【プロ野球】有名野球選手で異名やニックネームを持つプレイヤーまとめ!!(アマチュア含)+出来事

「ID野球」

ヤクルトスワローズ (1990-1998)
IDはImportant dataの略で、監督がチームを作り上げていく場合や選手がプレイする場合に、経験や勘に頼ることなく、データを駆使して科学的に進めていくという手段。野村克也がヤクルトスワローズの監督であった時に提唱して広まっていった。この時期に正捕手として活躍していた古田敦也は、頭脳を駆使した緻密な計算を元とした野球を行っていたことから「ID野球の申し子」と評されていた。

「ちいさな大打者」

若松 勉(わかまつ つとむ)
ヤクルトスワローズ一筋でプレイした元プロ野球選手であり、選手としても、監督としてもヤクルトを優勝・日本一に導いた名選手・名監督である。その小さな体から数多くの記録を作った事から「小さな大打者」の通称で知られる。

通算成績は2062試合に出場し、2173安打、220本塁打884打点、通算打率(4000 打数以上)は.319とレロン・リーに次ぐ2位と非常に高い数値を残している。

「ブンブン丸」

池山 隆寛(いけやま たかひろ)
守備位置は遊撃手、のち三塁手。背番号36→1→36。バックスクリーンへの豪快なホームランと三振の多さで、「ブンブン丸」「ミスターバックスクリーン」の愛称で親しまれた、80年代後半~90年代のヤクルトを牽引したスター選手。準永久欠番だった若松勉の背番号1を引き継ぎ(契約更改で年俸アップの引き替えとして却下前提で要求したら通ってしまったらしい)、ヤクルト一筋で19年間プレーしたことから「ミスタースワローズ」とも呼ばれる。

90年には遊撃手として史上初の3割30本、サイクルヒットも記録。遊撃手として5年連続30本塁打という記録も持っている。

「和製ライアン」、「ライアン小川」

小川 泰弘(おがわ やすひろ)
ノーラン・ライアンを参考にした、左足を大きく上げる投球フォームとオーバースローから平均球速約141km/h、最速148km/hの速球(フォーシーム、ツーシーム)を投げ込む。その投球フォームから「和製ライアン」、「ライアン小川」とも呼ばれる。変化球はカットボール、スライダー、チェンジアップ、フォークなどを持つ。

「ギャオス」

内藤 尚行(ないとう なおゆき)
1986年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。1992年に野村克也監督にクローザーに任命され、5勝6敗10セーブと活躍し、14年ぶりのリーグ優勝に貢献。1995年に千葉ロッテマリーンズ、1996年シーズン途中に中日ドラゴンズにトレード移籍する。

1997年、1991年以降に痛めた肘の影響もあり、29歳の若さで現役引退。

「東都の不沈艦」

高市 俊(たかいち しゅん)
青山学院大では東都リーグ史上初の三年連続MVPに輝くなど数々の記録を塗り替え、あらゆるタイトルを総ナメに。契約金1億円、出来高5000万円、年俸1500万円と最高の待遇でヤクルトに入団。即戦力と期待されたが、残念ながらプロではその実力が発揮されることはなかった。通算成績は15試合登板、0勝2敗、防8.35。

「ハマの核弾頭」、「突貫小僧」

波留 敏夫(はる としお)
横浜ベイスターズ・マシンガン打線の2番として1998年には横浜の38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。翌1999年は打率.298を記録し、2番打者ながらキャリア・ハイとなる15本塁打、70打点、21盗塁を記録。また守備(センター)ではライナー性打球にも頭からヘッドスライディングで捕球に行くといった闘志を剥き出しにしたプレーを見せ「突貫小僧」、「ハマの核弾頭」の愛称を持った。

「豆タンク」「ハマのプーさん」

宮崎敏郎
「豆タンク」と称される小柄な体型(横浜DeNAでの身長は公称で172cm)ながら、打席では左足を上げてからのフルスイングで、右方向を中心に広い角度にわたって長打力を発揮。セガサミー時代の2年間に3番を任されたのも、「放っておけばずっと打撃練習(に明け暮れていたこと)」に加えて、「スイングが速く、(打席で)我慢できる分だけ、投球を捉える能力が高かった」からという。その体型と風貌から「ハマのプーさん」と呼ばれている。

