「軍師官兵衛」が活躍した時代、実は大地震が多発していた?

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「軍師官兵衛」の黒田官兵衛が活躍した戦国時代、安土桃山~江戸時代前期は南海トラフ地震、三陸地震や内陸地震などの大きい地震が多い地震活動期だったものと推定されます。この時代の地震は津波を伴ったものが多かったようです。

地震活動期

マグニチュード9にも及ぶ東日本大震災が起こったいま、多くの科学者が、いまの日本列島は「地震静寂期」ではなく、大地震が集中的に訪れる「地震活動期」のただ中に突入していることを指摘している。

この「地震活動期」というものは、過去の日本の歴史のなかでも定期的に訪れている。
必ずくる「巨大地震」に備えよ〔1〕日本は「地震活動期」に突入した/藤井聡(京都大学教授) (PHP Biz Online 衆知) – Yahoo!ニュース

安土桃山時代(1573年 – 1603年頃)

本能寺の変 1582年6月21日(天正10年6月2日)

1585年7月31日(天正13年7月5日) 大阪・京都・伊勢で大震。
地震の年表 (日本) – Wikipedia

天正地震 1586年1月18日(天正13年11月29日) 津波あり

天正地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震) – M 7.8〜8.1(それ以上の可能性あり、あるいはM 8クラスの地震が3つ以上同じ日に立て続けに発生した可能性あり)、死者多数。飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まる。内ヶ島氏、帰雲城もろとも滅亡。余震が1年以上続く。三河湾と若狭湾という日本海・太平洋両岸での大津波記録が複数あり、複数の巨大地震の同日発生の可能性がある。少なくとも養老断層(愛知県)、阿寺断層(岐阜県)の2つの断層の活動(いずれもM 8クラスか)の可能性が高い。さらに若狭湾に津波をもたらした断層も活動したと考えられ、3つのセグメントでのM 8クラス地震が同日に少なくとも3つ以上発生した可能性が高い。
地震の年表 (日本) – Wikipedia

被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はない。

戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難い時代背景であった。
天正地震 – Wikipedia

この時、秀吉は琵琶湖沿岸の坂本城にいた。突如起きた地震のために各地の城や建物は倒壊。激しい揺れに驚いた秀吉は「飛ぶように大坂へ逃げた」と宣教師のルイス・フロイスが書き記している。

琵琶湖対岸の長浜にいた山内一豊の6才の娘や、加賀にいた前田利家の弟など、秀吉と親しい武将たちが家族を失うほどの大きさだった。これまたフロイスの報告では、長浜地区にあった1000戸の集落では、地面が割れて半数の家が倒壊し、半数は火事で焼失したという。

この記載は近年、琵琶湖の湖底に消えた下坂西千軒遺跡・西浜千軒遺跡の水中考古学調査で確認された。2つの集落は、地震の液状化によって地盤が脆くなり、巨大な地すべりによって村ごと沈んだのである。
第五巻 地震はナマズのせいじゃ! 豊臣秀吉を襲った2度の大震災 | 地震予測検証・地震予知情報 / 防災情報【ハザードラボ】

天正地震の震度分布

震源は現在の岐阜県美濃中西部

震源域
近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。

被害

飛騨国 – 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没、城主内ヶ島氏理とその一族は全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。白川郷では300戸が倒壊するか飲み込まれた。「顕如上人貝塚御座所日記」に、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。焼岳付近で地震による(?)山崩れ。家屋300余埋没。
美濃国 – 大垣城が全壊焼失した。
越中国 – 木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊、城主の前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
尾張国 – 昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された。また蟹江城が壊滅した。
伊勢国 – 織田信雄の居城であった長島城は天守が倒壊するなど甚大な被害を受けた。そのため信雄は居城を清州城に移した。
京都 – 東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた。
郡上八幡 – 奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時60-70軒)が一瞬で崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
琵琶湖 – 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡した。
若狭湾・伊勢湾での大きな津波被害もあった。

若狭湾及び伊勢湾に津波があったとされる記録がのこる。

『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある。 他にクラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』)や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある。
天正地震 – Wikipedia

