『永遠の0』に登場する実在の凄腕パイロット4人。撃墜王の名を轟かせた男たち。

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映画やドラマとなった『永遠の0』の原作に登場する、太平洋戦争時に実在した凄腕パイロットを紹介。岩本徹三や坂井三郎、笹井醇一、西澤廣義など。「撃墜王」の異名を持った零戦の搭乗員たちの略歴や戦時中のエピソードをご覧下さい。また、当時の貴重な写真も掲載しています。

『永遠の0』に登場する、実在の凄腕パイロットたち

◆百田尚樹の小説『永遠の0』に登場する、実在の凄腕パイロットたちを紹介。

◆ページ最後に各々の写真をアップしています。
エースパイロット同士の貴重な2ショットなどもありますのでご覧下さい。

『 零戦撃墜王 』 岩本徹三


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岩本徹三 - tetuzou iwamoto –

1916年6月14日 – 1955年5月20日

大日本帝国海軍戦闘機搭乗員。

樺太出身。

最終階級は海軍中尉。

自ら「虎徹」と称し垂直降下一撃撃墜を特技とした空戦の達人だった。

操縦練習生を卒業後、航空隊勤務を経て、第13航空隊に配属され中支戦線に進出し、昭和12年2月25日の南昌攻撃で初空戦ながら単機にて敵機5機撃墜し、9月に帰国するまでに計14機を撃墜,日華事変のトップ・エースとなった。

昭和16年4月空母「瑞鶴」乗組となり、零戦訓練を受ける。

10月新鋭空母「瑞鶴」戦闘機隊に転じハワイ作戦・インド洋・サンゴ海海戦に参加した。

昭和17年8月、大村航空隊教員に転じ本土へ帰還、横空、追浜航空隊勤務を経て昭和18年3月、新編成の第281航空隊付に発令され、北千島方面の防空任務ののち11月にラバウル派遣隊に加わり、激戦のラバウルに進出、翌年2月末トラック島へ後退するまでの3ヶ月間、第201・204・253航空隊に転じ連日の迎撃戦に健闘し142機を撃墜した。

昭和20年3月、第203航空隊戦闘303飛行場に転属し、南九州防空戦、沖縄航空戦に参加して岩国基地で終戦を迎えた。

総撃墜機数216機、協同撃墜機数26機、地上撃破2機。

戦後、2年間の闘病生活、元気になったらもう一度飛行機に乗りたいと念願したという。

“零戦撃墜王”岩本徹三氏は日華事変から終戦までの回想録を大学ノート3冊にぎっしりと書き残し、昭和30年5月20日逝去。

『 ラバウルの魔王 』 西澤廣義


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西澤廣義 – hiroyoshi nishizawa –

1920年1月27日 – 1944年10月26日

大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。

長野県上水内郡小川村出身。

海軍中尉(戦死後、飛曹長から二階級特進)

昭和14年(1939年)操縦練習生課程修了。

台南空、太田二飛曹とともに坂井一飛曹から鍛え上げられ、
3人共に台南空の主力となっていった。

1942年8月7日のガダルカナルへの長距離作戦では、アメリカ軍艦載機との空戦においてF4F6機を撃墜した。自らも被弾したが無事に帰還している。

11月に台南空は部隊改称により251空となり、これ以降も西澤はP-40やP-38、そして逆ガル翼の新鋭機F4Uを相手に次々と撃墜を重ねていった。

1943年9月に、不足し始めた戦闘機搭乗員養成のため一時的に本土へ帰ったものの、
練習生を「戦闘機に乗るなど3年早い」と不合格にしたというエピソードも残されている。

その後、再度戦闘員としての任務を希望し、フィリピンの201空に配属される。

1944年10月25日の神風特別攻撃隊の初出撃の際には、関大尉率いる敷島隊の直掩として零戦4機を率いて出撃し、哨戒中のF6F2機を撃墜して敷島隊の突入進路を切り開くという重要任務を遂行した。
この際、西澤自身も神風特別攻撃隊への参加を再三直訴したが、彼の抜群の技量ゆえに却下された。

その翌日。

乗っていた零戦を別の搭乗員に譲るため、西澤は輸送機に乗りマバラカット基地へ向かう。
しかし、F6F2機の攻撃を受け撃墜された。

抜群の技量を持ち、日本海軍搭乗員のなかでもトップクラスであった彼が、
戦闘機搭乗中ではなく、輸送機の中で為す術もなく死んでいった事実に、
当時の同僚たちは激しい無念を抱いた。

