川崎逃走事件が解決!日本の厳重な警備を破った【脱獄事件史】

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横浜地検川崎支部の容疑者逃走事は無事に解決ししましたが、日本は世界でも最も脱獄事件が少ない国。そんな厳重な警備をかいくぐって脱獄した事件をまとめてみました。
横浜地検川崎支部から逃走した事件
横浜地検川崎支部から逃走した事件で、2014年1月9日に逮捕された杉本容疑者。

◆ 日本国内の脱獄事件 ◆

● 日本の脱獄史上最多の脱獄魔ー脱獄は計6回

西川寅吉
明治の時代に生き、幾多の伝説を生み出した男がいた、その名を五寸釘の寅吉という。

五寸釘寅吉こと西川寅吉は、安政元年3月(1854年)、現在の三重県に百姓の次男として生まれた。

寅吉が初犯をおかしたのは14歳の時である。

賭場でイカサマがばれて殺された叔父の仇を討とうと敵の一家に忍び込み、親分と子分4人を斬りつけ火を放って逃げた。

少年のため死刑を免れ、無期刑となって三重の牢獄に入れられた寅吉は、仇討ちをした相手がまだ生きていることを知り、牢獄を脱走。仇を求めて各地の賭場から賭場を渡り歩くうちに、すっかり渡世人の垢がしみついていった。世は一大転換を遂げ、年号は明治と改められていた。

2度目の脱獄で逃亡中に巡回中の警官に発見された寅吉は、逃げる時に路上で板についた五寸釘を踏み抜いてしまった。

しかし、そのまま3里(12キロ)も逃走。
結局、力つきて捕まったが、この時以来「五寸釘」の異名がつけられた。寅吉の身柄は東京の小菅監獄に移され、そこから遠い北海道の地に送られることになる。
寅吉の名は全国に知れわたっていた。
博物館 網走監獄 監獄秘話「五寸釘 寅吉」

今日札幌に現れたかと思うと、次の日は留萌と、神出鬼没で、しかも豪商の土蔵から盗んだ金は、バクチで湯水のように使う一方で貧しい開拓農民や出稼ぎ夫の家に投げ込んだりしたため、一躍有名になったばかりでなく、庶民からもてはやされ一種のヒーローになっていった。

出所後、「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、全国を巡業した。

寅吉は幾人もの興行師に利用されたあげく、最後には捨てられた。昭和の初め、故郷の三重県に帰り、息子に引き取られて、平穏な生活に入り、畳の上で安らかな往生を遂げている。
博物館 網走監獄 監獄秘話「五寸釘 寅吉」

● 「昭和の脱獄王」ー4度の脱獄に成功!

白鳥由栄
白鳥由栄(しらとりよしえ)1907年~1979年

28歳の時、強盗殺人の罪で刑務所に服役。

脱獄不可能といわれる4つの刑務所からの

脱獄を成功させた脱獄王。

吉村昭の『破獄』のモデルにもなった

超人的な体力と腕力を持っていたとされる。

1日に120kmもの距離を走ることができ、網走刑務所では、手錠の鎖を引きちぎるという怪力ぶりも見せており結果、重さ20kgもの特製の手錠を後ろ手に掛けられることとなった。

地中深く突き立てられた煙突の支柱を素手で引き抜き、40歳を過ぎてもなお、米俵を両手に持って手を水平にすることができるなど、その怪力ぶりは常識をはるかに上回る。

身体の関節を比較的容易にはずすことができる特殊な体質を持っていたとされ、
頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に抜け出すことが出来たという。
白鳥由栄 – Wikipedia

昭和8年4月9日、盗みに入った家で発見され、殺人をおかしてしまう。

2年後、その時の共犯者が別件の「土蔵破り」で捕まったのを新聞で知る。

義理堅い白鳥は自首した。

昭和10年12月10日、青森刑務所に移送される。

これが受刑生活のはじまりだった。

脱獄シーン
脱獄風景の模型が近くの「博物館網走監獄」に残る「伝説の脱獄王」が、青森の白鳥由栄(初犯時25)である。

【1】青森刑務所……昭和11年、入浴に使う手桶の金属製タガを外して合鍵を作り、鉄格子の扉を開けて逃走。

【2】秋田刑務所……三方を銅板で覆った特製独房の壁をよじ上り、高さ3.2mにある天窓を破って脱獄。

【3】網走刑務所……鋼鉄製の手枷と足枷をかけられて独房に入るが、食事の度に口に含んだ味噌汁を手錠や視察窓のネジに吹きかけて腐食させ、収監から1年4か月後に視察窓から脱走。

