戦国無双4と2のゲームを盛り上げる注目の新キャラクターまとめ 2/17更新

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シリーズファンから要望の多かった真田信之や大谷吉継をはじめ、戦国絵巻を彩る戦国武将が多数参戦。『戦国無双 Chronicle 2nd』で初登場となった藤堂高虎、井伊直虎、柳生宗矩もナンバリング作品に初登場します。また、真田幸村や織田信長ら、シリーズでお馴染みのキャラクターは、デザインの一新はもちろんアクションも大幅に強化され、シリーズ最多となる50名以上の個性豊かな武将が、新たな「戦国無双」を創ります。

真田信之

信濃の豪族・真田家の嫡男。
物腰柔らかだが責任感が強く、現実を
見据えた判断を下すことができる。
弟である幸村とともに武田家に仕えるが、
命を惜しまず敵陣に切り込んでいく幸村を
常に案じている。

http://www.youtube.com/watch?v=kvTf_f7I_m8

祖父・真田幸隆、父・真田昌幸、弟・真田幸村ら華々しい活躍に定評のある一族中でも地味ながら、信濃国上田藩そして松代藩の初代藩主として、明治まで続く松代藩真田家の基礎をつくりあげた真田家最大の功労者。
嫁は本多忠勝の娘・小松姫。
幼少時から父・真田昌幸が武田信玄に臣従していた事から武田家にて人質生活を送り、武田勝頼の嫡男で最後の甲斐武田家当主・武田信勝と同時に元服した。
武田家滅亡後は上田に帰るも、父の駆け引きにより、徳川家康の人質になったりした事があった。
その後、領地を巡る争いから徳川家康と真田昌幸の間で起こった上田合戦の際に、よくある賢弟愚兄な評価をする人は、真田幸村を美化しすぎといわんばかりに父の片腕として活躍し、その器量を本多忠勝や徳川家康に認められ、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女として妻に娶り、徳川家康の縁者となった。

関ヶ原の戦いに際しては、犬伏の別れにて父と弟が石田三成率いる西軍につき、徳川家康の与力だった真田信之は東軍につき、真田嫌いに定評のある徳川秀忠と共に第二次上田合戦に参加して、父や弟と戦った。なおこの戦いでは、真田昌幸の前に関ヶ原の戦いに徳川二代目でありながら大遅刻するという失態を演じた事が、徳川秀忠を真田嫌いにしたといわれている。
終戦後、敗軍の将となった父と弟に対して上田合戦で煮え湯を飲まされた事や後継者の徳川秀忠に重大な失点をつけた事から処断を決めていた徳川家康に対して、自らの戦功・領地そして命までをも投げ出して助命に走る姿が諸将の同情を引き、舅の本多忠勝も「お聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕る 」と家康に啖呵を切った事から、父と弟は九度山への流罪となった。その後、自らが領主を務めていた沼田と父の所領上田を加えた上田藩の藩主となり、空気を読んで名を「真田信之」と改めた。
その後も真田家存続を第一に徳川家へ忠勤に励みながらも、良妻・小松姫の協力もあって、藩費ではなく、自費で九度山の父や弟への支援も続けた。

大谷吉継

近江出身の才人。浅井家に仕えたのち、
豊臣秀吉の配下となる。視野が広く、
時勢が見えるあまり、その流れに従うことこそ
正しい道と考えているが、藤堂高虎や
石田三成との出会いでその考えに次第に
変化が生じていく。

http://www.youtube.com/watch?v=3OjCbrdpZpE

幼い頃から羽柴秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いや小田原攻めなど、秀吉の天下統一事業を助けて各地で活躍する。

秀吉をして「100万の兵を与えて存分に指揮させて見たい」と言わしめたほどの名将であった。

ハンセン病を患っていたと言われており(梅毒説もある)、常に顔を白い布で隠していたことで有名。末期になると馬に乗ることも難しく、4人担ぎの輿に乗り紙の鎧兜を付けて指揮に当たっていたという。また、茶の湯の席でお茶を回し飲みする際、吉継が口をつけた湯飲みには誰も口をつけなかったが、ただ1人石田三成のみが気にせずに茶を飲んだという説話が伝わっている。このエピソードは後述する石田三成との友情につながっていく。

