「永遠の0」と大東亜共栄圏

Chen100Qiang_
悲しいテーマであるがゆえに、単なるエンタメで終わらせたくない映画です。なぜ、彼ら(戦闘員・特攻員)は、死を覚悟しなければならなかったのか。何のためか。「生きたい」と言うことが難しかった、その時代の背景と、その後の顛末を一緒に学んでおきたいものです。
映画:永遠の0【編者感想】
戦争を知らない世代に、重たい歴史観を担わせるだけではかえって逆効果だと(個人的には)痛感させられている。むしろ、本作のように、そういう時代があったんだと、忘れてはいけないんだと、エンタメ調で構わないから知ってもらった方がいい。作家・百田氏の振る舞いが作品への評価を動揺させている面もあるが、この作品の意義をひと言で総括したい。「(最初から)死んでいい命はない」。どうやって平和な時代を作っていくのか、それを目的にできる色々な考え方の人たちで、これからの時代を作っていってもらいたい
http://www.youtube.com/watch?v=6G1OHLyMY7U
映画『永遠の0』 あなたは特攻隊員の死に逝く眼を直視することができるか|ヘンテナブログ
特攻隊を美化する作品について私は反発的なのですが、この映画および原作では、もっとも興味深いところである『死をあれほど恐れた宮部久蔵が、なぜ特攻隊に志願したのか?』について、明確な答えを描かなかったことに好感を持った。死を恐れた宮部が、確率100%の死を与える特攻に志願した理由がひとつであるわけがない。観た&読んだ人たちが、「納得はいかないけど、そう決めた理由がなんとなくは分かる」くらいに感じてくれればいいんじゃないかなと私は思う
百田尚樹:作家の読書道|WEB本の雑誌
デビュー作の『永遠の0』が大ベストセラーとなっている、放送作家(『探偵!ナイトスクープ』など)・百田尚樹氏。書き始めてからわずか3ヶ月で一気に書き終えた。しかし、出版してから、本は売れなくて書評にもひとつも載らなかった。(三作目の)『ボックス!』でやっと執筆依頼がくるようになった。ただ、『永遠の0』が箸にも棒にもかからんのではなく、そもそも読まれてなかったと気付いた
作画:須本壮一氏インタビュー:映画公開記念 百田尚樹も絶賛のコミック版『永遠の0』
そもそも、『夢幻の軍艦大和』(講談社)という連載を長く続けていたこともあって、日本の近代史について詳しくなっていたし、軍艦や零戦などの兵器を描くのにも慣れていた。ラストは違う形を取ってみたいと話して、同意を得たという。主人公・宮部はなぜ特攻を拒否しつづけていたのか。この大きなテーマで展開される小説では、最後まで曖昧な形を取り、読む人の心の中の解釈に任せている。だから、コミックスの最終巻は須本氏のニュアンスで描いてみせた

▼本作品は、実は、小説にしても映画にしても、かなり深かった


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戦後日本の特殊事情(まとめ編者)
多くの悲劇を生んだ戦争末期。そこに、戦前・戦中の日本の、言い訳しえない問題が集中している。特攻はまさにその一つだった
『「永遠の0」と日本人』小川榮太郎著
(主人公の)宮部久藏とは、(作者が仕掛けた)傀儡なのだ。読者を、兵士の日常の心境へと導くためであり、もし、最初から軍人精神そのものを生きている主人公を登場させたのであれば、現代の読者には取りつく島がない。宮部の葛藤が積み重なり、現代人の我々は共感できる。そして、宮部の生から死への転換のタイミングで、軍人として死ぬという生き方にも共感できるようになっていく。この宮部の葛藤を通して、「特攻隊とは何だったのか」というテーマを、我々が考えるにあたって、必要な材料が提供されている

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生きることの大切さが意味するもの(まとめ編者)
「死にたくありません」と言い続けた主人公が、最後には特攻を志願する。その間には物語の大きな転換点があり、その隔たりが意味するものを、本作品の核心的内容と考えてみよう

多くのアメリカ軍の将兵が、特攻隊の行動を「不可解」であり「非人間的」であると感じていた。日本人がある宗教の狂信的な信者ではないかと思った
『「永遠の0」と日本人』小川榮太郎著

もし、特攻を非人道性や狂気で表現するなら、戦争そのものが狂気である。普通の人間に殺意が生まれることは稀であるにも関わらず、戦争という現象は起こる。個人的な動機のない殺戮が繰り広げられてしまうのだ。では特攻作戦とはなぜ狂気と表現されたか。それは作戦としては「正道」ではなかったからだ。ただし、本当の狂気、特に集団狂気とは、忘我の残虐さと、殺意なき大量殺人として現れる。しかし、特攻作戦は、静かな理性と諦念と勇気があるだけだった


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よくある誤解(まとめ編者)
映画でも、若者たちが誤解していた点だ。特攻とテロとの決定的な違いは、特攻の対象が、巨大な殺戮兵器である空母などを狙った点だ。これを捨ておけば、また、多くの日本人が殺されてしまう。テロの対象は、無関係な市民であることが多い

特攻は、狂気とは最も対極にあったと言える。
1)特攻は、非戦闘員への無差別攻撃ではなかった
2)戦争末期にあって、最大効果が見込める作戦だった
3)事前の研究と実験が短時間にて重ねられた
『「永遠の0」と日本人』小川榮太郎著

日本の軍隊の思想は、欧米の職業軍人とはまったく異なるものだった。特攻とは、武士道の、大東亜戦争における究極の発露だったと言える。それは、組織だった作戦となる前に、個々人の判断で行われていたのだった。しかし、戦局が不利になると、この方法しか残されていなかった。軍人個人にとっても、愛する家族がいる日本を守ることに異論はなかったはずだ

特攻攻撃がアメリカ海兵隊の兵士たちに与えた衝撃と恐怖があまりに大きかったために、極度に過小評価されていた。特攻機の突入成功率はフィリピンで26%、沖縄作戦で14%。その後の史料研究でもこの数字は上がり続けている
『「永遠の0」と日本人』小川榮太郎著

米海軍の機密文書によると、特攻の効果率は敵艦至近になると驚異的な数字を記録している。アメリカ艦隊の激しい銃砲弾をかいくぐって、ボロ飛行機が単身突入していくのであるから、文字通り「驚異」で「脅威」だったことだろう。また、こうした特攻攻撃を受けるアメリカ軍からすると、帰国して華やかな日常に戻るはずだった兵士にとって、そこで死ぬことはまさに無駄死だったに違いない。戦争ノイローゼがむしろアメリカ軍の方で多発したのも必然的なことだった

▼変な議論を巻き起こしてしまった『永遠の0』の大ヒット

日々の鍛錬を欠かさず、機体の整備も人一倍入念。(これらはすべて主人公が生き残ろうとするためのことだったが)当然のことが当然のこととしてまかり通らない「空気」が支配していた時代に、宮部はこの映画の中で、その空気に抗う存在だった。宮部久蔵の生き残るための合理的思考の源泉は、「お国のため」ではなく、徹底的に家族への思いだった。国のためにと思考停止をして、犠牲を賛美すべきではない、という図式にこの映画自体は立っている

