かあちゃんがオラに冷たくなったのは、とうちゃんが帰ってこなくなってから二週間が過ぎた頃だった
しんのすけ「かあちゃん、」
みさえ「…」
しんのすけ「かあちゃん!」
みさえ「…」
しんのすけ「もー聞いてるの?みさえのケツデカおばばー!!三段腹ー!!」
みさえ「ひまちゃん、煩いのいるからあっちで寝ようか」
みさえはしんのすけに見向きもせず、ひまわりを抱き抱えて二階へと上っていった
しんのすけ「…」
しんのすけ「かあちゃん…どうしたんだろ、何か変だゾ…とうちゃんも帰ってこないし…」
幼稚園ももう一週間休んでいる。行くなとみさえに言われたからだ。最初はしんのすけも反抗したものの、みさえの異変に気づき、何も言えなくなってしまった。
しんのすけ「…皆に会いたいぞ」
今日は何も口にしていない。おやつのチョコビももう底をつきてしまった
しんのすけ「お腹すいたゾ…何かないかなー」
冷蔵庫を漁るしんのすけ
そこに
みさえ「何してんのよ」
しんのすけ「あ、かあちゃ」
バシィッ
しんのすけ「うわぁ!」
みさえ「何勝手に漁ってんのよ、きったない」
みさえがしんのすけを睨みつける。とても、冷たい眼差しだった
しんのすけ「だ、だって…オラお腹が」
みさえ「チッ、うっさいわね…分かったわよ、ったく」
そう言ってみさえは戸棚から缶詰と缶切りを取り出した
しんのすけ「!!!」
しんのすけ目掛けて缶を投げつけた。
しんのすけ「うわぁ!!」
ガッ
缶がしんのすけの腕に当たり、床に転がった。幸い頭には当たらなかったが、缶がぶつけられた腕が、嫌に痛く疼いた
しんのすけ「何するの、かあちゃん!危ないゾ!!」
しんのすけは立ち上がり、みさえに向かって声を張り上げた。しかし、その足は震えていた
みさえ「お腹空いたって言ったのはアンタでしょ。それ食べて早く寝てちょうだい。」
みさえはしんのすけに舌打ちをした後、粉ミルクとポットを抱えて、二階へと消えて行った
しんのすけ「何で…」
しんのすけは、缶詰を手に持ち、その場に座り込んだ。体中が震えている。あの目が、あの声が、あの手が、全てが恐怖に満ちていた。あれは、誰なのだろう。自分の知っている母親ではない
しんのすけ「何で…」
暫くしてから、落ち着きを取り戻したしんのすけは、缶切りで缶を開けた。鯖缶だが、酷く嫌な臭いがした。これだけでは食べられない。しんのすけは炊飯器を覗いた、が、案の定。米一粒もなかった。
仕方なく、鯖缶だけで食べることにした。今は恐怖を紛らわすためにも、早く空腹を満たしたかった。
テレビのつかないリビングで一人、正座をして黙々と食事をした。静か過ぎる空間。二階からはみさえがひまわりをあやす声が聞こえる。
楽しそうなひまわりの笑い声
しんのすけ「何で」
何で
しんのすけ「何でオラだけ……」
ふと、広いテーブルに目をやる。ほんの数週間前まで、ここで一家団欒、食事をして、テレビを見て、遊んでいたのに。休みだとごろごろしている父親にちょっかいをかけたり、バーゲンのチラシを凝視している母親の横でひまわりと遊んだり。
もう、ひまわりの顔もだいぶ見ていない。何よりも
しんのすけ「…とうちゃん…」
父親は、帰ってこない
暗く静かな部屋に、しんのすけの啜り泣く声だけが響いた
ガサ、ガサガサ、
バタバタ
次の日の朝、しんのすけは騒がしい音で目が覚めた。被っていた薄いシーツを剥がし、眠い目を擦りながら音のするリビングへ向かう
すると
しんのすけ「!!」
みさえが無表情で、しんのすけのおもちゃをゴミ袋に詰め込んでいた
しんのすけ「かあちゃん何してんの!」
みさえの腕に飛びつくしんのすけ。そんなしんのすけを一瞥して、構わず作業を進める。しんのすけのおもちゃ達が、乱雑に袋詰めにされていく。
しんのすけ「かあちゃんやめてよ!オラの宝物なんだゾ!みんなみんな、とおちゃんとかあちゃんに貰った、大切な宝物なんだゾ!」
必死に叫ぶしんのすけ。なんとか腕にしがみつき、止めようとするがしかし、力が入らない。
それでも、必死に腕にしがみつく。
しんのすけ「かあぁちゃん!!!!!!」
みさえ「………このっ!」
バチン!!