「ハマの大魔神」「DAIMAJIN」

佐々木 主浩(ささき かづひろ)
1968年2月22日午前2時22分生まれ。この生年月日時刻が由来となり、背番号は一貫して22だった。

横浜(現DeNA)、大リーグのマリナーズで「大魔神」の異名で絶対的な守護神として活躍し、日米通算381セーブをマーク。持ち球は、150km/hの速球、140km/h弱のスピードと落差を併せ持ったフォークのほぼ2種類。カーブも投げられるが、ごくたまに投げる程度だった。

「ハマの番長」

三浦 大輔(みうら だいすけ)
トレードマークはリーゼントだが、性格は真面目。自分に厳しく他人に優しいナイスガイ。て91年ドラフト6位で横浜(当時は横浜大洋ホエールズ)に入団。95年から先発ローテーションの一人になり、98年には優勝と日本一に貢献。通算奪三振数はNPB歴代15位、球団1位。通算勝利は球団3位。通算完封は球団4位。

「マシンガン打線」

横浜DeNAベイスターズ の打線
90年代末期の横浜ベイスターズの打線の愛称。99年には当時の日本記録となるチーム打率.294を記録した。なおメディアで「マシンガン打線」という言葉を初めて使用したのは日刊スポーツとされる。

「カミソリシュート」

平松 政次(ひらまつ まさじ)
「カミソリシュート」の異名を取る、凄まじい切れ味を誇るシュートを武器に、大洋ホエールズで18年間活躍した。愛称は「カミソリ平松」。風邪をよく引いたり故障が多かったことから「ガラスの平松(ガラスのエース)」とも。大洋・横浜の生え抜き投手としては日本プロ野球でただ一人200勝を達成している投手でもある。(一時的に所属していた投手も含めるならば、現役晩年に所属していた小山正明と工藤公康がいる。)

「スーパーカートリオ」

高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3人衆
1985年シーズンに日本プロ野球(NPB)の横浜大洋ホエールズでトリオを組んだ高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3人のこと。この年の3人の盗塁数は高木が42盗塁、加藤が48盗塁、屋鋪が58盗塁の合計148盗塁だった。1チーム3人以上が40盗塁を同時に記録したのは日本プロ野球(NPB)史上でもこの一度だけである。

「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」

杉浦忠
地面ギリギリから浮かび上がるようなストレートと大きな横のカーブが武器であった。カーブは変化が大きく、ストライクと思って空振りした左打者の体にあたることもしばしばだった。張本勲は、アンダスローの投手では「1.杉浦忠、2.秋山登、3.山田久志」の順で球の威力がある投手と評している。

「ダイハード打線」

福岡ダイエーホークスの打線
1999年に福岡移転後最初のパ・リーグ優勝・日本一、2000年に福岡移転後初のパ・リーグV2を達成したダイエー打線の愛称として、当時球団社長であった高塚猛が付けた名前。この「ダイハード打線」の愛称は地元福岡のマスメディアを中心に使われたが、地元ですら浸透度が高くはない。

「怪童」

中西 太(なかにし ふとし)
香川県高松市出身の元プロ野球選手。現役時代は数多くの伝説を残す強打者であり、現役引退後は数多くの打者を育て上げた名コーチとして知られる。愛称は「太っさん」。あるいは「太」。

高松第一高等学校時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。

「熱男(あつお)」、「マッチ」

松田宣浩(まつだ のぶひろ)
攻守走すべてにおいてスピード感あるプレーが持ち味で、強肩を生かしたスローイングと三拍子揃ったプレーが魅力。球界を代表する三塁手の一人であり、三塁手として史上最多の通算7度のゴールデングラブ賞を受賞している。また打撃でのフルスイングも魅力。

「ドカベン香川」

香川 伸行(かがわ のぶゆき)
野球選手としては非常に横幅の大きな体格で、水島新司の野球漫画『ドカベン』の主人公・山田太郎に体型が似ていたことから、ドカベンの愛称で呼ばれた。打撃は天才的だが、鈍足で肩も強肩とは言えず、捕手としての評価は賛否両論がありながらも、ドラフト2位で南海ホークスに指名され入団。1980年の対近鉄戦(投手・井本隆)ではボールカウント0-3から日生球場レフト場外への特大の初打席初本塁打を放った。1983年には規定打席に達しなかったものの打率.313、15本塁打でベストナインに選出。しかし、その後は太り過ぎにより成績が下降していった。