徳川家康と親しかったが、関ヶ原の戦いでは親友・石田三成に挙兵を持ちかけられる。その際には、無謀だと諫め説得するも、三成の熱意に打たれ、西軍に参戦する。


https://matome.naver.jp/odai/2139379919253300001/2139380246855118803

関ヶ原の戦いで数少ない、西軍としてまともに戦っていた武将のうちのひとりであったが、裏切った小早川秀秋の猛攻撃を受ける。小早川勢1万5000に対し、大谷勢は東軍と渡り合っていたのも含めて5700程度と言う兵力差でありながら、数度にわたって小早川勢を500メートルも押し戻すことに成功する。むしろ、なぜ小早川勢は予備隊600にすら押し戻されてるんだとか言ってはいけない。そういう仕様です。

しかし小早川を追撃しようとした瞬間に、元々秀秋が裏切った時の備えであったはずの脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四将までが裏切り、前面から東軍諸隊、側面・後背から内応諸隊の包囲攻撃を受けて軍勢が総崩れとなり、自害する。享年42。その首は家臣が関ヶ原の地中に埋め、見つからなかった。

島津豊久

薩摩・島津家の血気盛んな若武者。
どこまでも一途でまっすぐ、失敗しても
それを糧に成長することのできる人物で、
時に無謀とも思えるほどの行動力を持つ。
伯父・義弘には多大な恩義を感じ、義弘の
ためならば自らの命をもかえりみない。

http://www.youtube.com/watch?v=dSpEal9QvJw

戦国時代の武将で薩摩島津氏の一族。

父は、島津義弘の末弟で曽祖父島津忠良より「軍法戦術に妙を得たり」と評された名将・島津家久。

関ヶ原における「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破を成功させる為に奮戦し、戦死した猛将。

島津氏と竜造寺氏の決戦となった沖田畷の戦いにて初陣を飾る。この時14歳。

父の死後、家督を継いで日向佐土原城主となって各地を転戦する等、父親似の猛将の片鱗を見せる。

関ヶ原では、父の死後、息子同様に接してくれた島津義弘と行動を共にするも、兵数の少なさから戦力として見てもらえず、墨俣城攻略戦では前線に取り残され、夜襲は「田舎戦法」と戦下手に定評のある石田三成に嘲笑されて採用されず、島津義弘よりも腹を立てていたと言われている。

関ヶ原の趨勢が決し、島津豊久の所属する西軍の敗北が確定的になった時、玉砕を覚悟した島津義弘を説得し、前方の敵を突破して退却すると言う世界の戦史上例を見ない戦術を敢行するにあたって、島津豊久は島津義弘の身代わりとなって追撃してくる徳川軍の前に立ちふさがった。

井伊直政、本多忠勝ら徳川家の名将達を相手に死力を尽くして奮戦し、井伊直政を撃退した島津豊久だったが、全身に無数の矢を受け、体中を切りつけられて見事な立ち往生を遂げた。

島津義弘は無事脱出に成功し、島津家は生き残る事が出来た裏に島津豊久の奮戦があった事を覚えていてもらえるのであれば幸せである。

松永久秀

大和の大名。信長の上洛を機にその軍門に
下る。茶道などにも造詣の深い芸術家肌の
男で、天文から読み取った運命を
己のものとして操作しようとする。
自らの才覚に自信を持っており、誰かの手に
よりその運命が曲げられることを忌み嫌う。

http://www.youtube.com/watch?v=gVsW5Jj4yWI

三好長慶の家臣として頭角を現し、長慶死後は主家をも圧倒する権勢を手にする(長慶の死にも関わっていたとする説もある)。
弱体化した足利幕府を傀儡にせんと十三代将軍・足利義輝を殺害。
その後三好家(三好三人衆)と対立して東大寺大仏殿を焼き払った。