しんのすけ「ゔぅっ!!!!」
苛立ったみさえはしんのすけを腕から引きはがし、ビンタを食らわせた。とてつもない力だった。頭がクラクラして、しんのすけは、また力無く座り込んでしまった。
.
突如、昨日の夜の痛みがフラッシュバックし、しんのすけは震え出した。そんなしんのすけを見下して、みさえが吐き捨てるように叱咤した
みさえ「そうよ、あたしがアンタに与えたのよ。こんなガラクタ。」
続けて袋におもちゃをほうり込む。半透明な袋の中に積木に潰されて折れてしまったカンタムロボの腕が見えた
積木にボール
新幹線
パズル
アクション仮面
シリマルダシ
みんなみんな、小さい頃からずっといっしょに遊んできた、大切なおもちゃ。片付けなくてかあちゃんにおこられたり、ひまわりと取り合ってケンカしたり、とうちゃんと怪獣ごっこで遊んだり、思い出の詰まった、大切な友達
なのに
それなのに
しんのすけ「うわあああああああああああああああっ!!!」
しんのすけはみさえに飛び掛かっていた。怖いし、痛いし、震えは止まらない。けど、何よりも、自分の大切な思い出をゴミのように捨てられてしまった、捨てた母親が許せなかったのだ。
背中に飛び乗り、髪の毛を鷲掴みにする。ブチブチと何本か毛が抜ける音がした
みさえ「いだだだだだだだ!!」
しんのすけ「かあちゃんのおバカー!リバウンドおばばー!若白髪ー!!!!!!」
みさえ「こ……………っ!」
と
ガリッ
みさえの伸びた爪がしんのすけの頬を引っ掻いた。皮の切れる感覚がした。
しんのすけ「いっ…た!!」
あまりの痛みに、しんのすけは手を離してしまった。そして
みさえ「何すんだこのガキがああああああああ!!!!」
しんのすけを馬乗りに押さえ込み、みさえの拳が、飛んできた
一発、二発、三発、何発も何発も拳が落ちてきた。いままでのげんこつなんか比べものにならない痛み、もはや痛みどころの感覚ではなかった。口の中は切れ、生暖かい何かが広がる。もう目も開けていられない。痛みに声を漏らすことしか出来なかった。
暫くして、みさえの鉄拳が止んだ。息を荒くして息子を睨みつけるみさえ。薄くしんのすけが目を開くと、鬼の形相で涙を浮かべるみさえの姿が見えた
みさえ「あんたなんか、消えればいい…」
吐き捨てるように呟いたそれは、しっかりとしんのすけの耳に届いていた。目を見開くしんのすけ
しんのすけ「がぁちゃ……?」
みさえ「アンタ見てるとイライラするのよ…」
みさえは、震えていた。涙を流しながら。しんのすけを見下ろしながら
みさえ「何もかもアイツと瓜二つのアンタなんか……!」
しんのすけ「がぁちゃん……!」
みさえはハッと我に返ったように顔を上げると、何も言わず袋を持ち、フラフラと立ち上がった。
みさえ「もう…………嫌………」
みさえは死んだ目で虚空を見つめ、二階の部屋に戻って行った
リビングには、空になったおもちゃ箱と傷だらけのしんのすけが残された
しんのすけ(口の中、痛いゾ…)
殴られている間に口の中が切れてしまって、思うように話せない。とにかく、早く起き上がらなけいと、と自分に言い聞かせて、痛む体を無理矢理起こした。ガラスに反射する自分の姿が見えた。顔は腫れ、唇と引っ掻かれた唇から血が出ていた。
自分でも目を反らしたくなるほど
あまりにも無残だった。