「常勝軍団」

西武ライオンズ(黄金期)
広岡達朗監督の下で基礎を作り上げ、森祗晶監督の下で常勝軍団になり、日本一を繰り返した。当てはまる期間は森監督政権の1986年~1994年。この9年間の間にリーグ優勝8回、日本一5回と圧倒的な戦績を残している。

「平成の怪物」、「Dice-K」、「D-Mat」※アメリカメディア

松坂 大輔(まつざか だいすけ)
高校時代は150km/hオーバーの直球と多彩な変化球で横浜高校のエースとして大活躍し「平成の怪物」と呼ばれた。1998年には甲子園の春夏連覇を果たしている。

プロ入り後は3年連続で最多勝を獲得するなど輝かしい成績を残して、2007年より海を渡りメジャーへ。

「松坂世代」

80年4月2日~81年4月1日までに生まれた野球選手
1980年4月2日から1981年4月1日までに生まれた人物を指す言葉。冠名になっている松坂大輔自身が甲子園で素晴らしい成績を残したのはもちろん、同年代の選手の多くが活躍している事からこの言葉が生まれた。

「V9の頭脳」

森祇晶
元プロ野球選手(捕手)・指導者・監督、野球解説者。本名「森 昌彦」(もり まさひこ)。巨人V9時代の正捕手。「V9の頭脳」の異名を取った。西武監督時代は在任9年間でチームを8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた。2005年に野球殿堂入り。

「AK砲」


https://matome.naver.jp/odai/2139807861381775801/2140080810368187003
秋山 幸二(あきやま こうじ)&清原 和博(きよはら かずひろ)
AK砲(AKほう)は、80年代後半から90年代前半に黄金時代を築いた西武ライオンズの3,4番打者秋山幸二、清原和博を指していた言葉。数多くのアベックホームランなど、森祇晶監督指揮下の常勝軍団とさえ呼ばれる時代を支えた。バークレオ、デストラーデを加えたクリーンナップは、それぞれAKB砲、AKD砲とも言われた。「AKアベック不敗神話」というものがあり、1986年から1993年の8年間でのAKアベックホームランは通算62回(52勝8敗2分 勝率.867)であった。

「カリブの怪人」

オレステス・デストラーデ
1989年6月、不振にあえぐバークレオの代役を探していた西武ライオンズから緊急獲得され入団。デビュー戦からホームランを量産し、3番秋山幸二・4番清原和博に続く5番打者として不動の地位を築いた。秋山・清原のいわゆる『AK砲』にデストラーデを加えたクリーンアップトリオは『AKD砲』とも呼ばれ、西武黄金時代を華やかに彩った。

「おかわり君」

中村 剛也(なかむら たけや)
高校時代は大阪桐蔭高校の4番打者として活躍、高校時代の通算本塁打83本は中田翔、大島裕行についで史上3位。2001年ドラフト2巡目で西武ライオンズに入団。2008年に46本塁打を放ち本塁打王を獲得。2009年は自己最多の48本塁打を放ち、2年連続の本塁打王と、初めて打点王を獲得。また2011年にも自己最多タイの48本塁打を放ち、本塁打王を獲得。日本が誇る長距離砲に育っている。

「メジャーに最も近い打者」、「ホームランアーティスト」、「ミスターメイ」

秋山 幸二(あきやま こうじ)
現役時代は西武ライオンズと福岡ダイエーホークスで活躍。ポジションは三塁手、のち外野手。1989年、初の3割を記録。打率.301、31本塁打、31盗塁で日本プロ野球史上5人目のトリプルスリーを達成。1990年、盗塁王を獲得。35本塁打、51盗塁を記録し、プロ野球史上初の30本塁打・50盗塁を達成。また、史上初の本塁打王受賞経験者による盗塁王となった。常勝軍団西武ライオンズの中心選手として長く活躍した。

「優勝請負人」

工藤公康
愛知県豊明市出身の元プロ野球選手(投手)。所属した西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズを制覇したことから、優勝請負人と呼ばれた。2012年 – 2014年の3年間、野球解説者・野球評論家として活動し、2015年からは福岡ソフトバンクホークス監督として指揮を執ることとなっている。

「鉄腕」

稲尾 和久(いなお かずひさ)
1956年、ルーキーイヤーから活躍。21勝6敗、防御率1.06と、驚異的な数字を叩き出しこの年の新人王と最優秀防御率となる。プロ野球記録は1943年の藤本英雄(巨人)が記録した0.73だが、2リーグ制導入後、パリーグ記録として現在も破られていない。