織田信長が上洛するといち早く降伏、茶器「九十九髪茄子」を献上して領国を安堵される。以後は織田家の一武将として畿内を中心に戦うが、二回ほど信長を裏切り敵に回る。

癇癪もちで気が短いはずの信長は、不思議なことに一度目の裏切りを許して帰参させている。二度目の裏切りの際も名器「平蜘蛛釜」を譲れば許すと寛大な態度を見せる。

しかし久秀は二度目の条件を拒絶、城に火を放ち「平蜘蛛釜」を壊して自刃。一説によると平蜘蛛釜に火薬を詰め込んで爆発させたとか、飛んでいった平蜘蛛釜の蓋を古田重然とかいう男が拾っていったとか。
日本の歴史上、初めて死因に爆死と書かれた人物である。

その所業と有能さから『乱世の梟雄』と呼ばれており、味のある人物である。

信長が徳川家康に彼を紹介する際に「この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君・長慶殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯した」と言ったという。信長のことだから本気で褒めてたのかもしれない。

ただし三好長慶は病死の可能性が高く、将軍殺しについは家中で格上の三好三人衆が主導した作戦に息子が参加しただけであり、大仏焼き討ちについては宣教師が三好軍にいた信徒の功績だと記録を残している。
長慶の後を継いだ義継が三好三人衆によって傀儡にされてしまうと、義継を救出。
信長が足利義昭を奉じると久秀はすぐに義昭支持を表明し、織田軍の上洛作戦が危ぶまれた時期も劣勢の中で三好三人衆と戦い続けている。
とこのように実は誠実だったのではないかと思える行動も取っており、謎の多い人物である。

上杉景勝

上杉謙信の姉・綾御前の実子であり、
謙信の養子となる。口数は極端に少なく、
言葉よりも行動で意志を示す不言実行の人。
常に眉間に皺を刻んだ威厳ある風貌だが
神経は細やか。軍神の子の名に恥じぬよう、
日々努力を重ねている。

http://www.youtube.com/watch?v=-5deDa6JL6E

偉大な先代謙信の背中を追うあまり己を律すること激しく、とにかく無口・無表情であったと有名である。「生涯で笑ったのは一度だけ」だとか「家臣達も景勝の声を丸一日聞かないようなことがあった」とかいう話もあるほどの無口キャラ。喋らない・笑わない・常に怖い顔をしていることから家臣達には敵以上に恐れられたともいわれる。

元々は越後の上田長尾家の生まれであり、長尾政景の次男。実母は上杉謙信の実姉・仙洞院(綾御前)である。次男ではあったが長兄が早逝したために長尾家嫡男として育つ。しかし9歳の頃、父・政景が突然の溺死を遂げたために叔父である謙信に引き取られて育てられ、実父の跡を継ぎ長尾喜平次顕景と名乗った。

妻子の無い謙信は、姉の子ども達を我が子のように可愛がったと言われ、喜平次少年に宛てても母性愛情溢れる手紙を多数送っている。

その後、22歳の頃に正式に謙信の養子となり上杉景勝の名と弾正小弼の官名を与えられ、後継者の一人と目されるようになる。

軍神の後継
謙信が49歳で亡くなると、謙信がはっきりと後継者を明言していなかったためにもう一人の謙信の養子であった上杉景虎(北条氏康の子)と争いが起きた。御館の乱である。上杉景虎の実家北条家はもちろん、武田勝頼の妻は上杉景虎の妹であったため、両国とも景虎派。その他諸国が軒並み景虎派に付いて軍を出してくるという四面楚歌に陥る。

このころ景勝は「春日山城を枕に自決する覚悟はできている」とまで書いている。

しかし謙信の側近たちの多くが景勝に付いていたこともあり、当初劣勢だった事態を猛然と挽回。また北条家への不信を抱いていた勝頼と和睦することにより事態を打開。上杉家当主となった。

景勝が内乱に勝利し上杉家当主となったものの、更なる苦難が待ち受けていた。上杉が内乱に明け暮れているうちに越中まで侵攻してきていた織田信長の北陸方面軍である。北陸方面軍団長は柴田勝家、その与力に前田利家や佐々成政ら、そうそうたる顔ぶれであった。武田勝頼が天目山の戦いで討ち死にすると、越後は信濃からは鬼武蔵、関東口からは滝川一益に圧迫されて更に戦況は苦しくなる。

