13世紀から16世紀のユダヤ人問題:隔離政策と追放のはじまりがわかるまとめ★

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ルネサンスが始まった時期、ヨーロッパ中のユダヤ人が隔離追放されていった時代でもあった。

十字軍運動の経過とユダヤ人政策のはじまり

カトリック教会が、ユダヤ人を差別しはじめた第4回ラテラン公会議

法王インノケンティウス3世

十字軍運動は続いていたが、キリスト教国によるイベリア半島の再征服運動の進行が思わしくなかった。

インノケンティウス3世は、キリスト教国家に協力を呼びかけ、ついに1212年にナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝に大勝。以降イスラム勢力に対して優位に立つことになる転換点となった。

インノケンティウス3世の時代は教皇の権力が全盛期であり、西欧諸国の王に対して、処罰や破門、臣従させるなど、王権より教皇権が優位である事を強く示した。第4回ラテラン公会議において、「教皇は太陽。皇帝は月。」と演説した事は有名である。

カトリック教会のユダヤ人に対する決定

ユダヤ人とイスラム教徒に特別な服装を義務づけた

12-13世紀頃以降、キリスト教世界では、ユダヤ人ら少数派に対する寛容が失われたと考える研究者もいる。

ラテラノ公会議において、キリスト教会は自らの統一のため、敵対するものを明確化した。ユダヤ人は教会に敵対するものとされた。

ユダヤ人はそれとわかる身なりをするよう求められ、他にも多くの制限が課されるようになった。またこのころから、ユダヤ人は聖書時代とは変質しており、もはや彼らに寛容にする理由はないとの見方も広まったと言われる。

業務制限

高利貸しおよび非倫理的な通商活動を制限するため、近い将来ユダヤ人は居住区域を限定されることになる

第四ラテラン会議では、イスラム教徒やユダヤ教徒の位置を明確化するとともに、いわゆる異教徒の通商活動を制限することを決定づけた。

この時代においては、貴族や高位聖職者が負債を抱えて実質的にユダヤ人に支配権を奪われてしまうという事態が頻発、問題視されていた。

会計技術のまったくないヨーロッパの貴族や聖職者は、会計技術を持つイスラム商人やユダヤ商人、あるいは金融業者によって、たやすく、負債をコントロールされてしまっていた。

ユダヤ人がキリスト教徒を使用人として雇うことを厳禁した

当時、ユダヤ人は共同出資会社という形態をとってキリスト教徒を利用していた。表看板を担当するのはキリスト教徒、実質的経営者はユダヤ人という経営スタイルで金融業を営んでいたのである。
そのため、問題が起きない間はユダヤ人経営者が利益を上げ続け、問題が起きると表看板を持つキリスト教徒が罰を受けるという事態が生じていた。

ユダヤ人がキリスト教徒の女性を家庭や組織に雇い入れることを厳禁した

ユダヤ人が、若い女性を売春に就かせ、そうした女性を利用して要人に対する支配権を獲得するというケースが生じていた。

影響が周辺諸国へ飛び火した

1253年、フランス政府はユダヤ人らがラテラン公会議の布告に従わなかったという理由で、ユダヤ人を国外追放した。

追放されたユダヤ人は英国に渡った。

イングランドへ飛び火

1255年には、イングランドのほとんどの貴族と高位聖職者の実質的支配権はユダヤ系金融業者のものになっていた。

借金を負った有力者が、貸主に実質的に支配されてしまうという問題が常に生じていた。

1275年、エドワード1世がユダヤ人法令を発布、イングランドで「ユダヤ人指導者」が高利貸しを営むことが禁じられた

ユダヤ人高利貸しの影響がキリスト教徒あるいはユダヤ人同士であっても負債者に対して行使されることを禁じる目的で下院議会によって可決された法律となった。第四ラテラン会議以降キリスト教徒が一方的に「敵対的」「不寛容」になったとする考え方もあるが、初期の段階では、まず業務への規制が行われていた。

1290年、エドワード1世がユダヤ人追放令を発布、イングランドから全てのユダヤ人が追放されることになった。

しかし、1275の法令によって、実質的にはユダヤ人の貸金業を制限することはできなかったため、政府はユダヤ人を追放するというユダヤ人追放令を発布。以後350年にわたってイングランドからは公式にはユダヤ人が追放された。

周辺国でのユダヤ人追放

その後、エドワード1世の措置はヨーロッパ各国の王制が見習うことになる。この時代、貴族や王族はユダヤ人に財務を依存していた。イングランドでのユダヤ人追放移行、ヨーロッパ諸国で同様の追放が続くことになる。

1306年 フランス 国外追放
1370年 ベルギー 国外追放
1380年 スロヴァキア 国外追放
1394年 フランスから永久追放
1420年 オーストリア 国外追放
1444年 オランダ 国外追放
1492年 スペイン 異端審問はじまる
1495年 リトアニア 国外追放
1498年 ポルトガル 国外追放
1540年 イタリア 国外追放
1551年 バヴァリア 国外追放

西ヨーロッパ諸国がユダヤ人から経済的支配権を取り上げた結果ルネサンスが始まったと考える歴史家さえ存在する。もっとも、同時期に十字軍運動も終焉している。

ただ、13世紀まである程度自由だったユダヤ人が急速に制限されたのはこの時代である。

ゲットー:ユダヤ人強制隔離のはじまり

ユダヤ人の隔離自体は古代ローマやアレクサンドロスの時代までさかのぼることができる。だが、ローマ帝国時代の大規模なユダヤ人隔離がはじまったのはこの時期である。1555年パウルス4世によってついにローマカトリック教会主導のゲットーが成立した。

ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した。この頃にできたユダヤ人隔離居住区としてはフランクフルト・アム・マインのユーデンガッセやプラハのヨゼフォフが特に有名である
はじめてゲットーと呼ばれるようになったユダヤ人隔離居住区はヴェネツィア共和国のヴェネツィア・ゲットーである。1555年には反ユダヤ主義者のローマ教皇パウルス4世がヴェネツィアのゲットーを真似てローマ・ゲットーを創設した。

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2018年07月31日