【4】札幌刑務所……拳銃を携帯した看守に24時間態勢で監視されるが、便器の鉄タガをノコギリ状に加工して床板を切り、食器で床下を掘って脱獄。

そんな白鳥だが、最終的には改心して府中刑務所で模範囚として刑に服す。「人間が作ったものを人間が壊せないはずはない」と語っていたという。
日本のお尋ね者【2】小説のモデルにもなった4回脱獄男 – ライブドアニュース

● 剣術の達人たちの脱獄事件ー広島護送死刑囚脱獄事件

1897年(明治30年)6月19日日に発生した死刑囚の脱獄事件。

4人はみな免許皆伝の腕前であったといわれている。特に首謀者の貝原はかつて大坂与力同心剣道指南役であったと伝えられている。

脱獄者は資産家の家などで強盗殺人を働いた死刑囚、貝原喜勢冶、福永友三郎、湊蔵貞、明石章吉の4名で、 死刑執行の為移送されていた途中で宿泊した広島県の廿日市警察署から脱獄しました。

6月21日には警官との切りあいで貝原喜勢冶が逮捕、福永友三郎は死亡し、湊蔵貞も後に逮捕。 明石章吉は脱獄後消息不明となりました。
脱獄犯・脱獄事件の一覧 – いちらん屋(一覧屋)

日本では珍しい死刑囚の脱獄が成功し、その後時効が成立したとおもわれる
広島護送死刑囚脱獄事件 – Wikipedia

● 殺人犯の国外逃亡が成功した事件ー名古屋少年匕首殺害事件

1945年(昭和20年)8月30日に愛知県名古屋市北区で発生した殺人事件で、匕首(ひしゅ、あいくち)により切りつけられた1人が死亡し、1人が負傷しました。

後に犯人として朝鮮人が逮捕されましたが、名古屋拘置所から脱獄し逃亡しました。

事件発生から50年以上が経過し、しかも犯人が数年前に韓国に逃亡し、日本に入国する可能性が低くなったことから、2001年に名古屋地方裁判所は免訴の判決を言い渡し、裁判を打ち切ることになった。
名古屋少年匕首殺害事件 – Wikipedia

● 一族の協力で脱獄し、何度も脱獄を図った事件 -栃木雑貨商一家殺害事件

1953年3月17日、市羽村(現在の市貝町)に住む雑貨商一家3人と使用人が惨殺され、金品が物色される事件が発生した。

そのうえ被害者のうち女主人と使用人には強姦された形跡があり、精液も2種類検出された。

そのため、捜査機関は複数犯による凶行として被疑者を絞り込んだか、見つけ出せずにいた。
栃木雑貨商一家殺害事件 – Wikipedia

基になった事件の概要

1955年5月11日、死刑囚が兄から背表紙に金切り鋸を隠した本を差し入れてもらい、鉄格子を切断して東京拘置所を脱走した事件。

脱獄から11日目に実家近くで張り込んでいた警察官によって、力尽きかけていた脱獄囚は確保された。
この時警察官に「頼む、ひと目でいいからおふくろに会わせてくれ」と懇願し、その望みだけは大勢の警察官と新聞記者が見守る中で叶えられた。
2人は涙の再会を果たしたが、これが今生の別れとなった。
栃木雑貨商一家殺害事件 – Wikipedia

犯人Kの親族はKの脱獄を諦めなかったようで、死刑が確定した直後の7月末にKの実妹(当時19歳)が金鋸と安全剃刀を忍ばせた石鹸を差し入れようとして逮捕され、その後実家の家宅捜索によってもう一人の実妹(当時24歳)も逮捕されている
栃木雑貨商一家殺害事件 – Wikipedia

脱獄して逮捕された後

●脱獄犯は差別に基づく冤罪であったとの主張もある事件ー藤本事件(菊池事件)

事件は犯人とされるハンセン病の男性が逆恨みから事件を起こしたとされ、爆破事件に大して懲役10年の判決を言い渡され、菊池拘置所に収監されていましたが、 1952年6月16日に脱獄しました。

脱獄後の7月6日に爆破事件被害者の役場衛生課職員が惨殺された姿で発見され、7月12日に脱獄していた男性が逮捕されました。
脱獄犯・脱獄事件の一覧 – いちらん屋(一覧屋)