特攻というのは搭乗員への死の宣告であり、同時に敗戦を前提とした自暴自棄的な作戦であり、敵側からは命がけで突っ込んで来る恐怖の存在だ。したがって、この作戦に関しては、最大限の非難と批判がされるべき。もっと言えば、「戦争を終わらせることができない」軍並びに政府の指導者の責任感不足、指導力不足のために継続されたものだ。問題は「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていないこと。「特攻は自爆テロではない」という主張、そのこと自体は間違っていないが、国軍の正規の作戦命令として「自爆攻撃」を強いたのは、当時、大日本帝国だけなのだ

作品の欺瞞。それは、まず、自爆テロの対象が非戦闘員であると指摘し、敵兵士を攻撃する特攻とは違うのだと主張したこと。他に手段のない、テロリストの同情されるべき状況は無視されている。また、自分も米兵も人殺し、殺さなければ後で殺される、だから戦闘不能状態の相手も撃ったという動機。「特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない」と、特攻とテロとの違いを強調したのもこれと同様だが、そもそもこの類の正当化なら、人殺しをどうとでも主張できる。そして、この戦争で犠牲になった外国の視点がまったく無視されている

NHKのドキュメンタリーシリーズで「証言記録 兵士たちの戦争」という秀作があり、ここで語られることの多くは前線の兵士たちの悲惨な体験で、「加害性」についてはあまり多く語られていない。しかし、被害者としての兵士たちに焦点をあてることで戦争の悲惨さを十分に伝えている。これは『永遠の0』も同じで、国家のための個人の犠牲を単に「正当化」した作品とは断定できない。ただし、この小説が映画化されてしまうと、軍部批判や特攻批判等の部分が相当薄まっていた。また、百田氏の言動には同意できないことだらけなのも作品を毛嫌いさせてしまっている


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「美化」されることとは(まとめ編者)
本作品にて、戦争美化とか特攻美化と言われることがある。確かに、悲惨でかつ残酷な作戦である特攻をことさら誉める必要はないだろう。また、戦争美化などもっての他だ。ただ、これだけは言いたい。当時、極度の被害妄想の中、日本人は、日本国の滅亡という悪夢を想像してしまった。国や家族を守るためにこれらを許容し、覚悟に至った人々に対しては心から敬意を評したい

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作戦としては愚の骨頂(まとめ編者)
特攻員に対する最大限の敬意や、当時の日本人の感覚に対しての配慮は必要だろう。ただこれらとは切り離し、特攻を作戦として採用した軍部に怒りを禁じ得ない。このテーマは、ただの歴史評論にしてはいけない。「今日の私たち」の教訓にして、特攻作戦を全面否定する必要がある。戦争を決断する人間は、人の死を前提にした作戦を立ててはいけない。人の命は指揮官の駒ではない
『永遠の0(ゼロ)』(百田尚樹・著)をニッポンの「建国記念の日」に、ロサンゼルスで読んでみる
戦後70年が経過しようとしている今、日本の若者が、戦争体験者の話を聞くなど、恐らくもう不可能と言ってもよいだろう。そんな、戦争に縁のない、多くの若者たちの気持ちを一変させたのが、『永遠のゼロ』という作品の存在価値だろう。それは、自虐史観的な反戦左翼思想ではなく、かといって濫りに愛国心を煽るような右翼思想でもない。今、私たちが「平和」に生きているこの日本という国の未来を守るため、そして、生きて愛する人たちのもとに帰るため、絶望の淵で何としても生きようとした人間の、愛と、命の話だ

映画に登場する若い人たちが、「(特攻は)洗脳された狂信的愛国者だろ」「ヒロイズムってやつ?」「お前自分が何者かわかんなくなっちゃってさ、自分のアイデンティティ探してんだろww」「その話興味ありませーん」、この映画に出てくる現世の二十代が適当すぎて哀しかった。ただ、それでも、演者が素晴らしいお芝居をし、ラストシーンも(賛否両論の嵐だけれど)わたしは好きだったぞ

▼「特攻隊」とは何だったのか

日米双方の視点(英語):Kamikaze|rotten
神風の言葉の由来や、武士道に見られる切腹などを取り上げ、第二次大戦末期に始まった神風特別攻撃の誕生を説明している。そして冒頭や末尾で「911」の自殺テロに触れ、双方は共通点があるのか、異なるのかを説明している。『永遠の0』の作品の中にも両者の比較をめぐっての議論が登場するが、結論としては、似て非なるものだとの主張になっている点で、本サイトと同作品は一致する
神風特攻(英語):Kamikaze Attack, 1944|Eye Witness to History.com
「神風は、あらゆる方角からやってきた」。特攻への恐怖を示す証言は数多く残っている。しかし、戦闘機の実力差逆転、無理な作戦を強いた戦術ミス、そして医療体制の未整備、さらに特攻というパイロットを無駄遣いする作戦が、ますます日本軍を不利にしていった
物理的に見る特攻の効果|元帥府
零戦の水平特攻をみた場合、2倍以上も急降下爆撃の方が速い。たとえば、有名なこの写真に写っている零戦は、この直後、ミズーリの分厚い舷側装甲に弾かれて海面に落下する。戦艦の舷側装甲は重量1.5t、初速700m/s以上の巨弾に耐えうる設計になっている。零戦の速度は約250km/h程度と思われる。爆弾重量500kg、秒速70mで、舷側装甲を貫ける訳がない。特攻においては、パイロットが最後まで機体を操るために、命中率はいくらか上がるかもしれない。しかし、機体も搭乗員も失うという戦術は、間違った選択である
特攻機による戦果:カミカゼ特攻機命中率56%の虚報|鳥飼行博研究室(東海大学)
出撃した特攻機は、敵戦闘機に迎撃され,対空砲火に砲撃され、目標を冷静に選択する余裕はなかった。正規空母を攻撃したかったが、そこまで辿り着くのは困難であるようだ。空母の位置も不明である。敵戦闘機も迎撃してくる。こうなれば、撃墜される前に、発見した敵艦艇に突入するのが、特攻で成果をあげる唯一の道のように思える。「特攻機の命中率56%という米軍の新資料発見」とは虚報だった
学徒兵 許されざる帰還 ~陸軍特攻隊の悲劇|NHK
爆弾を積んだ飛行機もろとも敵に突撃する“特攻兵”。万策尽きた海軍が、特攻作戦をレイテ沖海戦で敢行。これに続き、陸軍も特攻隊を編成した。しかし、そこに投入された多くのパイロッは、訓練期間わずか1年の学徒兵だった。特攻隊の装備はほとんどが旧式。しかも彼らは、慣れぬ海上で成算なき攻撃を繰り返し、300人を超える命を散らした。その真実を生き残った特攻兵員が語る。機材不良で帰還せざるを得なかった彼らは、「人間のくず」とも罵られ、隔離収容された

不条理としか言いようのない自らの宿命に対して、自分をいったん離れた視点から意味付けをしようともがく(特攻を強いられた人々)。戦争を、肯定・否定というロジックで後知恵でくくるのは簡単だが、それでは上っ面だけになって見えてこない、(彼らの)苦衷をこそ汲み取るべきだろう
NHKスペシャル「学徒兵 許されざる帰還~陸軍特攻隊の悲劇」をみて: ものろぎや・そりてえる

