【織田信長】桶狭間の戦い【今川義元】

hogehogeman
日本史ではおなじみの桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)を扱ったサイトリンク集です。戦国時代を生きた織田信長、今川義元、徳川家康、豊臣秀吉のファンの皆さんや、これから歴史を勉強される皆さんのお役にたてれば幸いです。(信長協奏曲でもでてきますね)
桶狭間は愛知県豊明市にあります。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。

今川軍が尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて今川義元は戦死したと言われています。
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。
室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていくことになる。
天正10年6月2日(1582年6月21日)天下統一を目前にして重臣明智光秀に反旗を許し、本能寺で自害した。

(wikipediaより)

今川義元

今川義元
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。

(wikipediaより)

桶狭間の戦いとは

徳川家康も桶狭間の戦いでは大高城(名古屋市緑区)に兵糧を持ち込んで待機していますね

今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発した。
桶狭間古戦場

駿府=静岡市葵区

17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。
桶狭間古戦場

岡崎=愛知県岡崎市
沓掛城=愛知県豊明市

織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになった。
桶狭間古戦場

熱田神宮=名古屋市熱田区

今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。
桶狭間古戦場

丸根砦=名古屋市緑区
鷲津砦=名古屋市緑区
桶狭間=名鉄中京競馬場駅南側

その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。
桶狭間古戦場

太子ヶ根=名鉄中京競馬場駅北側

信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。
この戦いの死者は、今川軍2500人、織田軍830人ほどで、要した時間は2時間という一瞬の出来事であった。
桶狭間古戦場

桶狭間の合戦をザックリと説明すると(かなりおおまか)

1560年(永禄3年)、約2万5千人と圧倒的な大軍を引き連れた駿河・遠江(静岡)を中心として巨大な勢力を誇っていた今川義元に対し、その約10分の1程ともいわれる寡兵(かへい)で立ち向かった尾張を統一したばかりの小大名織田信長が、今川義元を討ち取り見ごと勝利したという日本の歴史上最も有名な戦いそれが「桶狭間の戦い」です。
桶狭間の戦いメニュー – 桶狭間古戦場保存会

桶狭間の戦いを扱ったサイト

https://matome.naver.jp/odai/2140022826493947701
2017年04月16日