウ考カラ宿直者ヲ置カズニヤッテ来テ居タガ、交渉ノ進展ニ伴レテ宿直者ヲ置コウジャナイカト言ウコトニナリ、偶近藤、吉田ノ両課員ガ増員トシテ着任シタノデ、確カ十一月ノ中旬卜記憶スルガ、両名ヲ宿直者トシテ大使館内ニ宿泊サシテ呉レト自分達カラ井口参事官ニ御頗イニ行ツタガ、部屋ガナイト言ウコトデ実現に至ラナカツタ。
昭和21年6月20日付・堀内正名回答書   日米開戦当時華府大使館デノ対米通告ノ電報解読並ニ浄書ニ関スル事実ニ付テ。 当時ノ大使館電信官 堀内正名記 (昭和二十一年六月二十日提出) 怠慢

本省カラ電信暗号機ハ一台丈ケヲ残シテ他ハ破壊セヨトノ訓令ガ来タ。当時暗号機ハ二台使用中デ、又之デ電信処理ハ充分行ハレテ居タノデアルガ、私ハ、今後日米交渉ガ如何ニ発展スルカモ知レズ、従釆ノ経験デハ一台ヲ以テシテハ急ノ間テ合ハナイコトヲ知ッテ居タカラ、私自身ノ責任ニ於テ、此ノ訓令ハ差当り執行ヲ見合セル様電信課ニ注意シタノデアル
昭和20年10月30日付・奥村勝蔵陳述書   怠慢

訓令:『マジック』では、12月2日東郷大臣発電報第867号(THE MAGIC BACKGROUND OF PEARL HARBOR VOLUME Ⅳ)

最後通牒とはなっていないハルノートでなぜ開戦を決めたのか?

米国側の実質的な最後通牒として日米開戦の契機となったとされる「ハル・ノート」を渡した状況を伝える米国の国務長官ハルが東京のグルー大使に送った暗号電報の日本語訳がセンター資料に含まれている.今まで,アメリカ側が日本の暗号解読をしたことは知られているが,日本側がアメリカの暗号解読をしたということは,ほとんど知られていない.実は日本側もアメリカの暗号を解読していた.この記録はずっと外交史料館にあった.公開されていたので探せば探せた.しかし,刊行された目録の中には「日米開戦交渉経緯」と「特殊情報」という件名しかない.したがって,中を開かない限りそこに何があるかわからない.しかし,センターのシステムでは「ハル・ノート」で検索すれば資料を見ることが出来る
国立公文書館のデジタルアーカイブとその利用 その3

《東郷茂徳 外務大臣》

外務大臣 東郷茂徳は以下のように語ったという。
『これは日本の自殺に等しい』
『この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、最後通牒と云うべきは当然である。』
『最早や立ち上がるより外ない』

つまり、『ハル・ノート』はこれまでの日米交渉の進展を阻害するほどの強硬案であった。
しかし、アメリカ側が強硬案を提示してくるのは、毎度のことであったし、予期できないことではなかったはず。

それなのに、なぜ『ハル・ノート』を最後通牒とみなしたのか。また、なぜそれほどまでに驚いたのか。
それは、日本側がすでにアメリカの妥協案『暫定協定案』の内容を解読していたからであるという。

昭和16年11月22日(日本の開戦決定の9日前)
ハル国務長官と英蘭豪中の4カ国の大使が集まり、『暫定協定案』を対日交渉案として決定する。
この時、日本側は在米中国大使館から中国政府(蒋介石)へ打電された外交電文を傍受・暗号解読した。

しかし、その5日後(日本の開戦決定の4日前)に手交した強硬案『ハル・ノート』は、事前に掴んだいたはずの妥協案『暫定協定案』との内容にあまりにも隔たりがあった
自己洗脳計画 〜色眼鏡日記〜 : 日米交渉の諜報戦(4) 日本側の誤認