越中の上杉側最後の砦であった魚津城が悲惨な落城を遂げるころには、景勝も滅亡を覚悟したのか
「弓矢の家に生まれた者として、越後一国で日本六十余州相手に戦う事になるとは、死んでも名誉な滅亡、もし生き残れば歴史に名を残す英雄になるのだ。なんと幸せな事か」と書き送っている。

しかしこの悲壮な覚悟は果たされることはなかった。魚津城落城のその前日、本能寺の変が起こり織田信長が討たれたのである。

天下の趨勢の元で
信長の死後、その後継争いから羽柴秀吉が柴田勝家と対立すると、景勝は勝家との確執から秀吉との同盟を選んだ。この時諸国よりもいち早く秀吉の手を取った事から、秀吉が天下を握ると豊臣政権の重鎮の一人として重きをなし、後年豊臣五大老のひとりと呼ばれることになる。

しかし大老の中でも最も強大な力を握っていた徳川家康の抑えとするべく、越後から会津へと国替えを命じられることとなった。この国替えにより全国第二位の領地を持つ大大名となったのだが、父祖の地であり心血賭けて守ってきた越後を離れさせられることは上杉家にとって複雑な思いがあったようである。

秀吉の死後、天下を目指した家康にとって、江戸の背後に位置する会津の大大名は邪魔以外の何物でもなかったらしく謀反の疑いありと征伐軍を起こされた。関ヶ原の戦いの引き金となった上杉征伐である。

一説には景勝の側近・直江兼続と、秀吉の幕臣たる石田三成の共謀による家康挟撃策であったとか、兼続が直江状によって家康を怒らせたためだとかいう話もあるが、直江状とは別に景勝自身も家康への回答として十一箇条の書付を送っており、またこの征伐に際して家臣たちに
「公儀は何を言ってもこちらが悪いとばかりに一方的で、かくなる上は全国を相手に戦うものであり、この滅亡に納得できない者は出ていけ」と言い放っているあたり、景勝自身の意思であったようである。

景勝は上杉一国で征伐軍十万に対抗するために士卒はおろか領民さえもかき集めて数万にも及ぶ軍勢を布陣し家康を待ち構えていた。

が、またしても景勝に滅亡が訪れることはなかった。石田三成の蜂起によって家康が江戸へと引き返したのである。

腹心直江を最上領侵攻に送り出し、越後では元家臣たちに一揆を命じ、後顧の憂いを絶って関東へと軍を進めるつもりであったようである。が、三成と家康の戦いがまさかのたったの一日で決着してしまい、手の届かぬところで敗戦が確定してしまった。
上杉家は米沢30万石へと大幅減封されたものの、直接戦って敗北した訳でもなかったために、家康に対峙したという武名を保った。

三度も滅亡を覚悟しながら(うち二回は信長・家康相手)本人の与り知らない要因で助かった上杉景勝には不思議な悪運があったようだ。

なお、大坂冬の陣にも参戦しており、冬の陣最大の激戦である鴫野・今福の戦いにおいて自軍に倍する豊臣方を退ける活躍を見せ、尚武の上杉の武名を高めている。この時の上杉軍の余りの峻厳さから無数に逸話が残ったようである。

藤堂高虎

近江・浅井家に仕えたのち、
徳川家康のもとに参じる。低い身分から
のし上がった実力者で、生き残るためには
手段を選ばない切れ者。
しかし心の奥底には、大切な主君や
友への熱い思いが押し込められている。

http://www.youtube.com/watch?v=zIbjoUHUH6A

近江国藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男に生まれる。元々は武士に家系ながら父の代には衰退してほぼ農民同然の状況だった。

生まれたときから人一倍乳を飲み、泣き声を一切あげなかったと言われ、5歳ごろには大人と同じ量の食事を食べて、身長6尺2寸(約190cm)・体重30貫(約110kg)の巨漢に成長した。