噴火

『四ツ半時、大地震あり。この時、硫黄山(焼岳)大噴火を起こし、麓中尾村は地形を大きく変貌する。』(顕如上人貝塚御座所日記)。 焼岳が噴火したという口碑がある。

1586年の天正大地震後、近い時期に大地震が複数起こっており、それらの引き金を引いた可能性がある。

九州の名護屋にいた秀吉が伏見城を築くときに1592年(文禄元年)普請を担当した京都所司代前田玄以(げんい)に送った書簡に、「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まま」と記されていた。“なまず大事”=城の建築にあたっては地震対策を万全にせよ、という意味であるが、これは1586年の天正地震を念頭に置いたものとみられている。
天正地震 – Wikipedia

帰雲城趾
11月29日、その日帰雲城では和睦成立を祝う宴が開かれ、氏理本人はもちろん、娘婿の東常堯や嫡子の内ヶ島氏行など内ヶ島一族、重臣の主だったものが勢揃いしていた。 深夜に入り天正地震が発生し、帰雲城は帰雲山の山崩れに巻き込まれ完全に埋没。これにより内ヶ島氏は一族郎党一夜にして滅亡したのであった。

天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて秀吉の「九州攻め」

九州征伐
大友宗麟の要請による九州征伐では、黒田官兵衛は毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州豊前に上陸。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している。

安房(現在の千葉県南部)で地震 1590年3月21日(天正18年2月16日)

2mの隆起あり。潮が引いて3キロの干潟が形成された。
地震の年表 (日本) – Wikipedia

秀吉の天下統一

秀吉は天正18年(1590年)に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。

小田原城は堅城として知られるが、季節的な理由で兵を引く可能性のない包囲軍の前では無力であった。3か月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。

後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。

1596年 以下の3つは連動型地震の可能性

慶長伊予地震 1596年9月1日(文禄5年閏7月9日)

慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。四国を走る中央構造線断層帯での地震と考えられている。
地震の年表 (日本) – Wikipedia

断層の長さから推定される地震の規模はマグニチュード7前後であるが、被害記録は限られており正確な規模は不明である。

3日後の1596年9月4日に豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震と、4日後の1596年9月5日に発生した慶長伏見地震(共にM7.0規模と推定)を合わせて、中央構造線上及び、その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つとされる。こうした天変地異の多発によって同年中に文禄から慶長へと改元がなされた。
慶長伊予地震 – Wikipedia

慶長豊後地震 1596年9月4日(文禄5年閏7月12日) 津波あり

慶長豊後地震(大分地震) 豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。死者800余人。島の実在自体が未確認であるが、別府湾にあった瓜生島(沖ノ浜(沿岸陸地))と久光島の2島が沈んだと伝えられる。

震源地は現在の大分県の別府湾口で、マグニチュードは6.9~7.8と推定される。別府湾-日出生断層帯東部の別府-島原地溝帯に沿って発生した大陸プレート内地震である。

文禄5年7月から地震が頻発、翌閏7月まで続き、閏7月12日申刻(午後4時)に本震が発生、津波も発生した。津波による流出家屋数千戸、死者708名、高崎山と由布岳の山崩れなどの被害をもたらした。
慶長豊後地震 – Wikipedia

羽鳥(1985)によると、大分市内での津波は寺院の流失状態の分布から推定される波高は4~5.5m、別府湾口の奈多 7~8m と佐賀関 6~7m 程度と考えられている。波高と震度分布から推定される波源域は別府湾を包み東西方向に50km程度の長さ。

また、都司ら(2012)によると、津波の高さ(いずれも痕跡高(浸水高))は大分県大分市佐賀関早吸日女神社の鳥居高にて5.0m、同神社境内において10.6m、同市府内町同慈寺跡地付近(大分中央郵便局)で5.5m、同市大手町長浜神社跡地で5.1m、杵築市奈多奈多神社の境内において8.4mと推測されている。

瓜生島の消滅原因は、神場洲の地盤沈降が記録されており別府湾の陥没が原因とする説や液状化が原因とする説が有る。
慶長豊後地震 – Wikipedia

大分を中心に大津波の被害

慶長豊後地震
震源は現在の大分県

慶長伏見地震 1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)

現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯、及び六甲・淡路島断層帯を震源として発生したマグニチュード(M)7.0 – 8.0程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)である。地震による死者数の合計は京都や堺で1,000人以上を数えたと伝えられており、完成したばかりの伏見城天守もこの地震により倒壊し、城内だけで600人が圧死したと言われている。