特攻は志願によるという建前がありつつも、実際には選択の余地などなかったことは番組中の証言者も語っていた。「俺も後から続く」と言って送り出した指揮官のほとんどは戦後も生き残った。平気で若者を使い捨てにして、それを志願という建前で正当化する態度には卑しさを感じてしまう。国のために死ぬのはいいとして、何のために死なねばならないのか?こんな言葉があった。「負けて目ざめることが日本の為だ…俺たちはその先導になるのだ」
※参考:保阪正康『「特攻」と日本人』(講談社現代新書、2005年)、吉田満『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫、1994年)

「特攻隊」スライド学習:航空特攻作戦とは|知覧特攻平和会館
沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した1945年3月26日から始まった。特攻作戦とは、重さ250㎏の爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは「必ず死ぬ」という『必死』条件の作戦だ。特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃している。知覧基地が最も多く、全特攻戦死者1036名のうち439名、全員の半数近くが知覧基地から出撃している。本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日から始まり、7月19日終了
知覧特攻基地跡(鹿児島県):見送るものなく若者たちは出撃した|MSN産経west
【文章:福嶋敏雄】「きさまたちは神になるのだ」。太平洋戦争の末期、こう叱咤され、フィリピンや沖縄沖で多くの若者が「カミカゼ特攻」を敢行した。かれらは、ほんとうに「カミ」になったのか。約1900機の「カミカゼ」が、沖縄沖に展開していた米国の大艦隊を目指した。当時、世界でもっとも頑強なエセックス級空母の体当たりに成功するなど、戦果はあった。だがそのほとんどは、おびただしい数の戦闘機や、敵艦からの攻撃によって撃墜された
九州地区の神風特攻主要基地
南九州は沖縄に向けての特攻基地が非常に多く集中した地域で知られ全国の陸海軍の航空隊より特攻機が陸海軍の各特攻基地より連日、沖縄に向けて飛び立って行った。知覧
や鹿屋、万世ばかりが特攻基地としてクローズアップされるが、他にも基地はあった。たとえば、宮崎基地も陸海併せて387名もの若者が飛び立ち、「散華」した。管理人の言葉「日本の為、日本人の為に戦い命を投げ出し戦ってくれた多くの若き防人達に心より感謝の念を捧げます」と。
「特攻とは何だったのか」を読んで|志村建世のブログ
特攻隊の全体像をまとめた、すぐれた解説書になっている。4つのフレーズがあったとされる。まず、戦場で被弾した飛行機の操縦士が、生存の可能性を捨てて敵に突入する「偶発的な特攻」。次に、レイテ決戦中の敵空母の「飛行甲板を10日間使用不能にする」などの目的があった段階。それがいよいよ、「犠牲と効果とのバランスを考慮」せず、志願の建前も形骸化していく段階。そして最後に、統制を失って「使えるものは何でも使う」思想で行われた末期の特攻。こうして、戦時中は願望を含めて過大に評価されており、真実がわかったのは戦後になってからのことだった

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形骸化こそ、問題の本源(まとめ編者)
組織とは、個人では成し得ない力を発揮する。そしていつしか、個人では止めがたい勢いとなって暴走を始める。これが物事の真理だ。当初の特攻が、各兵士個人の機転で始まり、死を覚悟した兵士の模範的行動となり、それが「やむを得ない作戦」として採用された。しかし、いったん組織化された作戦は、やがて強制性を伴い、上層階級にいた人間の恣意的な運用をされるようになる。ここにこそ、本当の問題が存在している
神風特攻隊隊員達の貴重な画像がロシアのサイトで紹介される|世界の憂鬱
【まとめ編者感想】人の命を、将棋の捨て駒のように扱ったのが特攻攻撃だった。現場の勇猛果敢な自主判断だった行為が、やがて必勝を期した特別作戦となり、そしていつしか死刑執行を事務的にこなしていく日課業務となった。特に、やるせない気持ちになってしまうのは、召喚するときに特攻であることを告げず、形式的には志願という形態を取り、なおかつ特攻のみに役立つ操縦方法を即席で教えていた。そのすべては、みずからが特攻に行かない人間たちによって、机上で決められたずさんで無責任な実態だった
「特攻」|NHK 戦争証言アーカイブス
1944年6月、日本軍はマリアナ沖海戦で400機に及ぶ航空機とベテラン搭乗員を失った。こうした兵力の減少と搭乗員の技量低下の中で、体当たり攻撃をするほかはないという声が上がり始めた。また、特攻専用の兵器も開発された。モーターボートに爆弾を積んだ「震洋」、人間魚雷「回天」、爆弾とロケットエンジンを組み合わせた「桜花」などである。写真の「桜花」は、終戦までにあげた戦果は、米軍によると駆逐艦1隻のみ。一方失われた搭乗員は、一式陸攻も含めて430人にのぼった

▼「特攻」が象徴した戦前日本の限界〜大きすぎた代償

特殊潜航艇「甲標的」九軍神による日米開戦劈頭の特別攻撃|鳥飼行博研究室
写真は、1941年12月7日真珠湾攻撃に失敗した特殊潜航艇「甲標的甲型」。右側が艦首で、魚雷2本が搭載できる。オアフ島東海岸に乗り上げ、米軍によって回収された。当時、真珠湾攻撃に参加した10人は決死隊として特殊潜航艇に乗り込んだ。9人が戦死。大本営は戦死者9人を「九軍神」とたたえた。これが、日本の特攻兵器開発のさきがけになったと言われる
人間魚雷「回天」
搭乗員が魚雷の目となり敵艦への体当たり攻撃を敢行する人間魚雷「回天」は、戦局悪化の1944年3月より約5ヵ月の短期間で製造。当時海軍が世界に誇った「九三式酸素魚雷」の機関および推進部をそのまま流用し、魚雷の2倍にあたる1500kgの炸薬と、敵艦魚雷の射程外から発進攻撃が可能な射程距離とを有していた。画像は、プラスチックモデルのイメージ図だが、実際に使用された特攻兵器として、忘れてはならない我々の負の遺産だ
特攻の生みの親、大西瀧治郎海軍中将(鶴田浩二主演):『ああ決戦航空隊』|日向将軍の落書き
「特攻生みの親」として有名な大西中将ではあるが、これが事実であるかは議論の余地がある。戦艦「大和」「武蔵」を投入し、米艦船を撃破するというレイテ作戦が始まろうとしている最中、日本が少しでも有利な講和に持ち込もうと特攻を始めることを決意した。ドラマ中でも「戦局を一変し勝利を掴むには、もはや決死ではなく、必死!」との言葉が出てくる。敗戦濃厚な中での賭けに出たとされるが、他方、天皇に戦争終結を示すための悲壮な決断だったとの声もある

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『図解 特攻のすべて』近現代史編纂会編
特攻の成果が天皇に奏上された。空母一隻撃沈という大戦果を機に、報告されたのである。上奏を受けた天皇の言葉:
「かくまでやらせなければならぬということは、まことに遺憾であるが、しかしながら、よくやった。攻撃員に対しては真に愛惜にたえない」。そして天皇のお言葉は、お誉めの言葉を激励と受け止め、さらに特攻は続けられることになったのである

佐々木伍長は帰還後の再出撃のたびに「体当たり攻撃の実行」を参謀から強く求められたが、あるとき「私は必中攻撃でなくてもいいと思います。そのかわりに死ぬまで何度も行って爆弾を命中させます」と返答したという
Wikipedia and 『図解 特攻のすべて』近現代史編纂会編

