「徳川家康」の年表(その1)

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徳川家康(とくがわいえやす)の幼少期の年表です。(竹千代~徳川家康に改名するまで) まつだいらもとやす。たけちよ。 ※諸説があるものが含まれます
徳川家康
生年: 天文11.12.26(1543.1.31)
没年: 元和2.4.17(1616.6.1)
武将。江戸幕府初代の将軍。

三河国(愛知県東部)岡崎の城主松平広忠とお大(水野氏)の子。幼名は竹千代。松平氏は西三河の大名で,駿府(静岡市)の今川氏に従属していた。6歳で今川氏に人質として送られる途中,奪われて尾張(愛知県西部)の織田信秀のもとに送られたが,2年後に返還され,19歳までを駿府で過ごした。
徳川家康 とは – コトバンク

徳川家康の幼少期の年表

天文11年12月26日(1543年1月31日) 家康誕生

三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。
徳川家康 – Wikipedia

松平広忠=家康の父
於大=家康の母
水野忠政=家康の祖父

天文12年(1543年) 水野忠政死去(家康の祖父)

天文12年(1543年)7月12日、死去。享年51。
水野忠政 – Wikipedia

家康の祖父死去

天文14年?

3歳の頃、水野忠政没後の水野氏当主・水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。
徳川家康 – Wikipedia

水野忠政=家康の祖父
水野信元=家康の伯父=於大の兄
松平広忠=家康の父

家康の父(松平広忠)が今川氏の庇護を受けていたにもかかわらず、家康の叔父(水野信元)が織田氏と同盟した為、家康の父は母(於大)と離縁した。

天文17年?

6歳の頃、広忠は織田氏に対抗するため駿河国の今川氏に従属し、竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代は見捨てられた形となり、殺されてもおかしくなかったが、久松俊勝夫人となった於大の懇願もあり、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。
徳川家康 – Wikipedia

松平広忠=家康の父
戸田康光=広忠の継室の父
久松俊勝=於大の再婚先

家康(竹千代)は今川氏に人質として受け渡されるはずであったが、護送中に戸田康光の裏切りにより、織田氏に送られた。

天文18年(1549年)

広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。
徳川家康 – Wikipedia

松平広忠=家康の父
織田信秀=信長の父
織田信広=信長の腹違いの兄(織田信秀と側室の子)

今川氏の人質となっていた織田信広と、織田氏の人質となっていた家康を、交換することになる。

弘治1年(1555年)

駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。
徳川家康 – Wikipedia

瀬名(築山殿)=家康の正室

瀬名(築山殿)

永禄3年(1560年) 桶狭間の戦い

1560年(永禄3)5月19日,織田信長が今川義元を尾張国桶狭間村(現,名古屋市緑区有松町)・大脇村(豊明市)一帯の起伏の激しい丘陵地帯で迂回奇襲し敗死させた戦い。今川氏は門地・実力・地理的条件からみて上洛して将軍を補佐しうる最大の戦国大名であり,三河も掌握し1554年(天文23)武田・後北条・今川3氏和解の体制をつくり,58年ころから尾張侵入をはかり品野・笠原・鳴海・大高城を前線拠点とした。一方,信長は59年に岩倉城を攻略し,ほぼ尾張一円の支配をなしとげた。
桶狭間の戦 とは – コトバンク

今川義元は、家康(松平元康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。ここで家康は待機状態であったが、今川勢は、桶狭間で敗戦となった。

今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。
徳川家康 – Wikipedia

元康=家康

今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。
徳川家康 – Wikipedia

この後、藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。

永禄5年(1562年) 清須同盟

永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。
徳川家康 – Wikipedia

永禄6年(1563年) 松平元康から松平家康に改名

義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた
徳川家康 – Wikipedia

永祿7年(1564年)

永祿7年(1564年)三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。
徳川家康 – Wikipedia

永禄9年(1566年) 松平家康から徳川家康に改名

永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、徳川氏に改姓した。
徳川家康 – Wikipedia

桶狭間の戦い~本能寺についてはこちら

江戸幕府創設時期はこちら

参考リンク

https://matome.naver.jp/odai/2140625075436166201
2017年04月16日