しんのすけは震える体で洗面所へ向かい、濡らしたタオルで傷を拭った。救急箱はどこにあるかわからないため、傷口には絆創膏の代わりにティッシュをあてがった。
みさえ『やだ、どうしたの!』
しんのすけ「…」
ふと、公園で転んで帰ってきたときの様子を思い出した。服は泥まみれ、膝は擦り傷だらけ。
みさえ『こんなになって…何があったの!?』
しんのすけ『風間くん達とサッカーやってたら転んだんだゾ』
みさえ『まったく、あんたって子は…』
しんのすけ『いや~それほどでも~///』
みさえ『褒めてない!いいから、ほら傷口出しなさい。消毒してあげるから』
しんのすけ『ほっほ~い』
叱りながらも、優しく手当をしてくれたかあちゃん。あの擦り傷は、後も残らずちゃんと治った。
しんのすけ「かあちゃん…」
かあちゃん、どうして変わっちゃったの。オラ、前みたいに怒ってても優しいかあちゃんの方が大好きだゾ。お弁当作ってくれて、チョコビ買ってくれて、おケチなところもあるけど、誰よりもオラに優しくしてくれたかあちゃん
しんのすけ「どこ行っちゃったの…」
頬に重ねたティッシュに、血が滲むのが見えた
ひまわり「あやう~~~」
振り返ると、洗面所の入り口にひまわりがいた。不安そうな目でしんのすけを見つめていた
しんのすけ「…ひま!!」
ひまわり「たや!!」
ひまわりは、はいはいでしんのすけに近付いてきた。恐る恐る、しんのすけが手を伸ばすと、嬉しそうに両手を上げて笑っていた。
しんのすけは、涙が出そうになった
しんのすけ「ひまお久しぶり~!会いたかったゾ~!!」
しんのすけはひまわりに抱き着いた。柔らかいひまわりの頬に、傷ついていないほうの頬を擦り寄せた。とても暖かかった
しんのすけ「おぉ~ひまはもちもちお肌ですな~」
ひまわり「あやう!えへへへへへ~!!」
ひまわりにほお擦りをすると、嬉しそうに手足をばたつかせた
もう何週間ぶりに、ひまわりを見ただろう。変わらない声で笑ってくれる。変わらない様子で接してくれる。ひまわり
しんのすけ「ありがとう、ひま」
しんのすけは、さらに強くひまわりを抱きしめた
ひまわり「んた!」
しんのすけ「お?」
ひまわり「たたたたたたたた…」
途端、ひまわりはしんのすけの腕から抜け出し、洗面所の入り口へと戻って行った
戻ってきたひまわりは何かを啣えていた。それは
しんのすけ「アクション仮面!」
みさえが、ゴミ袋に詰め込んでしまったはずのアクション仮面の人形だった
しんのすけ「ひま、何で…」
ひまわり「たや?」
しんのすけ「………」
しんのすけは、アクション仮面を受け取り、強く握りしめた。目頭が熱くなって、視界が歪んだ
しんのすけ「ありがとう、ひま。オラ、頑張るゾ!!」
ひまわり「たやゆ!」
ひまわりが嬉しそうに、しんのすけに飛びついてきた。
その直後
みさえ「ひまちゃ~ん?」
しんのすけ「!」
ひまわり「たや?」
二階から、みさえの声がした。ひまわりを呼ぶ、かつてのおケチな優しいみさえの声だった。
しんのすけ(本当にオラだけなんだ…)
しんのすけはぐっと唇を噛み締めた。切れた部分に刺さるような痛みが走る
しんのすけ「ほら、ひま。かあちゃん呼んでるゾ。」
ひまわり「あ~うあ~」
しんのすけ「かあちゃん心配させちゃダメだゾ。ほら」
ひまわり「あ、あう」