体当たりを毅然と拒否した搭乗員もいた。戦死と報告された佐々木友次である。体当たりを命じてくる軍作戦参謀に対して、拒否を続けた。そして軍の側も、故意に何度も出撃命令を出したという。佐々木は最終的に生きて終戦を迎えることができた

戦艦大和特攻、沖縄へ|かつて日本は美しかった
1945年4月6日、天一号作戦(菊水作戦)により戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻が山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃した。この大和特攻は沖縄島残波岬に突入し、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるという作戦計画だった。「一億総特攻の魁(さきがけ)」の作戦であると言われた。しかし、航行中、あえなく撃沈。勝算なき作戦の中、戦死者は3692名だったという

その「振武寮」を取り上げたNHKの番組『2007/10/21 NHKスペシャル「学徒兵 許されざる帰還 ~陸軍特攻隊の悲劇~」』内での証言を文字起こししてみた。(振武寮では)罵倒され足腰が立たなくなるほど殴られた。仲間の中には耐え切れず自殺した人もいたという。「お前たち命が惜しくて帰ってきたのか。そんな死ぬの嫌か。卑怯者だとか、死んだ連中に申し訳ないと思わないかとか、そういことを毎日毎日言う訳です。おまえら人間のクズだと。」

▼「特攻」を忘れてはならない本当の理由

日本の軍隊は、個人の人権を徹底的に無視しました。日本軍は平気で兵士を置き去りにしました。職業軍人なら致し方ないが、召集された民間人にまで同じことを強要したのはおかしい。特攻で犠牲になった若者の多くは召集を受けた学生たち。彼らに出撃命令を出した責任者のうち、戦後生き残った人たちは「軍人恩給」をもらった……そこに私はやるせない憤りを感じる(三枝氏)
『特攻とは何だったのか』三枝成彰著、堀紘一著

特攻作戦の罪というのは、生存の可能性のない作戦に若者たちを追い込み、追い込んだ側の大人たちが生き残った。これは純法理的な責任を超えた「道義」というものに行き当たる。→ この表現は、同書を通して出てくる怒りの表明でもあった

『神風特攻の記録』金子敏夫著
「もう日本は戦争をつづけるべきではない。一日も早く講話を結ぶべきだ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパンから内地を爆撃し、帰還できる大型爆撃機を配備している。いまの日本の戦力では残念ながらこれを阻止できない。また重油、ガソリンが半年分しかない…日本は追いつめられているのだ。日本を守るためにも特攻を実施して、フィリピンを最後の戦場にしなければならない」

※三枝氏は、特攻の出撃が、このフィリピンでの大敗北後にさらに本格化しているのを受けとめて、上述の提案の空虚さに怒りを示している

『彗星夜襲隊―特攻拒否の異色集団』渡辺洋二著
【特攻に反対した美濃部正少佐】
「特攻のかけ声ばかりでは勝てるとは思えません」
「いまの若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義がいります。しかも、死にがいのある戦功を立てたいのは当然です。精神力一点ばかりの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい」
「ここに居合わす方々は指揮官、幕僚であって、みずから突入する人がいません。必死必忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが…みずからが死を賭しておいでなのか」
『「特攻」と日本人』保阪正康著
(上述の美濃部氏へのインタビューで得た発言)
「ああいう愚かな作戦をなぜ考えだしたか、私は今もそれを考えている。特攻作戦をエモーショナルに語ってはいけない。人間統帥、命令権威、人間集団の組織のこと、理性的につめて考えなければならない。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解しなければならない」
「私は、若い搭乗員たちに特攻作戦の命令を下すことはできなかった。それを下した瞬間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ」

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組織は人に死を強いてはいけない(まとめ編者)
こんなことは、今日の平和ボケの環境下だからこそ言えることだと揶揄されそうだ。しかし、組織の病巣とも言える形骸化や暴走を避ける唯一の手段は、きっちりと歯止めをかけることだ。歯止めと、自己統制の仕組みのない組織は、必ず腐敗し暴走する。それこそが、特攻に限らない歴史の教訓だ
『我、敵艦ニ突入ス―駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』平義克己著
「私はその日から、毎晩泣きました。なんで、こんなところで死ななあかんねん。死にとうない、という気持ちばかりでした。日中はお国のためなど格好のいいことを言って強がっていましたが、夜は毎晩泣き続けました…しかし、ある日わかったのです。私が死ぬことによって、母や妹たちが一日でも長く生き続けられるのなら、そして祖国が無事に存続できるなら、死ぬことも本望だと思うようになったのです。私の言う祖国とは、天皇陛下とか、国とかいう意味ではなく、生まれ育ったきれいな山や、川、田んぼ、小学校、そんな意味です。故郷です」

「特攻」の着想は、元を正せば、何も特別なものではなかったようだ。戦場にあって「センポウ」「シンガリ」を務める決死隊というのは、日本の歴史上、頻繁にあったことだからだ
まとめ編者

人の命を軽視した特攻作戦は、戦場で死ぬることを本望とする日本人にとって、自然な発想だったようだ。特攻兵器の開発も、かなり以前から始まっていた。しかし、これらはそもそも人権を重視してこなかった近代日本のツケでもあった。明治維新以後、近代化や議会開設など、着実に西洋化を進めてきた日本だったが、封建的思想の本質は何ら変わらず、最後には、無謀な戦争を仕掛け、その終結をも決断できなかったことが、日本国民に大きな代償を支払わせる結果となった

▼大東亜戦争の悲惨すぎる結末

戦没者遺骨収集:「国の責務」菅首相が強い意志
菅直人首相の肝煎りで発足した政府の遺骨収集特命チームが2010年秋以降、先の大戦の激戦地・硫黄島で、旧日本兵の集団埋葬地とみられる場所の特定に成功した。戦後、本土以外の戦没者約240万人中未帰還の遺骨は約114万体を数える。「米軍資料で新たな情報を得られたことに加え、国のリーダーである菅首相が強い意志を示したことが大きかった」との声も。民間にも遺骨収集の道が開かれる画期的な転換が行われ、収骨数はいくらかの回復を見ている

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『知識ゼロからの太平洋戦争入門』半藤一利著
世界恐慌を契機に、世界の列強は植民地と結んだブロック経済をテコに経済再建を図る。日本は逆に、農村の疲弊や満州問題、さらには政争に明け暮れる政党政治への不満から、不穏の空気が国内に充満した。その主体となったのが軍部の青年将校らである。そして、二つのクーデター事件を通し、軍部独裁が確立されていく。その間、中国では戦闘が開始され(満州・上海事変から盧溝橋事件)、またソ連との激しい戦火も開かれる(ノモンハン事件)など、後戻りできなくなっていく

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日米兵器生産力の比較(太平洋戦争):上掲書より
中国東北部では、北でソ連、南で中国との戦闘状態に陥った。この頃、その東北部では、傀儡政権である満州国を成立させ、国際社会での孤立を深めてしまった。それが国連脱退へと至ってしまう。日本はこの難局を打開すべく、ドイツ・イタリアとの同盟を締結させるが、アメリカはついに対日石油輸出の禁止を決定、その8割を依存していた日本はこうして石油確保のために、アメリカへの開戦を勝井した。このとき、勝てると考えて戦いに挑んだものは少数派だったようだ