ハル・ ノートを見た東郷は、辞職することなく対米戦争を宿命として受け入れ、この瞬間、太平洋戦争が決定的となった。しかし、なぜ東郷はそのように考え、行動したのか。それは、米政府が「乙案」に酷似していた「暫定協定案」を真剣に検討していることを、暗号解読を通じて事前に知ったからであろう。しかし、その「暫定協定案」は最終的に日本政府に示されることはなかった。これを東郷が、米国はすでに戦争を決意したと受け止めたのであれば、彼の変節は合理的なものとなろう。
歴史の教訓から学ぶ 日米関係の将来を見据えながらの政治外交史研究

外務省は直前に開戦日を知ったが、軍の要望により開戦について大使館には知らせなかった

“29日(土)午後3時20分、連絡会議。杉山参謀総長、永野軍令部総長ら統帥部は外務省に対し、今少しの交渉継続を求める。それが茂徳の疑念を呼び覚ました。
東郷 外交をやるといっても、その仕方(方法)がないではないか。
杉山 戦争に勝てるように外交をやって貰いたい。
東郷 開戦の前、外交をやる余裕があるのか。
永野 まだ余裕はある。
東郷 一体軍部は何日に開戦するつもりなのか。1日ではないのか。X日を知らせて欲しい。それを知らなければ外交はできない。
永野 それでは言う。12月8日だ。まだ余裕があるから、戦に勝つのに都合がいいように外交を続けてくれ。”
名分話|メモ垣露文

“杉山メモには、さらに「永野、嶋田、岡(敬純)等海軍側は『戦に勝つ為に外交を犠牲的にやれ』と強く主張せり」とある。
茂徳は出先の在外公館に事態を伝えることを主張するが、軍の容れる所とならず、米国の反省を求める外交上の努力を続けることを約束する。
「国民全部が此際は大石内蔵助をやるのだ」という杉山”
名分話|メモ垣露文

どうも…外相以下外務省の外交官たちは日本時間12月8日に、日本軍の戦闘が開始されることは知っていても、それは米国の「出城」であるフィリピン、英国の「出城」であるシンガポールへの攻撃と認識していて、後にUnited States of Americaを構成する「state」となるハワイ(正式に州となるのは1959年。41年当時は準州)を攻撃するとは認識していなかったようなんです。
実際、シンガポールの背後を狙うマレー上陸作戦は真珠湾攻撃に先立つ日本時間12月8日午前1時半に開始。真珠湾攻撃から数時間後の日本時間午前9時頃にはフィリピンへの爆撃を開始していますから、大規模な軍の動きがあることは当然、日本の外交官らの文民も、米国側も察知していても、目標はフィリピンとシンガポールであり、ハワイにも別働隊が向かっているとは思っていなかったのでしょう。
名分話|メモ垣露文

対米覚書、実は、これは日本からのアメリカに対する事実上の最後通牒でした…しかし、そのことは野村たち現地外交官には知らされていませんでした。更に真珠湾攻撃の情報も機密保持のため秘密にされていたのです。
真珠湾への7日間 外交官たちの苦闘 BS歴史館より|「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

「ハル・ノートは『最後通牒』という言葉こそ使っていないが、東郷外相ばかりでなく政府・軍部みなにショックを与えました。米側は、日本にそう思わせることを十分期待して書いたのでしょう。
それに対する『覚書』を出先の大使館が読んで、『何のことかわからない』というのは、我々から見ると実にふがいないと思わざるをえない。英語で言うと『ビジネス・アズ・ユージュアル』、まんねりでやっていたんでしょう。電信課員も家に帰されていたが、当直が必ず泊まっているいるべきで、ことに危機的な時は当直を増やすぐらいにすべきでした」
名分話|メモ垣露文