途端にぐしゃり、とひまわりの顔が歪む。今にも泣き出してしまいそうだ。
しんのすけ「ひ、ひま?」
ひまわり「あ、ああう、」
まずい、としんのすけは思った
今、ここでひまわりが泣き出せば、確実にみさえは二階から降りてきてここに来るだろう。もし、泣いているひまわりの横に自分がいたら…
先程の情景が脳裏をよぎった
今のかあちゃんには、会いたくない
ひまわりは、しんのすけの服を掴んで離さない。しんのすけだけを残していくのは嫌なようだ。そんなひまわりにアクション仮面を突き付けて、しんのすけは笑った
しんのすけ「だいじょーぶ!お兄ちゃんにはひまが助けてくれたアクション仮面がついてるから!寂しくなんかないゾ!」
ひまわり「、たや、ゆ…」
しんのすけ「ほ~ら、アクションビーム!!」
ひまわり「あう…」
しゃくりあげてたひまわりは段々と落ち着いてきた。
しんのすけ「ひまーくらえー!アクションパーンチ!!」
しんのすけはふざけたように「どーん」と、ひまわりのおでこを軽くこづいてみせた
ひまわり「たやあ!えへへへへへ///!」
ひまわりも、楽しそうに笑い転げていた。しんのすけはひとまず胸を撫で下ろした
しんのすけ「ひま、かあちゃんのところに戻るんだゾ。もし、かあちゃんに何かされたら、オラとアクション仮面がたすけてやるゾ!」
ひまわり「たや!」
ひまわりは、階段に向かってはいはいをして行った
しんのすけ「ありがとうだゾ、ひま……」
傷の痛みなど、もう消えているように感じた
しんのすけは、寝室にごろんと寝転がった。天井が広がる。
しんのすけ「…」
みさえ『アンタ見てるとイライラするのよ…』
しんのすけは、先程のみさえの言葉を思い出した
みさえ『何もかもアイツと瓜二つのアンタなんか……!』
アイツ…瓜二つ…。誰だなんて、言わなくったってわかる
しんのすけ「とうちゃん……」
一方そのころふたば幼稚園
ネネ「ねぇ、しんちゃん何で最近幼稚園に来ないのかな」
風間「そういえばずっと休んでるね…」
マサオ「も、もしかして、具合悪いのかな」
ボー「しんちゃん、心配」
ネネ「リアルおままごとも人数が一人でも足りないとつまらないもの」
マサオ「それは別にいいと思うけど…」
ネネ「今何つったオニギリ」
マサオ「ヒィッ!ご、ごめんなさい~!」
ボー「しんちゃん家、行って、みよう」
マサオ「えっ!?」
風間「…そうだね。もしかしたら本当に具合が悪いのかもしれないし」
ネネ「じゃあ、幼稚園終わったら皆で行きましょうよ!」
マサオ「だ、大丈夫?いきなり行ったら迷惑じゃない?」
ネネ「何なのよアンタさっきから。文句あんの!?」
マサオ「な、無いです…」
風間「じ、じゃあ一旦公園に集合して行くことにしようか」
ネネ「さんせーい!」
ボー「ぼぉー」
マサオ「う…うん!」
しんのすけ宅
ぼぉっと、天井を見つめるしんのすけ。時間がゆっくりと過ぎてゆく。頭の中ではいろんな事が堂々巡りして、もう何から考えていいか分からなかった
しんのすけ(とうちゃん…何で帰ってこないんだろ…)
そうだ、かあちゃんがおかしくなったのも、とうちゃんが帰ってこなくなってからだ。始めのころは「まったく、今日も帰ってこないのかしら」と、頬を膨らます程度で済ませていたみさえだが、日が経つにつれて口数が少なくなって、外出もしなくなり、最終的には家事を放棄し、二階へひまわりと篭ってしまったのだ