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陸海軍兵員数の推移:上掲書より
1937年まで陸海軍合わせて60万人だった兵員数は、中国との本格開戦が始まって以降、急速にその規模を拡大させた。なぜなら、中国国民党が共産党と合作を決め、徹底抗日の路線を明確化させたからである。以降、植民地の台湾や朝鮮からも兵員募集を行い、太平洋戦争が始まる頃には250万人へと膨らんでいった。最終的には、在学中の学生をも召集し(学徒出陣)、終戦時には700万人もの兵員が繰り出されていたという。こうして犠牲者の数はどんどん増え、中国・満州にて70万人以上、ビルマからインドネシア西部に至るところでは20万人以上、さらにフィリピンや太平洋諸島では100万人を越える兵員が戦死した

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米軍の日本本土空襲:上掲書より
1944年7月、サイパン陥落。同年12月、フィリピンのレイテ決戦で大敗北。このとき、日本は苦し紛れの特攻戦に着手したとされる。そして1945年に入り、硫黄島では日米両軍がともに数多くの命を失った。サイパン、硫黄島を奪われた日本は、今度は、米軍の大空襲にさらされることになる。1945年3月10日、ついに米軍の無差別爆撃が始まり、325機のB-29によって東京は瞬く間に焦土と化した。市民10万人が死亡したとされる。その後、大阪、神戸、名古屋も空襲を受け、空襲による日本側の死者数は56万人にのぼったという。4月、独伊が降伏したそのとき、壮絶な沖縄戦が始まり、大勢の市民も巻き込まれてしまった
戦没者慰霊事業|厚生労働省
大戦による戦没者310万人。昭和57年4月13日の閣議決定により、毎年8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」としている。戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことのできない遺骨を東京都千代田区内にある「千鳥ケ淵戦没者墓苑」に納骨してある(約36万柱)。遺骨の帰還数は海外戦没者約240万人のうちの約半数(約127万柱)あまり。戦後60年以上が経過し、遺骨情報が減少してきているなどの事情から、未だ約60万柱が未帰還であり、特に南方地域(フィリピン、東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島、インドネシア等)からの遺骨帰還が困難な状況になっている

▼大東亜戦争は愚かな選択だったのか

『あの戦争は何だったのか』保阪正康著|日経ビジネス書評アーカイブス
バランスの取れた戦争本。近現代史に疎い世代に必要な知識がコンパクトにまとめられている。次の記述は新鮮だ。「思うに『日露戦争』までの日本には、『戦略』がきちんとあった。引き際を知り、軍部だけ暴走するようなこともなく、政治も一体となって機能していた。国民から石を投げられてでも、講和を結びにいくような大局に立てる目を持つ指導者がいた」。指導者の誰もが「なぜ戦っているのか?」という疑問を持たず、無為無策のまま戦争を続けていた、と著者は指摘する。戦争の以前と以降とで、日本人の本質は何も変わっていないのではないか、とも

(1941年)12月8日に到るまでの流れを概観してきた。そしてあえて私(著者)は、誰が「日本を開戦に導いたのか」その真の“黒幕”を名指ししてみたいと思う
『あの戦争は何だったのか』保阪正康著

現在、我々が理解する開戦の歴史は、「陸軍の暴走に日本はひきずられていった」というものだ。特に、東条は悪人中の悪人となった。果たして本当にそうなのか。真の黒幕がいるのか。内閣を投げ出してしまった近衛か、(それともやはり)強行な主戦論者として知られる東條か、または開戦回避を決断できなかった天皇か。その答えは同書を参考にしてもらいたいが、御前会議での調査報告では、ある数字が報告された。それは「(当時の)石油備蓄量は二年も持たない」との結論だった。これが直接の開戦の理由になったという

この戦争が決定的に愚かだったと思う理由:「この戦争をいつ終わりにするか」、まるで考えていなかったこと。
『あの戦争は何だったのか』保阪正康著

戦争をするには「勝利」が大前提だろうし、その「勝利」が何なのかを想定していないなどは、本来ありえない。唯一、同氏が見つけた表現としては、まず、蒋介石率いる中国を屈服させ、極東(東南アジア)にある欧米列強の根拠地を壊滅させ、日本の自存自衛の体制を確立させる。そしてイギリスはドイツやイタリアにやっつけてもらう。そうすれば、アメリカの戦意も失せるだろう、という。何とも、他力本願的で曖昧なものだった。こんなレベルの作戦で、何百万人の人々が戦地に駆り出され、命を落としてしまったのだ

無為無策の戦場:ガダルカナル。飛行場を建設…日本の前線基地として要点となる。アメリカ海軍の総攻撃を受けた…次々に部隊を上陸させるが、輸送船は撃沈され、武器弾薬はおろか食糧もなかった。餓死者は1万5000人
『あの戦争は何だったのか』保阪正康著

【編者記載】『永遠の0』でも登場したシーン。ガダルカナルの飛行場を襲撃され、日本軍は怒りにまかせ、次々と軍を投入。半年間も攻防を続けたにも関わらず、弾薬や食糧の補給を考えておらず、戦場では次々と兵士が死んでいった。ラバウルから飛ぶように命じられた宮部久蔵も、この作戦の「無謀さ」を映画では口にしている。日本軍は、いかに希望的観測だけで戦争を行っていたか、そして人命を軽視しての戦いを続けていたかがよく分かる戦いだった


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避けられた戦いだった(まとめ編者)
戦前の日本人の決断で一番許せないのは、大戦そのものを避けられたと考えるからだ。異論があるのは承知だし、いまさら歴史に「もしも」を突きつける意図はない。ただ、その総括なしに、未来への教訓とはできないのだ。戦前には、幾度も、後戻りするチャンスはあった。敗戦を前倒しで受け入れることもできた。大東亜の理想郷とは、戦争強行の口実に使われたにすぎないので、これを認めるわけにはいかない
なぜ日本は無謀な戦争への道を選択したのか…。 太平洋戦争70年の年に問いかける大型歴史ドキュメンタリーシリーズ
「坂の上の雲」の時代に一気に世界の表舞台に躍り出た日本。それからわずか30年あまり…日本はなぜかくも短期間のうちに世界の趨勢から脱落することになったのか。

第一回 実は、松岡洋右を全権とする日本代表団の当初の使命は「手を尽くして国際連盟に残ること」だった
第二回 誤解の重なりあいで、戦争へと前のめりになってしまった陸軍
第三回 世論の「熱狂」を作り、それを止められなくなった
第四回 総合的な国力差80倍のアメリカとの戦いはなぜ決断されたか
第五回 開戦直後の半年に、際限のない戦線拡大が続けられた理由とは

臭いものに蓋と、ただ美辞麗句をちりばめ一元的に語ってきた、いわゆる平和教育という歴史観。一方、その反動として、「大東亜戦争を自虐的に捉えるべきじゃない」と、同じように感情論でしか歴史を見ていない「新しい歴史教科書をつくる会」のような人たち
『あの戦争は何だったのか』保阪正康著

戦後、日本では、歴史を直視するような教育が行われてこなかった。戦争を知ることに不勉強で不熱心。戦争とは決して単純な二元論だけで済まされる代物ではない。何のために310万人もの日本人が死んだのか、きちんと見据えなければならない。「大東亜共栄圏はアジアの独立、解放のためになったのだ」などと、したり顔で言う元高級軍人や政治家を見受けるが、戦後、日本で安穏と暮らしながら、臆面もなくよく言うよと思ってしまう。〜こうした怒りが、著者(保阪氏)の、本書を執筆する出発点ともなったようだ

なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか|田原総一朗
今、私たちは、たとえ「悔恨」の気持ちは抱きながらも、第三極としてのアジア共同体づくりを目指さなければならない。アジアの平和と経済的発展のためには、個々バラバラではなく連帯を深め、共同体化することが必要なのだ。ところが日本人は、大東亜共栄圏建設というスローガンを使い、アジアの人々の自由と生命を奪った。極東国際軍事裁判ではそう断定された。それで日本人は、世界やアジアのことを口にするのは慎むようになった。では、近代の日本はどこで誤ってしまったのか。何ゆえか。(田原氏は)大アジア主義は正解だと考えるが、なぜそれが大東亜戦争となったのか

連合軍がきめつけた「侵略戦争」というよりは、
敗れる戦争をしたことこそが致命的失敗
『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか』 田原総一朗著

頭山満、大川周明、北一輝の三人は日本の近代史の表側には登場しない。が、極めて重要な役割を演じていた。この三人は攘夷派であり、反ヨーロッパ派であったが、アジア諸国とのつながりは重視していた。そして彼ら三人は大東亜戦争に断固反対していた。それは侵略戦争だからではなく、国際的に孤立して負けるに決っている愚かな戦争だと考えていたからである

頭山満|『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか』田原総一朗著
頭山満は、戦争に反対した右翼の巨頭である。歴代の政府首脳にも大きな影響力をもっている人物だった。日清・日露戦争を敢行すべきだと提唱した軍拡派とされるが、実際は異なる。福沢諭吉が脱亜を説き、東洋の英国を夢見たのに対し、頭山はアジア諸国の欧米からの独立を目指した。孫文の中華革命を支持し、朝鮮併合や満州事変などには心から憤っていたという
大川周明|『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか』田原総一朗著
大川周明と言えば、五一五事件の思想的指導者であり、東京裁判ではA級戦犯に指定された人物だ。大川は、資本家や経営者たちが労働者から搾取し、貧富の格差が拡大する資本主義を敵視していた。そこで起こったのが世界恐慌である。そしてかねてより懇意にしてた純粋な軍人たちと諮り、五一五事件を起こす。そして獄中生活を強いられるが、出所すると、すでに日中間の戦火は始まっていた。その大川が、日中戦争の終結や日米激突の回避に動いていたことは、あまり知られていない
北一輝|『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか』田原総一朗著
社会主義者が階級闘争による革命を目指したのに対し、北一輝は軍人による革命を目指した。社会主義者が上層を下層に引き下げようとするのに対し、北は資本主義のもとでの傭兵的労働者より、社会主義のもとでの徴兵的労働者の方が生産的だとも主張した。北の考え方は、国家の役割を是認しており、天皇でさえ国家の一員と考えていた。しかし北は、その天皇の力を利用し、日本改造を起案する。これに応じたのが二二六事件の将校たちだった。その後、天皇は事件を善とせず、蜂起者を処罰した。北も同様に処刑されることとなった

孫文が生前最後の訪日となった神戸の講演前に面会を切望したのは頭山であった。孫文を頭山が、終始心身両面で支援したという事実がある。内田は頭山の弟分、『支那革命外史』を著して革命支那と改造日本との提携協同によるアジアの独立と復興を強力に主張した。大隈内閣の対支二十一ヵ条要求を真っ向から批判したのは北一輝。他方、アジア主義に基づく日本改造の啓蒙実践を指導してくれと、北に頼みに来たのが大川周明だ。この四人のアジア主義者を、公共の歴史記念館でファシストと呼び中国侵略者とするのは悪意に満ちた歴史の歪曲である

幕末以来続いてきた欧米列強への憤りや対抗心は、思想的には、アジアの独立と繁栄という理想を生み出した。しかし、同時に、日本の利害や既得権益を優先する人々との軋轢によって、日本は右往左往してしまう。それが「大東亜戦争」の正体ではないか
まとめ編者

どれだけ崇高な理想を掲げても、行動で実践できなければ意味がない。ロシアを破り、アジアの希望となったはずの日本が、欧州の権益を手にして、いつしかその権益に溺れてしまう。「溺れる」という言葉がまさに適切だと考える。それにしがみつくがゆえに、満州に投じた資金や移民が膨れ上がった。そして中国・台湾・朝鮮の人々を苦しめる結果となり、後戻りできない日中戦争開戦の動機となってしまう。日本の「溺れ」ぶりは、第一次大戦後の世界新秩序と大いに矛盾し、激しい摩擦を生んだ。その犠牲者こそ、『永遠の0』に登場した人々たちでもあった

安倍首相は「サンフランシスコ講和条約からの脱却」を目指しているのか|田原総一朗
小泉首相が靖国参拝をしても、アメリカは「遺憾に思う」とすら言わなかった。それが今回の安倍首相のときには、「遺憾」ではなく「失望」となった。そして、作家の百田尚樹氏ら、安倍首相に近い人たちがアメリカ批判をした。東京都知事選の街頭演説で「アメリカは東京大空襲や原爆で日本人を大虐殺した。この大虐殺をごまかすために東京裁判をやった」と言ったのだ。しかし、日本は1951年にサンフランシスコ講和条約を結ぶときに、この東京裁判を受諾した。そのことを前提として独立している。百田氏は、サンフランシスコ講和条約まで否定するのか

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安倍政権のスローガン(まとめ編者)
「戦後レジームからの脱却」と改憲。これこそが安倍政権の掲げる目標だと言われる。時期的には的を得たものだろうが、「時機」的にはかなり懸念をもってしまう。時効間際になって、容疑者が無罪を騒ぎ出したようなものだ。当時の被害者がまだ生きている間は、歴史問題として過去の問題にするのは無理がある。もし、あなたが愛する人々を殺されたとして、十数年を経て、犯人から「もう過ぎたことだ」と言われ、「今日を生きる者として一層頑張るから、名誉回復してほしい」と要求されたとき、それを受け入れることができるだろうか

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安倍政権(=右傾化)を懸念する声(まとめ編者)
そうした懸念には理解するが、これまでの第二次安倍政権のやっていること(~2014年7月)は、右傾化などという極端な路線ではない。しかし、政治・外交と、歴史・学問という別の切り口を一緒くたにしようとしているのは否めない。どこぞの地方自治体組長が、歴史的な事実と外交的主張とを一致させようと企んでいるが、幼稚極まりない。外交は議論の場ではなく、交渉の場だ。そこを踏まえて国際問題を語ってほしい

▼物議をかもす歴史認識の見直しや、出口の見えない靖国問題

宮崎駿、『風立ちぬ』と同じ百田尚樹の零戦映画を酷評「嘘八百」「神話捏造」|ビジネスジャーナル
引退会見を行ったアニメ界の巨匠・宮崎駿監督。『風立ちぬ』(東宝)が引退作となった。戦争を美化する風潮に苛立ちを隠せない宮崎監督: 「今、零戦の映画企画があるらしい(『永遠の0』か)ですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしている。神話の捏造をまだ続けようとしている。相変わらずバカがいっぱい出てきて、零戦がどうのこうのって幻影を撒き散らした。戦艦大和もそう。負けた戦争なのに」と手厳しい。宮崎監督は、戦争を肯定する百田氏と一緒にされるのが耐えられなかったのかもしれない