基になった事件の概要

藤本はダイナマイト事件一審判決直後の1952年6月16日に恵楓園内の菊池拘置所から脱獄した。

全国ハンセン氏病患者協議会は、岩波書店の雑誌課長らを中心に結成された「藤本松夫さんを死刑から救う会」とともに早くから藤本を支援していた。

1960年には支持者は政党人、作家、文化人、宗教家ら1000名に達し、公正裁判を求める署名は50000筆を超えた。

「救う会」には共産党の野坂参三や、後に首相になった中曽根康弘なども名を連ねた。
藤本事件 – Wikipedia

支援団体について

● パンツを使った脱獄事件ー広島拘置所尾道拘置支所脱獄事件

25歳時の1963年1月20日午前7時ごろに当時住んでいた広島県三原市の国鉄三原駅前にあった食堂の経営者の女性(当時53歳)を殺害し2万円を奪った強盗殺人事件を引き起こした。

Hは他にも強盗、婦女暴行など10件の余罪があった。
広島拘置所尾道拘置支所脱獄事件 – 広島拘置所尾道拘置支所脱獄事件の概要 – Weblio辞書

基になった事件の概要

運動場で拾った小石を、
独房にある畳や布団から入手した紐にくくりつけ、
それをパンツのゴムを利用し、
鉄格子から拘置所の塀の外へ弾き飛ばしたという。

そして拘置所の外に落ちたその紐に、
死刑囚の弟分らに金切りのこぎりを括りつけさせる。

後に紐をたぐり寄せ、
刑務官の目を盗んで金切りのこぎりを入手した。

4ヶ月かけて自身が収監されていた未決囚独房17号の鉄格子を金鋸で切断した。また脱獄決行までの4日間は断食して少しでも身体を細くした。そして1965年4月10日夜に脱獄した。
広島拘置所尾道拘置支所脱獄事件 – Wikipedia

ブカブカの学生服を着た不審者がいるとの通報があり、9時25分ごろに引野町皿山付近の路上で逮捕された。Hは逃避行のなかで前述の強盗、強姦と傷害3件のほか、窃盗4件、同未遂1件、住居侵入1件と罪を重ねていた。
広島拘置所尾道拘置支所脱獄事件 – 広島拘置所尾道拘置支所脱獄事件の概要 – Weblio辞書

脱獄後の逮捕

● 2回の脱獄事件と1回の未遂事件ー広島刑務所中国人受刑者脱獄事件

李国林は、窃盗を繰り返していたが、2005年5月に岡山県岡山市内で職務質問を受けた際に警察官に向けて拳銃を発砲したとして逮捕され、殺人未遂や銃刀法違反などにより起訴された
2308 中国は見る(1208) 広島刑務所から中国人受刑者が脱獄 (上): 有縁ネット

基になった事件の概要

1回目の脱獄事件
岡山西警察署で拘留中の2005年6月には逮捕時に受けた足の傷を治療する為、病院に行く際に警察官の隙を突いて護送車両を奪い逃走する事件を起こしていた(約30分後に逮捕される)。
2回目の脱獄
李国林は2012年1月11日午前10時半頃、点呼前に運動場隅の用具小屋の屋根に上り、高さ約2.6メートルの壁を越えるところが写っていた。

刑務所内には98台のカメラがあるが、
監視する職員は1人で、見落としたという。

李受刑者は、その後、雨どいなどをつたって、事務所の屋根に上り、敷地内を移動、工事のため設けられた仮塀を越え、更に工事中の足場を利用して塀を越えて脱走。

逮捕現場
女性捜査員が中国人受刑者を発見。職務質問で本人であることを認めた。

捜査員の連絡で応援のパトカーが来たときに、中国人受刑者は近くの建物の非常階段に逃げ込んだが、そこで身柄を確保された

●18時間の逃亡劇ー広島・八本松タクシー強盗殺人事件

銀行強盗に使おうとタクシー運転手を射殺しタクシーを強奪。

また1961年4月に拘置所から脱獄し18時間後に拘束される事件も起こした

●中学生の機転で逮捕された脱獄囚ー中野刑務所看守殺害脱走事件

1961(昭和36)年1月21日13:30、東京・中野区新井町336の936人収容されている中野刑務所から、窃盗で収容されていた清水義平(27)、武藤照雄(28)が脱走、刑務所裏の共済組合学生寮2階のトイレから、梁瀬三喜雄看守(38)が殴殺されて見つかった。

2人は水道配管作業中で、青い作業着と地下足袋で逃走した。

王子駅前の映画館前で、王子中3年の男子生徒(14)の知らせで、王子駅前巡査派出所の署員は武藤に職務質問、連行して逮捕した。中学生は脱走犯ではないかと2人連れを尾行していて、もう1人は王子2丁目でいなくなったという。大人なのに丸坊主なので不審に思ったという。
中野刑務所看守殺害

中学生の機転で逮捕!

https://matome.naver.jp/odai/2138932486290513201
2014年01月12日