近江国の大名・浅井長政に仕えた藤堂高虎は、姉川の戦いで初陣を飾り、戦功を挙げて浅井長政より感状を与えられる。
しかし当時はまだ巨大な体をもてあましていたのか、同僚を諍いの果てに殺してしまった為に出奔し、元浅井家臣の阿閉貞征に仕えたが一ヶ月程で出奔。

これではいけないと武勇以外の術を学びながら浪人生活を送る中で織田信長に浅井長政が滅ぼされると、元浅井家臣で織田信長に降伏した磯野員昌に仕える。2年ほど仕えた後、織田信長の縁者である津田信澄に80石で仕えた。丹波攻めで戦功を上げるものの津田信澄に嫌われていたのか加増されず、この事を不満として出奔し羽柴秀吉の弟・羽柴秀長に300石で仕えた。

農民出身の羽柴秀長とは気があったのか、それとも播磨三木城攻めに従軍して戦功を上げると名馬「賀古黒」と3000石の加増を受けた事から、自分を評価してくれる上司に巡り合ったと感じたのか、藤堂高虎は羽柴秀長に対して忠節を貫く。
羽柴秀長に従って中国征伐や賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに従軍して戦功をあげて4600石に加増され、紀伊雑賀攻めでは雑賀党の首領・鈴木重意を自害に追い込み、四国征伐では敵将・谷忠澄を説得して降伏させる等して謀略面でも活躍。
得意の築城技術を用いて徳川家康の京都屋敷を自費で普請して徳川家康と誼を結び、九州征伐での戦功で2万石の大名になった。

豊臣秀長(羽柴秀長)が没すると、養子の豊臣秀保を後見し、まだ若年の豊臣秀保にかわって文禄の役に参加して渡海する等、大和豊臣家に対して奉公した。4年後、豊臣秀保が早世して主家が断絶すると、主君二人を弔う為に高野山にて出家して隠棲した。しかし藤堂高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉により還俗させられて、伊予宇和島7万石の大名となる。慶長の役には水軍を率いて慶長の役に参加して海戦で勝利し、8万石に加増された。

が、秀吉が没した後の時代を先読みした藤堂高虎は、いち早く徳川家康に接近して諜報役として働き、情報分析に務めて徳川家康の危急を度々救った。豊臣秀吉が没した後に発生した関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の武将でありながら徳川家康の東軍についた。
このとき朽木元綱・脇坂安治・小川祐忠・赤座直保らを裏切らせる事前工作を担当し、本番では大谷吉継の本隊と戦って東軍を勝利に導き、戦後は伊予半国分にあたる20万石を与えられた。

その後は、多くの外様大名が江戸から遠ざけられる中で、徳川家における外様筆頭の藤堂高虎は逆に、伊予・今治20万石から伊勢・津24万石へとより江戸や徳川家康の居た駿府に近いところへと異動となるという異例の人事を受ける。徳川家康に一目置かれた存在となり、大坂冬の陣においても徳川軍として参加して外様組の先鋒を務めた。
このときは真田丸に籠もる真田信繁に大ダメージを与えられた他、家臣の統率に失敗する等あってこれといった大きな戦功を上げることは無く、大坂夏の陣では多数の家臣を失った。しかし犠牲を厭わぬ猛攻が評価されて戦後に32万石に加増された。

江戸幕府の体制が確立して以降も、外様の筆頭として仕えて日光東照宮の造営や、徳川秀忠の娘の入内に奔走し、和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹すると言って反対派を黙らせる等、老いても盛んに働いていたが、晩年には眼病を患って失明し、享年75歳の人生を終えた。

片倉小十郎(片倉景綱)