ちなみに配給はともに東宝で、劇場によっては「風立ちぬ」上映前に「永遠の0」予告編が流れている。そんな話題作を、宮崎監督は「酷評」したことになる。 確かに百田氏は安倍晋三首相と対談するなどしばしば保守的な政治見解を披歴しており、護憲、反戦を強く打ち出す宮崎監督とは主張がかなり違う。百田氏はツイッターで、「悪意に満ちた記事」とつぶやいた。 ところで、元の宮崎監督インタビューを読めば、そもそもの問題発言は、戦後に刊行された元パイロットによる証言への懐疑を語る部分で出ている。むしろ、 監督の批判は「永遠の0」ではなく、「零戦神話」の再生産に向けられていると考えるのが妥当だろう

52型甲と呼ばれる大戦後半に量産された零戦(三菱重工業・名古屋航空宇宙システム製作所):日本の航空技術史をつくった名機が翼を休める場所|Tech総研
速度は圧倒的とは言わないまでも当時の一流レベル。無類の運動性能。そして、他国の戦闘機にはない長大な航続距離が、零戦の特長だった。三菱が開発した最初の航空機は、1921年から開発を始めた。そして、初めて“純・三菱製”として量産されたのが、1936年制、設計したのは堀越二郎技師だった。「神風号」の記録飛行も注目を浴び、立川飛行場を出発点に、ロンドンに至り、51時間19分23秒。三菱製の機体だった

百田尚樹@hyakutanaoki

『永遠の0』はつくづく可哀想な作品と思う。文学好きからはラノベとバカにされ、軍事オタクからはパクリと言われ、右翼からは軍の上層部批判を怒られ、左翼からは戦争賛美と非難され、宮崎駿監督からは捏造となじられ、自虐思想の人たちからは、作者がネトウヨ認定される。まさに全方向から集中砲火。

日本の戦没者慰霊は、明治維新で斃れた勤王の志士の国事殉難者慰霊と、戊辰戦争で藩主に従い出征し戦死した官軍方戦死者を君主が慰霊する、という前近代的な「忠臣慰霊」が基となっている。靖国神社の前身、東京招魂社に戦死者は祀られた。その後、日清戦争等の対外戦争により、天皇と軍による靖国の祭神化という帝国日本の国家的慰霊のあり方が形成されていく。そして軍国主義にひた走る中、徴兵されていった朝鮮人や台湾人もここに合祀されるに至った


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戦没者の慰霊に対して思うこと(まとめ編者)
慰霊とは、静かに、誠実に、亡くなられた方々を偲ぶことだ。今の政治家の自己主張やエゴに使われるものではない。マスコミに騒がれることを承知で靖国参拝をする政治家、その上で対米・対中・対韓批判をしている姿はまさに確信犯だ。こうした人間が、歴史の教訓をないがしろにし、再び日本人を、かつて来た道に迷い込ませることになりえる

侵略戦争の計画、準備、開始、遂行、共同謀議を国際法上の犯罪とする「平和に対する罪」(A級犯罪)、捕虜虐待や占領地住民殺害、都市破壊などの伝統的な「戦争犯罪」(B級犯罪)、そして、一般住民に対する非人道的行為や迫害行為を国際犯罪とする「人道に対する罪」(C級犯罪)。A〜C級の違いは、連合国側の便宜的区分に使った分け方である。なお、「A級戦犯」とは、東京裁判の被告人のことだ。戦犯合祀に積極的なのは、旧軍人が属する厚生省引揚援護局であり、まずはBC級戦犯から「目立たない」ように合祀し、大物ぞろいのA級戦犯についてはさらに慎重に進められた。そこには、東京裁判を全面否定する人々の意図があった

戦没者には静かに眠ってもらった方がいい。政府や政治家が「自己主張」の道具(パフォーマンス)に使うのはもう止めよう。日本人が戦争を止められなかった反省と不戦の誓いをすることの方が大切
まとめ編者

毎年夏になると大騒ぎになる政治家の靖国訪問問題。いい加減にしてもらいたい。もし参拝をするなら、政治家のバッジを外し、警備を拒否して、国費を使わずに行ってもらえばいい。政治家とは国民の代表として立法や行政をリードする立場であって、信条を勝手に代弁する役割ではない。特に、国民の愛国心を扇動する政治家ほど卑劣な存在はないからだ

一番いいのは、好きな人が勝手にやればいい。ただし、政治家だけは「公」の立場で関与すべきではない。すべての元凶はここにある。誰ひとり、靖国神社の曲がりくねった背景を代表できる立場にない。憲法で規定した通りである。宗教は政治と離別しておくにこしたことはない。政治家が屁理屈を重ねて、憲法違反行為を重ねるのはあまりにも見苦しい。ましてや、国民の総意に基づかいない戦犯の合祀がなされたところである

▼さて、「大東亜」という理念は、帝国政府の戦略を肯定できたのか。そしてその顛末とは

【東亜新秩序】
この構想の萌芽は,〈帝国指導の下に日満支三国の提携共助〉の実現を決めた1933年10月21日の斎藤実内閣の閣議決定にあった。それは満州事変勃発前後の〈日満ブロック〉構想を一歩進め,〈日満支ブロック〉の実現を国策として決定したものであり,36年8月7日の広田弘毅内閣下の5相会議決定〈国策の基準〉に受け継がれた
大東亜共栄圏 とは – コトバンク

太平洋戦争期に唱えられた,日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域。第2次近衛文麿内閣の発足時の〈基本国策要綱〉(1940年7月26日)に〈大東亜新秩序〉の建設として掲げられ,国内の〈新体制〉確立とならぶ基本方針とされた。これはドイツの〈生存圏Lebensraum〉理論の影響を受けており,共栄圏の用語は外相松岡洋右の発言に基づく。すでに第1次近衛内閣は1938年11月,日中戦争の長期化をうけて〈東亜新秩序〉の建設を声明していたが,大東亜はそこでうたわれた〈日・満・支〉に,広く東南アジア,インド,オセアニアの一部までをも加えた範囲と考えられる

歴史的なアジアサミットといえる大東亜会議|かつて日本は美しかった
昭和18年(1943年)11月5日、東京で大東亜会議が開かれ、日本が主催した世界最初のアジアサミットとなる。。アジアの自主独立を旗印とし、各国代表演説が行われ、共同宣言を満場一致で採択した。
* 日本:東條英機内閣総理大臣
* 中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長
* 満州国:張景恵国務総理大臣
* フィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領
* ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣
* タイ王国:ワンワイタヤーコーン殿下
* 自由インド仮政府:チャンドラ・ボース首班
会議の宣言の要約は
(一)共存共栄
(二)独立親和
(三)文化昂揚
(四)経済繁栄
(五)世界進運貢献
共に栄える大東亜|大東亜共栄圏 / 伝単 郷愁倶楽部
子供向けの解説:大東亜共栄圏(少年倶楽部:昭和16年新年號)。細かく分かれた国々が、「自分さえ良ければ」と争っている。そこで日本が、世界に平和をもたらそうと行動を始めた。まずはアジアから。それが大東亜共栄圏だ。しかし、アジアの独立国はまだ満州国だけ。その他の国はヨーロッパ人に苦しめられている。満州は資源が豊富で、特に大豆はすごい。支那も資源はいっぱいのはず。ただ、石油とゴム、錫が足りない。それでインドネシアも必要になる
昭和17年7月号の付録「大東亜の仲良し国めぐり」|探検コム
仏印:サイゴン港では、日本の船にどしどしお米を積み込み、スマトラ:パレンバン油田では、せっせと石油を取っている。日本の兵隊さんは、どこでも(現地の)子供たちと仲良し(のように見える)。マレー:ゴム園でとれたゴムが、今に日本にもたくさん送られてくる。支那:孫文先生を祀った紫金山(南京)に、王精衛先生(日本の傀儡政権の代表)がお参りしている。 等々