京都では東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺等が倒壊し、被害は京阪神・淡路島の広い地域に及び、大坂・堺・兵庫(現在の神戸)では家々が倒壊した。又、現在の香川県高松市でも強震を伴ったとされている。
慶長伏見地震 – Wikipedia

このころ近畿地方は大小の地震が頻発しており、豊臣秀吉も「なまつ大事」とし伏見城の地震対策に力を入れていたが、のちに「慶長伏見地震」と呼ばれることになるこの地震はそれを上回る大地震となり、天守の上二層が倒壊する大きなダメージを受けた。『慶長記』によると明使節は7月18日、つまり慶長伏見地震から6日後に馬揃えを行う予定だったが中止となった。この時豊臣秀吉は伏見城におり、『当代記』によると女﨟73名、中居500名が死亡したが豊臣秀吉は無事で、建物としては台所施設が健在だったらしくそこで一晩をすごした。夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の小屋を造り、豊臣秀吉もそこで避難生活を送っている。この地が木幡山伏見城となる。なおこの災害を契機としてこの年10月27日には「慶長」に改元された。
伏見城 – Wikipedia

慶長伏見地震
震源は現在の兵庫県南東部

兵庫県南部を中心に甚大な被害となった1995年の兵庫県南部地震(M7.3)は、本地震で破壊された六甲-淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする説が発表されている。
慶長伏見地震 – Wikipedia

兵庫県南部地震・阪神淡路大震災の震源

江戸時代(1603年頃 –

1604年4月19日(慶長9年3月20日) 黒田如水/黒田官兵衛死没

慶長地震 1605年2月3日(慶長9年12月16日) 南海トラフ津波地震

慶長地震(南海トラフ連動型地震説、東海はるか沖地震説、または房総沖と南海沖の二元地震説、伊豆・小笠原海溝地震説あり) – M 7.9〜8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万〜2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。
地震の年表 (日本) – Wikipedia

発生場所には諸説があり南海沖(南海トラフ)単独地震説と南海沖と房総沖の連動地震説などがあり、マグニチュード7.9前後と推定される。津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、地震による陸地の揺れが小さいのが特徴である。また震源や被害規模も不明な点が多い。

以上のことから津波を想起させる大きな地震動が発生しない津波地震であったとされ、同様の地震が将来発生した場合に避難が遅れ大きな被害が出る可能性があり、問題となっている。
慶長地震 – Wikipedia

慶長地震
従来想定されている南海トラフ沿いの地震とはメカニズムが異なるため、将来の活動は予測できていない。津波地震という性質のため、三陸津波・チリ地震津波などと同じく、予兆なく津波が襲来した場合の被害は想定以上のものとなる可能性もある。

仙台で地震 1608年12月30日(慶長13年11月23日) 津波あり

津波で50人死亡。
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会津地震 1611年9月27日(慶長16年8月21日)

「慶長会津地震」または「会津慶長地震」といい、1611年9月27日(旧暦の慶長16年8月21日)午前9時ころ会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生したものである。一説によれば震源は大沼郡三島町滝谷付近ともいわれるが、地震の規模マグニチュードは6.9程度と推定されており、震源が浅かったため局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。
会津地震 – Wikipedia

記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び倒壊家屋は2万戸余り、死者は3,700人に上る。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち7層の天守閣が傾いたほか、会津坂下町塔寺の恵隆寺(えりゅうじ・立木観音堂)や柳津町の円蔵寺、喜多方市慶徳町の新宮熊野神社、西会津町の如法寺にも大きな被害が出たという。

また各地で地すべりや山崩れに見まわれ、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため、東西約4-5km、南北約2-4km、面積10-16km²におよぶ山崎新湖が誕生し、最多で23もの集落が浸水した。その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)により3日目あたりから徐々に水が引き始めた。しかしその後の大水害もあり山崎湖が完全に消滅するには34年(一説では55年)の歳月を要し、そのため移転を余儀なくされた集落も数多い。
会津地震 – Wikipedia

http://www17.ocn.ne.jp/~aizua/aizudaijishin.pdf

慶長三陸地震 1611年12月2日(慶長16年10月28日) 津波あり

M 8.1(Mw >8.5)。十勝・根室沖のM 9クラスとする説がある。一方、東北地方太平洋側で繰り返し発生していると推定されるM 9クラスの地震の候補ともされる。伊達領で大津波による死者約2,000〜5,000人。
地震の年表 (日本) – Wikipedia