来栖大使によりルーズベルト大統領から昭和天皇への親電による戦争予防工作

対米覚書電報と翻訳伝達の遅延状況

時間不明:「 機密漏洩防止の為覚書作成にはタイピストを使わぬ事 」の指示。
12月6日午前6時30分:902号電1部目発信

昭和16年12月6日東郷外務大臣より在米国野村大使宛(電報)
「対米覚書」発電について
別 電 一二月六日付東郷外務大臣より在米国野村大使宛第九〇二号「対米覚書」
付 記 右別電訳文
本省 12月6日 発
第九〇一号
一、政府二於テハ十一月二十六日ノ米側提案二付慎重廟議ヲ尽シタル結果対米覚書(英文)ヲ決定セリ
二、右覚書ハ長文ナル関係モアリ全部接受セラルルハ明日トナルヤモ知レサルモ刻下ノ情勢ハ極メテ機微ナルモノアルニ付右御受領相成りタルコトハ差当り厳秘二付セラルル様致サレ度シ
三、右覚書ヲ米側ニ提示スル時期ニ付テハ追テ別二電報スヘキモ右別電接到ノ上ハ訓令次第何時ニテモ米側ニ手交シ得ル様文書ノ整理其他予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ
12月6日、第901号電報   怠慢

昭和16年12月6日 東郷外務大臣より在米国野村大使宛(電報)
「対米覚書」の機密保持方訓令
本 省 12月6日 発
第九〇四号
往電第九〇二号ニ関シ
申ス迄モナキコト乍ラ本件覚書ヲ準備スルニ当リテハ「タイピスト」等ハ絶対ニ用セサル様機密保持ニハ此上共慎重ニ慎重ヲ期セラレ度シ
第九〇四号   怠慢

誤字など175カ所
902号電報は長文のため14部に分かれ、第1部から第13部までほぼ予定通りの時刻に発信された。しかし、12月7日午前1時(日本時間)までに発信するはずの14部は15時間以上遅延した。
しかも902号電報には多くの誤字脱字があり、外務省は175カ所に及ぶ誤字などの訂正を903号、906号の2通に分けて大使館に送信した。
外務省は戦後に、この2通の原本を紛失したとして、発信時刻に関して謎が残ったままだったが、三輪教授が今回の調査で2通の発信時刻を突き止めた。前に送った電報に誤りなどがあれば直ちに訂正電報を打つのが通例だが、調査結果によって、2通の発信時刻は前の電報(902号第13部)から十数時間後と大幅に時間がたっていることがわかった。
「真珠湾攻撃、遅れた最後通告~大使館怠り説を覆す?外務省の故意か」: エムズの片割れ

昭和21年6月20日付・堀内正名回答書
日米開戦当時華府大使館デノ対米通告ノ電報解読並ニ浄書ニ関スル事実ニ付テ。
当時ノ大使館電信官 堀内正名記
(昭和二十一年六月二十日提出)
……
三、事ノ緊急性ヲ判断シ電信課員ニ警告ヲ与エルノハ其ノ地位カラシテ井口参事官ノ責務ダツタロウト思ウガ、対米通告ノ電報ニ関シテハ誰カラモ何等ノ警告ヲ受ケナカッタ。
電信課員ハ本件通告電報ノ十三本目迄ヲ処理シタ時ハ、之ガ緊急電報デモナカッタシ又内容カラシテ最後的ノ緊急且重大ナモノトハ認識セズ非常ナ緊迫ハ感ジナカッタ。当日書記官室ノ方デモ本件電報ヲ見乍ラ「戦争ニナル時ハ最後通牒ガ来ルヨ」ナンテ話合ッテイタシ、同夜(六日夜)(本件電報十三本目迄解読後)館員全部ガ支那料理屋デ寺崎書記官ノ南米転勤送別会ヲヤッテイタ様ナ次第デ、他ノ館員モ同様本件電報ヲ以テ最後的ノ重大電報トハ認メテ居ナカツタ様ニ思ウ。尚皆緊迫ノ場合ハ前以テ予テノ通知ニ基ク警戒警報ガ来ルト言ウコトガ頭ニ在ツタコトト思ウ。
怠慢