1961年にはヴィクトル・スタルヒンと並ぶシーズン最多勝利42勝を記録し、シーズン最多登板記録(当時)となる78試合に登板するフル稼働を見せた。

「ケンカ投法」

東尾修
1968年に西鉄ライオンズに入団。以降太平洋クラブ、クラウンライター、西武と、ライオンズひと筋にプレーした。1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する投手であり、同年代の山田久志(阪急)、村田兆治(ロッテ)、鈴木啓示(近鉄)らとしのぎを削った。愛称は「トンビ」(東尾の音読み)。

「闘将」「燃える男」

星野 仙一(ほしの せんいち)
通算成績は500試合に登板し146勝121敗34セーブ、防御率3.60。74年に沢村賞を獲得。ONを擁し黄金時代を誇った巨人相手に35勝31敗と勝ち越すなど、巨人キラーとして名を馳せた。

「闘将」という異名は監督に就任してからのもので、感情をそのまま出し、吠えたり暴れたり、容赦なく鉄拳制裁を振るう熱血タイプの指揮官としてチームを鼓舞しいくつものタイトルを手にした。

「怪童」

尾崎行雄
非常に球の速かった投手で、右肩痛を発症するまでは球種のほとんどがストレートであった。プロ野球史上における速球投手の話題では、必ずと言ってよいほど名前が挙がる選手である。中京大学体育学部湯浅景元教授の計算によると、尾崎の直球は159キロは出ていた。1973年に29歳という若さで現役を引退。プロ通算107勝を挙げ、夏の甲子園の優勝投手としては戦後初のプロ通算100勝投手となった。

「平成の怪物」

中田翔
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)。高校通算87本塁打、甲子園でも歴代7位となる4本塁打を打った。高校時代に推定飛距離170メートルの本塁打を放った日本人離れした長打力を持ち味とし、体勢を崩されてもスタンドにボールを運ぶ。

「二刀流」「みちのくのダルビッシュ」

大谷翔平
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手、外野手)。プロ野球では非常に珍しい投手と打者の「二刀流」選手として注目をされており、NPBタイ記録の球速162km/hを投げる日本人最速投手。打者・野手としては、高校通算56本塁打の長打力と一塁到達4.1秒台の俊足、強肩を兼ね備える。高校時代にはプロのスカウトから「高橋由伸タイプで、三冠王を狙える素材」「松井秀喜以来の長距離打者」と評された。

「最後のPL戦士」

中川 圭太(なかがわけいた)
オリックス・バファローズに所属する大阪府阪南市出身のプロ野球選手(内野手)。PL学園高校は、中川を初めとする60期生が硬式野球部を引退したこと(2014年10月)を機に、新入部員の募集を停止。そのため中川については「PL学園最後のプロ野球選手」「(プロ野球)最後のPL戦士」と報じられることが多い。

「サイレントK」

石井 裕也(いしい ゆうや)
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手。先天性難聴であり、左耳は全く聞こえず、右耳も補聴器でかすかに聴こえる程度である。ハンディキャップがありながら三振を奪っていく投球から「サイレントK」と呼ばれている。140km台中盤~後半の直球。得意球は、スライダーとスクリューボール。2009年にはフォークボールを習得。

「親分」

大沢 啓二(おおさわ けいじ)
1956年、立教大学から南海ホークスに入団。大学の2年後輩に長嶋茂雄と杉浦忠がいた。プロでは外野手として頭脳的な守備で鳴らし、「打者の打球傾向ごとに守備位置を変える」というプレーを日本プロ野球に広めた。59年、杉浦の4連投4連勝で巨人を破った日本シリーズではその好守で巨人の攻撃を断ち切り、影のMVPとも言われた。65年、東京オリオンズに移籍し同年現役を引退。

監督時代は通算7回の退場記録(マーティ・レオ・ブラウンに抜かれるまでの最多記録)を持つ。べらんめえ口調とどう見てもそのスジの人な風貌(と、退団した選手の就職先を見つける面倒見の良さ)から「親分」と呼ばれた。

「ドクターK」「トルネード投法」

野茂 英雄(のも ひでお)
個性的で特異な投球フォーム「トルネード投法」(トルネード)から繰り出す球威と伸びのあるストレート、伝家の宝刀フォークボールで緩急を付けて三振を取りにいく本格派投手。奪三振の多さから「ドクターK」の異名を持つ。