彼の生涯での撃墜数だが、
公式記録では協同撃墜429機・撃破49機、この内単独撃墜36機・撃破2機となっている。
だが、詳細な数は不明。
家族への手紙では143機、戦死時の新聞報道では150機と書かれている。
草鹿任一司令長官より100機撃墜記念の感状と軍刀を受預していることから少なくとも海軍航空隊内部では、100機以上の撃墜王として認識されていた。
一般に認識されているのは87機であり、これは岩本徹三の撃墜数80数機、とほぼ同数。
80機を超える撃墜数を達成したエースパイロットとして認識されるようになっている。

嘗ての敵国であるアメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館には、
西澤の肖像が飾られている。

『 大日本帝国海軍のエース 』 坂井三郎


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坂井三郎 – Saburo Sakai –

1916年8月26日 – 2000年9月22日

大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。

佐賀県佐賀郡西与賀村出身。

太平洋終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。

戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』は世界的ベストセラー。

故郷で飛行艇の旋回を見て、飛行機に対しての憧れをもち海軍へと入隊する。
当初は艦の砲塔砲手に命じられるものの、飛行機パイロットへの道を志すべく、操縦練習生を目指すことを決意する。
そのことで上官からの嫌がらせや体罰などに苦しむも、無事、最後のチャンス(年齢制限)をモノにして、搭乗員になる。
練習生時代から才能を発揮したようで、主席で卒業。戦闘機パイロットとなった。

日中戦争時に坂井三郎は中国大陸に展開する部隊に配属。ここで歴戦のパイロットたちからの教育を受けつつ、経験を積む。
1940年には当時の最新型であるゼロ戦に乗ることになった。
沈着冷静、巧みな操縦技術や冷静な戦闘機動など才能を発揮。
当時指導にあたった先輩の中には、笹井醇一中尉の姿もあった。

1941年の開戦後、彼の所属する部隊は南方を転々としつつ、彼も戦果を重ね長躯ラバウルまで進出し、ソロモン海、ニューギニアでの戦いを繰り広げることなる。
が、1942年8月、ガダルカナルでの最初の航空戦の際、敵機と戦闘中、頭部を負傷し右側の視力を失い、半身不随のような状況になる。しかしその後不屈の意思で4時間という長時間飛行を行い、無事ラバウルへと帰還するという奇跡を起こした。

帰還後は内地へと撤退することになるが、その際、親友であった笹井醇一との別れを惜しむ。

正確な数字は定かではないが、当時の彼の敵機撃墜数はかなりのもので、
「撃墜王」として当時の海軍から崇められた。

『 ラバウルの貴公子 』『軍鶏』  笹井醇一


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笹井醇一 – jyouichi sasai –

1918年2月13日 – 1942年8月26日

大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。

東京都青山出身。

海軍少佐(死後、中尉から二階級特進)

造艦大佐の長男として東京に生まれる。

父親の転勤に伴って各地を転々とするも、18才で海軍兵学校に入学。

1941年11月に訓練課程を終了、台南空に着任。世情既に一面暗雲立ちこめており、翌12月には太平洋戦争開戦。
即戦力のみが求められる最前線において、先任の搭乗員である坂井三郎の指導の元、メキメキと技量を延ばしていく。

部隊の進出に伴い、フィリピン・蘭印・ラバウルと転戦。坂井・西沢といったエース達サポートをうけ撃墜数を増やしていき、いつしか名実共に 「台南空の中隊長」 へと成長していった。

1942年8月
戦況が悪化する中、
師であり部下であり、そしてまた親友であった坂井が負傷し内地に帰還。
(別れの際のエピソードは有名だが、ここでは割愛。)

同年8月25日
笹井中隊が連日推して出撃。この日の敵基地上空航空戦で、遂に未帰還となる。
彼の撃墜は誰一人見ていなかったが、戦後米国の証言により彼の最期が明らかに。

その日、米海兵隊撃墜王のマリオン・カール大尉と一騎打ちとなり、
敵機を失速、墜落寸前まで追い詰めるも、カール大尉の捨て身の反撃を受け、爆散した。

◆現存する彼らの写真


https://matome.naver.jp/odai/2138954200869650101/2139036126155166303
零戦と笹井醇一

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負傷後奇跡の帰還を果たした坂井三郎と、
駆け寄る笹井醇一

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坂井三郎と西澤広義の貴重な2ショット

https://matome.naver.jp/odai/2138954200869650101/2139036126155166803
180cmを超える高身長の美男子として知られた西澤広義。

https://matome.naver.jp/odai/2138954200869650101/2139036126155166703

エースパイロットの貴重な集合写真。

前右から西澤、太田
後ろ右から坂井、笹井、高塚。

ラバウルにて。

※大田、高塚については今回は割愛しましたが、
エースパイロットとして有名です。

https://matome.naver.jp/odai/2138954200869650101
2015年02月04日