その夜8時頃から,結城書記官と6人の電信室担当者を呼び,メイフラワー・ホテルの中華料理店で,転勤の出発が遅れている寺崎書記官を送別する夕食会を開く
同じ時刻に井口参事官も,松平書記官と藤山ら若手外交官補など計6~7人を中華料理店「チャイニーズ・ランタン」の個室に集め,寺崎書記官を送別する夕食会を開く
3人の一等書記官がお互いに仲が悪いため,同じ晩の同じ時刻に,同じ職場の同僚達が,2ヶ所に分かれて送別会を開いたのだ
寺崎書記官は気を使い,両方の夕食会に,時間をずらせて出席した
しかも,寺崎の正式の送別会は既に終わっていた.この晩の送別夕食会は予定されていたものではなく,奥村と井口が,自分と仲の良い者達を「夕食に行かないか」と誘って,寺崎を送別する夕食会にした…電信室関係以外の者は殆ど帰宅
電信室員は10時頃に大使館事務所に戻り,902号電解読の続きを再開
13部目の解読を終えたのが,翌7時午前3時頃…帰宅
井口参事官も事務所に戻ったが,既に電信室に「適当に切り上げよ」と声をかけて帰宅…
大使館事務所に残ったのは,通常通りの当直者,20過ぎの館務補助員ただ一人
Outbreak of the Pacific War FAQ|軍事板常見問題 第二次大戦別館

「当時、東京の方では、私など開戦前の十日間ほどはほとんど寝ないで緊張してやっていた。まさか、ワシントンが『めしの時間だ、中華料理を食べに行こう』とか『今晩は遅いからもう帰ろう』とかのんびりしたムードであろうとは夢にも思わなかった。
ワシントンにはとにかく優秀な人を集めたんです。ところが、その人たちが互いに張り合っていて、朝なんかあいさつも交わさないくらいだったと。野村吉三郎大使(海軍大将)も外務省の出身者でなかったから、部下を把握し切れてなかったのかもしれない。日本の不運でした」
名分話|メモ垣露文

12月7日午前9時、彼らが14部目を手にしたのが朝9時、そこには日米交渉打ち切りという日本側の通告が書かれていました…「今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」…彼らを驚かせたのは合わせて送られてきた指示でした。
「午後1時にハル国務長官に手交せよ」…慌てる外交官たち、このとき時刻は午前10時30分、残すところ2時間半で14部全ての文章を正式な外交文章にし、タイプライターで清書しなければなりません。

しかも、機密保持のためプロのタイピストに扱わせることを禁止され、清書作業は手こずります…そしてこの時点でも外交官たちは、これが事実上の最後通牒だとは気づいていなかったのです。
真珠湾への7日間 外交官たちの苦闘 BS歴史館より|「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

昭和21年4月・堀内正名陳述要旨
……右別電中十三本ハ同夜即チ七日午前一時頃迄ニ全部解読ヲ了シ、最後ノ一通ヲ待チタルモ来ラズ。一応帰宅ノ上朝食後可成早ク登庁スルコトトシ、午前五時半帰宅セリ。
一、「七日午前九時半頃、大使館宿直者ヨリ至急電接到シ居ル旨電話連絡アリ。他ノ電信課員ニモ至急連絡ノ上午前十時頃登庁セル処、至急電、普通電合計四、五通アリタリ。(電報到着ノ時刻ハ記憶ナシ)
「午前十時頃ヨリ直ニ至急電ヨリ解読に着手セル処、……最後ノ至急電ハ対米通告手交時間指示ノ訓令ニシテ、本訓令解読終了ハ午前十一時頃ナリ。
一、次デ普通電解読に着手セルガ、之対米覚書ノ第十四通目ニシテ其ノ出来上リタルハ丁度正午頃ニシテ、電信課員一同間ニ合フベシト思ヒ喜色アリタリ。
怠慢