大阪近鉄バファローズに5年、その後は日本人メジャーリーガーとして活躍したパイオニア的存在。メジャーでは2度の“ノーヒットノーラン”を記録している。

「いてまえ打線」、「猛牛打線」

大阪近鉄バファローズの打線
「いてまえ」とは大阪弁で「やっちまえ」を意味し、打線の雰囲気と地域性を同時に表すネーミングである。1992年~1994年頃のいてまえ打線はラルフ・ブライアント、石井浩郎らの長打力に、大石大二郎を中心とした機動力をミックスして得点を挙げていたが、2001年?2002年には、ほとんど機動力に頼らず、タフィ・ローズ、中村紀洋らを中心とした長打力で得点を挙げることが多く、時代によって多少毛色が異なっている。

「ミスターフルスイング」

中村 紀洋
大阪の渋谷高校から近鉄バファローズに入団。 2000年には本塁打王と打点王を獲得し、2001年にも打点王を獲得しこの年の近鉄優勝に貢献した。 2005年にはポスティングでロサンゼルス・ドジャース入りするも振るわず1年で帰国。その後、オリックス→中日→楽天→横浜と様々なチームを渡り歩いた。

「ハゲ魔人」「テカテカ投法」「ピッカリ投法」

佐野慈紀
本名:佐野 重樹(読み同じ)。異名と言うか、愛称で「ハゲ魔神」としてファンに親しまれた。1990年のドラフト3位で近鉄バファローズに入団。ルーキーイヤーの1991年では中継ぎ中心に登板して6勝を挙げた。1993年には、防御率2.00(厳密には1.995)を挙げ、近鉄では主に中継ぎ投手として活躍。1996年オフには中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の1億円プレーヤーとなる。しかし1998年、肘の故障で低迷をたどった。

「コンニャク打法」

梨田 昌孝(なしだ まさたか、本名:梨田 昌崇※読み同じ)
ドラフトで近鉄バファローズに入団。強肩が売りだが打撃に定評がなく、有田修三に一時期正捕手を奪われそうになった。その際に開発した打法が「蒟蒻(こんにゃく)打法」である。プルプルと体を震わせるように力を抜いて打つという打法で見事に打撃開眼を果たし、正捕手の座を奪う。

1979年の球団初パリーグ優勝経験選手の一人であり、その年から81年まで3年連続でベストナインとダイヤモンドグラブ賞を獲得し、パリーグを代表する捕手に成長した。守備面では福本豊が現役時代で盗塁を重ねていったのにも関わらず、盗塁阻止率5割を記録するなど、かなりの守備力を誇った。

「赤鬼」

チャーリー・マニエル
並外れたパワーと興奮しやすい性格から「赤鬼(あかおに)」の異名を持っていた。日本ではヤクルトスワローズ、近鉄バファローズの2球団で両チームの初優勝に大きく貢献する活躍を見せ、メジャーでもフィラデルフィア・フィリーズにて監督を務め、チームをワールドチャンピオンに導いた。

「安打製造機」「魔法使い」「振り子打法」

イチロー
本名:鈴木一朗。主な背番号は51番。愛知工業大学名電高校からドラフト4位でオリックスに入団。7年連続首位打者となり、自身で持つ日本記録を更新した。3度のリーグMVP受賞、7年連続ベストナインに選出され、堅実な強肩右翼手として7年連続ゴールデン・ グラブ賞を受賞する。

2000年11月フリーエージェントとしてシアトルマリナーズに移籍。2001年アメリカンリーグの首位打者、盗塁王、新人王や日本人初のMVPを獲得した。2007年にはオールスターでMVPを獲得。2012年途中、名門ヤンキースへ電撃移籍し、自身初の背番号31を背負っている。

「不惑の大砲」

門田 博光(かどた ひろみつ)
南海・ダイエー、オリックスで主に指名打者として活躍した。40歳を超えても活躍した数少ない選手であり、「不惑の大砲」の異名を持つ。また63年40歳で本塁打王となり,「中年の星」とも呼ばれた。実働23年、本塁打王3回、打点王2回、通算2566安打、2割8分9厘、567本塁打。平成18年野球殿堂入り。

「史上最高のサブマリン投手」※球界関係者から

山田 久志(やまだ ひさし)
現役時代は12年連続開幕投手を務めるなどし、アンダースロー投手としては日本プロ野球最多となる通算284勝を記録した。引退後は野球解説者・スポーツ野球評論家、コーチ・監督などをつとめている。
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