陸奥の大名・伊達家の家臣。智略にすぐれ、
伊達家中では「智の小十郎」と称される。
主君の政宗とは乳飲み子の頃からの付き合い
であり、常に政宗の身を第一に考えている
ため、政宗が無謀な行動に出た時には
容赦のない辛辣な諫言を行う。

http://www.youtube.com/watch?v=oegHVwiN32s

、独眼竜伊達政宗の師であり、兄であり、片腕であり、片目であり、政宗重臣の中で一等先に出奔しようとして踏みとどまった名参謀である。通称小十郎、備中、備中守。

前半生
片倉家は諏訪大祝の神官を祖に求め、奥州管領・斯波家兼に付き従い奥州に移り住んだという。異説あるが片倉景時(景綱祖父)の代より伊達家に服属し、嫡男・片倉景親(のちの片倉意休斎)が出仕、次男・片倉景重は米沢八幡宮の神職として仕えていた。
※米沢八幡宮の所在については成島、安久津など諸説ある。
そんな大身とは程遠い小家で、小十郎は1557年に片倉景重の次男として出生した。母は鬼庭良直から離縁された本沢直子。異父姉に片倉喜多、異母兄に片倉重継がいる。

1560年父・景重が逝去、母・直子も間もなく後を追い、以降は姉・喜多が母代わりとなって小十郎を教育した。
神職は兄・重継が継いだため、幼少の小十郎は跡継ぎのなかった縁戚・藤田家へ養子に出された。

1567年喜多が梵天丸の養育係を拝命する。

1570年藤田家に嫡男が生まれると、聡明だった小十郎は疎まれ家を追い出されてしまう。
このように粗略な扱いを受けても小十郎は腐らず、喜多の慈愛もあってまっすぐに育っていった。
片倉家は代々神事を執り行うこともあって弓の名手であった。文武教養に優れた喜多は剣術や軍学にも長けていたため、小十郎はこれらを学び修めて機に備えた。また篠笛をよくし、特に愛用の名笛・潮風は後年陣中においても懐に携えていたという。

1571年その才を惜しんだ伯父・意休斎や姉・喜多の推挙を遠藤基信が汲んで、ついに伊達輝宗の徒小姓として取り立てられることとなった。小十郎は忠勤に励んでこの恩に報い、立身の足掛かりを掴んでいく。おそらくこの頃に名乗りを小十郎景綱と改めている。

1575年遠藤基信の推挙により梵天丸の傅役を任じられる。
片目を失ってふさぎ込みがちな梵天丸を闊達な心を以って鍛え上げ、大将たるにふさわしい人物として育てた。
病んだ眼球を小刀で抉り出した逸話が有名であるが、景綱が荒療治を任されるに至った理由は神仏の加護に縁のあった出自が影響していることは間違いない。
政治から医療まで加持祈祷が重きをなした時代である。輝宗らが八幡様の霊験を前に危難も逃げ去るだろうと信じて景綱に任せたというのは充分に論拠となりえる。

1577年梵天丸元服。藤次郎政宗と名乗りを改める。引き続き近侍として勤める。

1581年政宗の初陣に従い相馬との合戦に出陣。無事戦勝。

1584年相馬との長年に渡る領土紛争に決着を付けた輝宗が家中統制の為に政宗へ家督移譲。この間景綱も近侍に相応しい軍功を挙げており、世代交代も手伝ってその地位を確固たるものとしている。
同年嫡男・片倉左門(のちの片倉重綱→重長)誕生。
妻の妊娠中、政宗に子ができないことをはばかって男児なら殺す旨を告げていたが、当の政宗から助命嘆願の書状が下されたため思いとどまっている。

年代は不明であるが景綱は一度伊達家を出奔しようと画策している。その理由については後世の推測でしか語られず不詳であるが、新参者の癖に輝宗近侍となったことに対する嫉妬や嫌がらせが酷く、とはいえ主君の傍らに侍る身にしてはあまりに微禄であり、身を立てるに忍びない窮地が続くならいっそ、と新天地を求めたとする説が主流である。
わずかな家財道具を売り払って路銀に充て旅仕度を済ませた景綱だったが、喜多の説得により翻意し、以後は生まれ変わったつもりで奉公に邁進したという。