「領土的野心はない」という宣伝とは裏腹に、「大東亜政略指導大綱」は満州、中国、タイ、仏印、ビルマ、フィリピンなどの占領地域を日本の支配地域とし、そのうちマライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス(現在のマレーシア、シンガポール、インドネシア)は「帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力これが開発並びに民心把握に努む」(ただし不公表)と決めている。アジア・太平洋戦争はだれがどこから見ても、アジアに対する日本の侵略戦争であった。日本が喧伝した「大東亜共栄圏」とは、「中国、東南アジアに対する日本の侵略を正当化するイデオロギーとスローガン」(『新版日本外交史辞典』山川出版社)だった
大東亜共栄圏の実態

当時としては画期的だった「大東亜宣言」。裏を返せば、欧米のやってきたことが口先だけ立派な、それでいてさんざんアジアを蹂躙してきた歴史だった。しかし、欧米と対立した結果、資源の確保に苦戦し、アジア南方へと支配地域の拡大を目指すことになってしまった日本。ここに不純な動機が隠れていた。実際、占領地域で行ったことはとりあえずの専有と資源の確保、そのために必要なインフラの整備を突貫的に行ってしまったために、植民地統治と変わらない実態になってしまった

太平洋戦争:知ってると映画が面白くなる|シネママガジン
1941年から1945年にかけて、日本とアメリカを相手に戦争をした「太平洋戦争」を、シネマガ独自の視点から解説。まず、話は日露戦争に遡る。かつて小さなアリだった日本が巨大なゾウのロシアを倒したとも言われる。そして太平洋戦争では、日本がアジアの民族を代表して、列強を相手に戦うことを決意した、となる。日本軍は石油確保のためにインドネシア侵攻を開始。ついには有史以来最大の版図を築くに至った
日本の攻勢で最大版図(ドイツはモスクワ侵攻失敗後):1942年時点での情勢|学研
日本は『大東亜共栄圏』をとなえ、西欧諸国からの自立を訴えた。しかし、日本の占領は戦争継続のための資源収奪とそのための治安維持を目的としており、現地の歴史や文化を無視した政策が行われた。さらに、住民に対する残虐行為や強制労働を行ったため、住民の反感をよび日本軍に対する抵抗運動が多発した。他方、モスクワ占領に失敗したドイツ軍は態勢を立て直し、ソビエト南部の工業地帯と油田の掌握を目指し攻撃を再開した。ドイツ軍の電撃戦は再び成功し、9月には南部の中心都市スターリングラードを包囲した
絵地図「日本の戦場はここまで拡大した」
「一億国民は今までの戦果に安心してはなりません」
「敵は必ず反撃してくる」

米英の日本反撃態勢地図(昭和17年10月)

「終戦の詔勅」、いわゆる“玉音放送”を現代語訳|Chikirinの日記
【ちきりん版現代語訳】最初に米英二カ国に宣戦を布告した理由も日本国の自立とアジアの安定を願う気持ちからであり、他の国の主権を侵したり、その領土を侵したりすることが、私の目指すところであったわけではない。(…今)世界情勢を見るに、日本に有利とはとてもいえない状況である。もしもこれ以上戦争を続ければ、最後には我が日本民族の滅亡にもつながりかねない状況である。(もしそうなれば、いかに)歴代天皇の霊に顔向けすることができようか。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、これからもずっと続いていく未来のために、平和への扉を開きたい
http://www.youtube.com/watch?v=TDgOFsH8PZo

▼最後に、映画の感想をまとめておこう

【まとめ編者】もしかすると、このサイト製作者の感想は、今日的には旧~党系の一国平和主義などと言われてしまうのかもしれない。一人の子供の感想文を掲げ、一見美しい「正論」を主張する。しかし、こういう風にも考えたい。「戦争に感動も美談もない」、だからこそ専守防衛以外の戦争は避けなければならないし、最後の最後まで戦争を回避する努力をすべきだ。国家が、国民の命を踏み台にしてまで得なければならないものなどない。戦後に偶然得られたこの理念こそ、日本が誇るべきものだと考えるのは編者だけだろうか

永遠の0|マープルのつぶやき
一部ではこの映画は「戦争を美化している」という指摘がある。が、そんな風には全然思えなかった。戦局が悪化し、「特攻」という任務に加わるにわか兵士たちの姿は涙がこぼれそうになった。彼らには大した訓練も受けることなく、いや、それ以前に「特攻志願」を拒否する選択肢など与えられる状況になかった。そして片道切符の燃料と、爆弾とを抱え、目標に到達することなく散っていた。平和への強いメッセージのこめられた映画である

同評論の筆者・酒井まど氏の指摘は辛辣だ。百田氏の小説に対し、「ネトウヨたちが戦争の悲惨さや狂気を見ずに、自分は戦場に行く気などさらさらないのに、日本を守るために他国を攻撃するのがなぜ悪い」と叫んでいるようなものだ、という。「死にたくない」「生きて帰りたい」と日常的に公言する主人公の設定にも疑問を呈している。ネトウヨや百田氏の発言に対し、このまとめ編者も、同じ思いである。ただし、この作品を現在の国民に捧げるのだとしたら、エンタメ的ストーリーと、今日的価値観の人物設定はやむを得ないとも考える。むしろ、本作品をきっかけに、日本人が関わった戦争の歴史が、再び注目されるのは望ましいことである


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宮部(主人公)はなぜ特攻に志願したのか(まとめ編者)
映画中ではずっと問い続けられたテーマであり、最後まで答えは視聴者に委ねられた。勝手な解釈をさせてもらうと、仲間が次々と死にゆく有り様を毎日のように体験させられる現場にいたとしたら、どこかで自分もやらねばと考えるのが自然ではないか。もちろん、その辛さから逃げたい思いも出てくるかもしれない。「臆病」とは、何かを失うのが怖いからで、悪化する戦局の中ではその感覚がどんどん麻痺してしまう。主人公は、自分が壊れてしまう前に、「失いたくない」妻子のためにできる最善の策を選んでのではないか

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本テーマに対する個人的感想(まとめ編者)
当時の日本人が知らなかったこと。それは、敗戦という現実のあり方だったろう。植民地化される中国の悲惨な実情を学び、過度にそれを恐れた。しかし、時代はあれから100年経ち、西洋列強の価値観も徐々に変わっていた。そこに気付かないまま、ウブなまでに、武士道の美しさに自らを奮い立たせてしまったことが、敗戦を受け入れるという決断を遅らせてしまった。特攻作戦とは、その象徴として生まれたものだ
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2015年08月29日