覚書が宣戦布告の形式内容をとっていない訳は…

実は、この対米覚書は書き換えられた物であったと示す証拠が近年見つかりました…東郷から野村へ3日前に記された対米覚書の原案、その最後の通告部分です…「将来発生すべき一切の事態については合衆国政府において、その責に任ずべきものなる旨、合衆国政府に厳粛に通告するものなり」

日本との間で将来発生する”一切の事態”についてその責任はアメリカにあるという通告、実際に送られた対米覚書とは、内容が大幅に異なっています。…この文章を発見した井口教授です。

尚美学園大学名誉教授 井口武夫さん
「”将来発生すべき一切の事態”というのは、外交断絶から武力行使・開戦まで含む事態です。…国際法上も”一切の事態”というのは戦争状態を含むということになっていますから、これが開戦意図を表明した『最後通牒』の原案です」

日本政府は当初、国際法上、宣戦布告として認められる文章を作成していたのです
真珠湾への7日間 外交官たちの苦闘 BS歴史館より|「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

しかし、果たして宣戦布告は必要だったのか?
当時、国によって考え方が違っていました…つまり、日本側は、アメリカが経済封鎖という殆ど戦争行為と同じ事を仕掛けたから自衛で戦争をする。

そうした時、必ずしも明示的に宣戦布告はいらないというハーグ条約の考え方もあったんです…そういうのもあって日本側、本省は最後までどういう言葉にするか揺れたりする…アメリカもそういうのがわかっているから、日本は宣戦布告なしに攻撃するかもしれないと予期していたと思います。

つまり、国際法上どう解釈して、それが正義であるか正当であるか、どうアピールできるかそれが日米両国の戦いであったと考えます。
真珠湾への7日間 外交官たちの苦闘 BS歴史館より|「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

“「同通告が宣戦布告と同一のものなりしことは明白なりしものなり」(東京裁判関連の準備文書より)というのが茂徳の立場であった。”
“この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいってなかった。日本はこういう予備行為なしに攻撃して来たのである。”

この齟齬がどこから生まれたのかというと、

『祖父東郷茂徳の生涯』に戻り、

“この案文で充分かどうかについて海軍側から声が挙がり、岡敬純軍務局長は「帝国は必要と認める行動の自由を留保す」と、日露開戦の前に日本がロシアに送った交渉打切通告の先例に倣った文を、最後につけ加える案を示すが、茂徳は、それを必要なしと判断した
~(中略)~
5日(金)対米覚書、閣議で承認。
午後4時15分、田辺盛武参謀次長(塚田攻の後任)と伊藤軍令部次長、外相公邸を訪問。
伊藤は、「開戦通告の時間を三十分繰り下げてもらいたい」と申し入れる。
「時間を変更しても攻撃開始まで充分に余裕はあるのか」と問いただす茂徳に、伊藤は確約を与える。”
名分話|メモ垣露文

“加瀬は日米開戦前年の40年秋から終戦まで外相秘書官、北米担当課長などとして、松岡洋右、東郷茂徳、重光葵の三外相に仕え、開戦から終戦までをほぼ一貫して政府中枢から見届けた。氏は98年、月刊誌「This is 読売」三月号のスクープ記事の中で、問題の「対米覚書」とは別に作成され、ついに使われることなく終わった”幻の宣戦布告文”についても「自分が書いたもの」であると認め、注目された。”
名分話|メモ垣露文

「宣戦布告文を方を先に打電していれば、大使館にも事態の深刻さが正確に伝わり、手交遅延の大失態が避けられたのでは」という見方が学者の間に出ているがどう思うか。
「天皇陛下が『開戦通告はきちんと国際法の手続きを踏んでほしい』と言っておられたし、東郷(茂徳)も大変用心深い人で外務省としてあらゆる場面に備え、いわば武士のたしなみとしてあの宣戦布告文も準備しておくよう私に指示したわけです。(宣戦布告文には)私のサインが記されているから私の作ったものでしょう。ただし、作成したことを私自身が最近まで忘れていたぐらいで、あんなものを作ったところでとても使える状況じゃなかったのです」
「…海軍の人たちは、戦争は勝つようにするものだ、自分たちの本当の魂胆(真珠湾攻撃)がわからなきゃいいと言っていました。海軍としてみれば日本の全存在をかけた戦いでしたから、勝たなければならないのだ、と。だから、『覚書』の最後に『交渉の妥結は不可能』の文言を入れることすら、海軍は(開戦通告を連想させるとして、初めは)絶対反対を主張したぐらいです。宣戦布告文など出せる空気ではなかったのです」”
名分話|メモ垣露文