苦節を経て一国一城の主へ
1585年小手森城の合戦では鉄砲の釣瓶打ちを提案し攻城に一役買っている。大内定綱の逃亡を知った政宗の命により城中を皆殺しにした後は小瀬川付近へ進軍。手勢を率いて大内勢と合戦に及ぶも双方首10程を取ったところで不利を悟って引き上げる。
同年輝宗が畠山義継の手にかかり死去。忘我に陥った政宗を諌めるも進軍が決定され、二本松城攻めが行われる。
この間、殉死した遠藤基信より御家の将来を託されている。

1586年には人取橋の戦いへと突入していく。怒りに任せた強引な軍略は全く功を成さず、鬼佐竹義重率いる南奥連合軍に次々と前線を破られ、鬼庭左月斎が戦死するなど防戦一方となった。政宗本陣も攻撃を受けるに至る。
伊達成実らの奮戦によりこれをかろうじて防ぎ、まさに九死に一生を得た大激戦であった。
戦中で景綱は「やあやあ殊勝なり、政宗ここに見てあるぞ」と名を騙って敵の耳目を一手に引き付け、追い詰められた主君の窮地を救っている。

度重なる合戦と調略に逃散と内応が相次いだ畠山勢はやがて瓦解し、二本松城を明け渡した。
畠山残党の反抗を殲滅するため、二本松城城代を命じられる。
のち正式に論功行賞が行われ二本松城は成実に、空いた大森城は景綱に与えられている。

1588年の郡山合戦では北方の大崎合戦大敗に乗じて大内定綱が侵攻してくるが、成実らと寡兵でしのぎ続けて政宗の援軍到着まで40日余りを持ちこたえた。
この頃に喜多考案の「黒釣鐘」を旗印として使い始めている。伯父・意休斎の子が病弱であったため、出世頭の景綱が片倉家総領になった証であるとする説もある。

1589年摺上原の戦いでは三番備を担当。向かい来る砂塵に潰走し、旗印を敵に引き裂かれる屈辱を味わった。
これに激怒した片倉家臣が蘆名方の陣へ突っ込み、意趣返しとばかりに法螺貝を奪っている。のちに戦勝の縁起物として政宗より片倉家に下された。
風向きが変わった後、景綱は一計を案じる。小高い丘で戦見物をしていた農民に鉄砲を撃ちかけたのである。
蘆名方は逃げ惑う農民を味方の敗走と誤認し、浮き足立った。この機を逃さず乗りかかったため敵方はひとたまりもなく潰走した。
この戦勝により名門・奥州蘆名氏は事実上の終焉を迎えている。

立身出世の栄に浴する景綱だったが五月の蝿にたかられた政宗を救うためにさらなる真価を発揮していくことになる。

井伊直政(4-2から登場)


https://matome.naver.jp/odai/2139379919253300001/2142422198188334803

井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。
徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
井伊直政 – Wikipedia

「井伊の赤備え」と呼ばれた史実のとおり、徳川勢ながらも赤い甲冑を身にまとっています。
その代わり、青いマフラーで徳川アピール。マフラーによってヒーロー感も出ていますね。
美男子として知られているため、顔立ちも整っています。更に、井伊家の旗印である井桁も、随所にあしらわれています。義母・井伊直虎や、ライバルの島津豊久が無双武将として参戦しており、徳川家・東軍の強化にもなる井伊直政。『戦国無双』に向いている逸話の多い武将でもあるため、参戦の要望は多い武将でした!
戦国無双4‐II 新キャラクター「井伊直政(CV:小西克幸)」を徹底紹介! : 真・無双Blog

井伊直政の武器は「尖槍」。
史実でも槍を使っていたためこの武器に決定したとのことです。
井伊直政が主人公キャラクターとなる「新星の章」では、義母・井伊直虎の支えや、好敵手・島津豊久との戦いを通し、徳川の守護神・本多忠勝と肩を並べるまでに成長する井伊直政の姿が描かれるようです。
鯉沼プロデューサーのインタビューによると、井伊直政は
「見た目は熱血漢に見えるがクールな性格」
「戦隊モノで言えばレッドではなくブルー」
戦国無双4‐II 新キャラクター「井伊直政(CV:小西克幸)」を徹底紹介! : 真・無双Blog

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2015年02月18日