三谷幸喜に第1子男児誕生 52歳でパパに!
三谷幸喜に第1子男児誕生 52歳でパパに! (オリコン) – Yahoo!ニュース
おめでとうございます。
三谷氏が大河ドラマを手掛けるのは04年、香取慎吾主演の「新選組!」以来12年ぶり。
同作には堺も山南敬助役で出演し、その演技力で注目を集める存在となった。その後、堺は大河「篤姫」では宮崎あおい演じる篤姫の夫・徳川家定役を務めた。
「真田丸」は主人公・真田幸村の波瀾(はらん)万丈の生涯を勇気と愛に満ちた物語としてオリジナルで描くもの。
三谷氏は、戦国もの、真田幸村を書きたい!との希望を持っており、主演に関しても、三谷氏がNHKに主演・堺を薦めたようだ。
堺雅人、三谷幸喜氏脚本の「真田丸」でNHK大河に主演 (デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース
主演に決定! 堺雅人氏
「49年の生涯のうち、最後の1年間に人生の輝きのほとんどが集中しているイメージを持っています。真田幸村としてこれだけ有名な人物であるにもかかわらず、大坂城攻防戦以外の大部分の時間が歴史に埋もれている気がするのです」
と素直な印象を語った。「逆に言えばそれだけ想像の余地があるわけで、その空白の時間を三谷さんがどう描くのか、どんな新しい人物像が生まれるのか、楽しみで仕方ありません」
2016年大河ドラマ、堺雅人が真田幸村役に決定 「三谷幸喜さんの脚本を楽しみにしています」 (テレビファン・ウェブ) – Yahoo!ニュース
堺さんは「撮影はまだまだ先ですが、皆さまとともに戦国時代を旅することを心待ちにしています」とコメントを寄せている。
また、堺さんは大ヒットドラマ「半沢直樹」(TBS系)も話題になったが、NHKの担当者は「(半沢直樹は)関係ありません。1年にわたって、けん引していただける役者さんだと思っています」と起用理由を説明している。
<堺雅人>16年大河「真田丸」の主演に決定 「心待ち」 (まんたんウェブ) – Yahoo!ニュース
真田幸村のイメージは・・・
実際は・・
大阪入りの際の幸村はどんな感じだったのか・・
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。
信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入った。
大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという(真田の赤備え)。
真田信繁 – Wikipedia
小兵
大坂の陣において、後藤基次の近習を務めた長沢九郎兵衛という者が、後年口述筆記させた『長沢聞書』によると
「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」
とある事から、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)な容姿をした小男であったと言う事が出来よう。
真田信繁 – Wikipedia
九度山蟄居中の手紙で、「昨年から俄に年が寄り、ことの他病気になりました。歯なども抜けました。髭なども黒いものはありません。」と言っている。
真田幸村の人物像 / 真田氏の館 三代録 ——幸隆、昌幸、幸村 真田三代の記録
ちなみに・・兄(信之)は・・
着用していたとされる着物、胴丸等から身長は6尺1寸(約185cm)と推測されている。当時としては非常に長身である。
真田信之 – Wikipedia
弟を語る兄
信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。
また、信之は『幸村君伝記』において
「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」
とも語っている。
「幸村」なのか「信繁」なのか
現在でも「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め信繁が生きていた頃の史料で「幸村」の名が使われているものは無く、その忌み名=諱=実名においては「信繁」が正しい。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣以後で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』がその初出と判明している。
この『難波戦記』が人気を博し流布して広く読まれたため「幸村」名が一般的となったようだ。
時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。
「幸」は真田家(厳密には真田家の本家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来するとの説がある。
真田信繁 – Wikipedia
「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるものの、現在のところ「幸村」という名が記された史料は見つかっておらず、立証されていない。
なお、大坂夏の陣から200年近く後、文化6(1809)年、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。
『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。
真田信繁 – Wikipedia
実際の名は「信繁」
幸村はなぜ人気があるのか?
徳川方との戦いと後世の創作
戦国乱世最後の英雄であり、大坂の陣を契機に、この合戦に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、江戸幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。
さらにはその史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として扱われ、国民の間に流布するに至った。
そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。
真田信繁 – Wikipedia
この戦闘で真田信繁は、初めてその武名を天下に知らしめることとなる
大阪夏の陣
信繁率いる真田隊は、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍をも突き崩すと、後方の家康本陣にまで攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして、その本陣を蹂躙した。真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。
真田信繁 – Wikipedia
2016年をお楽しみに・・
最近は20代の若手俳優の主演が続いているが、NHK関係者は「往年の大河ファンからは、演技力をしっかり身に付けた俳優による骨太な作品を望む声も強い」と話している。
役所や佐藤のほか“三谷組”の俳優、女優は人気者ばかり。
豪華俳優陣による戦国絵巻が展開されそうだ。
16年大河の主人公は真田幸村「真田丸」脚本は三谷幸喜氏 (スポニチアネックス) – Yahoo!ニュース
主要キャスト紹介
真田信繁(真田幸村)–堺雅人
戦国乱世最後の英雄であり、大坂の陣を契機に、この合戦に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、江戸幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。さらにはその史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として扱われ、国民の間に流布するに至った。そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。
ウィキペディアより