参考

覚書の電報のパープル暗号をマジックにより解読し読んだアメリカの反応

12月7日(日)午前9時、クレーマー海軍少佐は、日本の対米通告電報第14部(日米交渉打切りを通告するもので、事実上の宣戦通告)をスターク作戦部長に手渡した。

スタークは驚愕して
「何だって!これは戦争ということだ。早速キンメルに知らせなければならん」と叫んだが、
スタークはホノルルに連絡する努力は全くせず、代わりにマーシャル参謀総長に連絡を取ろうとした。

ところがマーシャルは何か奇妙な理由をつけて、突然、乗馬の遠乗りに出かけてしまった。
紹 介:齋藤充功の 「 昭和史發掘 」 二冊 伊原吉之助教授の読書室

12月7日午後の新庄健吉の葬儀

当日葬儀を取り仕切った葬儀社「ハインズ・カンパニー(The S.H. Hines Company)」の資料によると、そもそも会葬者芳名帳に、野村・来栖両大使の名前がないことが判明している。
2004年12月6日付・産経新聞29面新庄健吉 – Wikipedia

資料によると、午後3時から行われた。

開戦当時の事は尚昨日の如く頭に残りおり故大佐の葬式には米国の陸軍将校も多数参列、式の間に開戦となった次第にて当時のことは夢の如くに有之候
太平洋戦争開戦通告遅延の真の理由

昭和30年秋、自民党参議院議員となっていた野村吉三郎から新庄健吉夫人の範子のもとに突然届いた一通の書簡

当時「条約」担当であり、葬儀に同席した松平康東一等書記官(*)の証言:
「短時間の予定でしたが、司式するアメリカ人の牧師が、新庄大佐の高潔な人格を賛美して、長々と告別の辞を述べるので、気が気でならず、中止してもらいたい、と思うものの、それも出来ず、気があせるばかりでした。というのは、その 日の午後一時には『国交断絶のやむなきに至った』旨を野村大使に同行して、ハル国務長官に最後通告に行く予定になっていたからですが、行くにもいけない。それで、 時刻を遅らせて面会する以外にはありません。アメリカ人の牧師は、新庄大佐が自作された美しい英詩を、次々に順次に朗読し、どんなに年齢と共に精神的な成長をなさったかを、ノートを取り出して読みながら述べて、口を極めて遺徳を頌めたたえるのでした。
その時『ハワイの真珠湾を日本が攻撃中』の無電が入って来ました。でも、あまりにも美しく感動的な説教が続くのが印象的でして、聴き入る上官たちに『葬儀の中止』 を耳打ちするのですが、黙って終わるのを待っておられました。私は和戦交渉の担当官として、あんなに気をもんだことはありませんでした。
葬儀が終わるや否や、野村、来栖の両大使は国務省にむけ、フルスピードで自動車を走らせ、ハル国務長官に面会して、日本の最後通告を伝えたのでしたが、ハルが『無通告の奇襲攻撃』と激怒したのも当然ですが、実は事後通告となった舞台裏の事情は、アメリカ人牧師が長々と悼辞を述べたからなのでした」

(出典『新庄健吉 伝』著者稲垣鶴一郎が「原始福音」一七七号から転載したものを引用)(146ページ)

関連まとめ

https://matome.naver.jp/odai/2140873584438866401
2016年06月12日