1611年12月2日(慶長16年10月28日)、巳刻過ぎ(10 -11時頃)大地震、昼八ツ時(午後2時頃)に大津波(現地時間)と記録されている。『武藤六上衛門所蔵古大書』には「大地震三度仕」とあり、3度大きく揺れたことになる。当時、日本を探検中のビスカイノらも、奥州沿岸の測量中に地震と津波に遭遇し、その記録を残している。

津波の波源域は1933年(昭和8年)の昭和三陸地震とほぼ重なる。

この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は4 – 5程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている。この地震による津波被害は「慶長三陸地震津波」あるいは「慶長三陸津波」とも呼ばれている。さらに、この地震の7年前には同じく津波地震と考えられ、東海・東南海・南海のトラフ寄りが震源とされる慶長地震があった。
慶長三陸地震 – Wikipedia

慶長三陸地震

津波は、田老や大船渡で最高20m前後の高さであったと推定されている。

津波は現在の三陸沿岸および北海道の太平洋沿岸に来襲し、仙台藩領内で死者1783人(『朝野旧聞裒藁』)(伊達領内で死者5,000人という『駿府記』の記録もある。)、南部藩・津軽藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されている(『駿府記』)。北海道でもアイヌ民族を含め多数の死者が出たという(『福山秘府』『北海道史』)。

『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
慶長三陸地震 – Wikipedia

慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年が経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる。

この時の津波に由来する伝承が、地名などに残されているところがいくつかある。宮城県の仙台市若林区に、海岸から約5.5キロ離れた場所に1702年に建立された「浪分神社」がある。この名称は、この周辺で津波が二手に分かれて引いていったことを示すと伝えられている。同じく宮城県の七ヶ浜町の菖蒲田浜(しょうぶたはま)には、招又(まねきまた)という名称の高台がある。この地名は、避難した人たちが「こっちさ来い」と手招きしたことから付いたと伝えられている。
慶長三陸地震 – Wikipedia

慶長三陸地震

慶長十九年十月二十五日の地震 1614年11月26日 (慶長19年10月25日) 津波あり

M 7.7。震源は直江津沖。震域は会津、伊豆、紀伊、山城、松山諸国まで及んだ。越後高田藩では地震と津波により死者多数とする記録もあるが疑わしい、京都で寺社・民家が多数壊れ死者も出たことから、震源が京都沖の局所的な地震とする見解もある。
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慶長十九年十月二十五日の地震
震源やメカニズムなどが不明の謎の地震
従来、越後高田の地震とされていたもの。大地震の割に史料が少なく、震源については検討すべきことが多い。京都で家屋・社寺などが倒壊し、死2、傷370という。京都付近の地震とする説がある。

慶長19年10月25日(1614年11月26日)には越後高田のみならず、会津・銚子・江戸・八王子・小田原・伊豆・伊那・駿府・三河田原・桑名・伊勢・津・京都・奈良・大坂・紀伊田辺・伊予松山など広い範囲で大地震の記録があり、発生時刻は午-未刻(12-14時頃)との記録がある。
慶長十九年十月二十五日の地震 – Wikipedia

不明な震源域

駿府・三河・伊勢の津波記録を重視すると東海沖、紀伊・伊予の記録は南海沖、越後高田の津波記録は日本海の震源域を示唆し、さらに銚子にも津波記録があり、これらすべてを満足する単一の地震は有り得ないとされる。
慶長十九年十月二十五日の地震 – Wikipedia

同日にM 7.7 、震源伊豆。伊豆と小田原で被害大。津波被害甚大で多くの死者発生。千葉県銚子市の飯沼観音の境内まで到達したとの記録がある。池上本門寺五重塔が傾く。
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江戸地震 1615年6月26日(慶長20年6月1日)

M 6 1/4〜3/4、死者多数。
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宮城県沖地震 1616年9月9日(元和2年7月28日) 津波あり

M 7.0、仙台城が破損。三陸地方大津波。
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1616年 宮城県沖地震

17世紀前半 津波堆積物の分析から、この時期に千島海溝南部(十勝沖から根室沖まで)を震源とするM 8.6クラスの地震が発生したと推定されている。1611年または1635年説あり。

https://matome.naver.jp/odai/2140599999166959301
2015年04月30日