しんのすけ(とうちゃんが、かあちゃんをおかしくしたんだゾ…)
父親が帰ってこなくなってから。母親は壊れた。ご飯はなくなった。おもちゃもなくなった。幼稚園にだって行けなくなったのだ
幼稚園にだって
しんのすけ「…」
幼稚園での光景が蘇る。皆で楽しくサッカーをしたり、ブランコをしたり、絵を描いたり。風間くんに愛を囁いたり、ネネちゃんのおままごとから逃げ出したり、オニギリ…マサオくんをいじったり、ボーちゃんと石を拾ったり…
しんのすけ「皆に…会いたいゾ………」
気づくとしんのすけは、玄関の前に立っていた
しんのすけ「くつ…オラのくつ……っ」
しんのすけは自分のいつも履いている黄色い靴を探した。が、どこにも見当たらない。
しんのすけ「あれー…?」
棚の中かな、と、横にある扉を開けてみる。すると
しんのすけ「………あ」
あった。黄色い靴。
だが、
しんのすけ「………っ」
その変わり果てた姿に唖然としてしまった
靴は右足の分しかなかった。しかも、その靴も刃物で切り付けられボロボロになっていた
とても、履いて外に出れそうには無い
しんのすけ「……………」
でも、それでも
しんのすけ「会いたい…」
しんのすけは、顔を上げた
しんのすけ「くつが無くたって、オラは歩けるゾ!!!」
しんのすけ「……」
しんのすけは、靴下のまま玄関を降り、じぃっとドアを見つめた。
このドアの向こうに行けば、皆に会える。だけど、分かっていた。ここから出たら、どんな目にあうか。
しんのすけ「………!」
殴られた部分がまた、ズキズキと痛みだした。思えば、昨日から傷ばかり増えている。動けるのが不幸中の幸、といったところだが、正直、立っているのもやっとだ。
もしこのまま外に出て、限界が来て倒れてしまったらどうしよう。
もし、他の人に見つかって、うちに連絡されたらどうしよう。
もし、また、かあちゃんを怒らせたら
しんのすけ「…オラ…オラ……」
ギュッとズボンを握りしめる。と、ポケットの中の何かをいっしょに握りしめていた。取り出してみると、それはひまわりが取り返してくれた、アクション仮面の人形だった。
しんのすけ「アクション仮面…」
いつもテレビで見ていたヒーロー。
オラのヒーロー。
強い心を持ったヒーロー。
ピンチだって乗り越えられる、かっこよくて、強くて、大好きなヒーロー
マサオ『ねーねーしんちゃん!昨日のアクション仮面見た!?』
しんのすけ『あったりまえだゾ!!』
風間『…昨日は、アクション仮面vs怪人デミグラス伯爵だっけ…』
しんのすけ『あれ~~?風間くんはアニメなんて幼稚なもの見ないんじゃないの~?』
風間『たっ、たまたまテレビをつけたらやってただけだよ!!』
ボー『アクション仮面、やっぱり、つよい』
しんのすけ『オラ、アクション仮面ごっこやりたいゾ!』
マサオ『あ、僕もやりたい!』
風間『べ、別にやってやってもいいぞ!』
ボー『ぼぉー』
ネネ『何言ってんのアンタ達!今日は新しい台本でリアルおままごとやるって昨日言ったでしょ!!』
一同『えぇ~~?』
ネネ『マサオくんは、デミグラスハンバーグ専門店を開くも、食中毒が発生して多額の借金を抱える無職の35歳でー』
マサオ『え~!?や、やだよそんな役!』
ネネ『何なのよ!いいからやりなさいよ!』
風間『うわ、み、皆逃げろ!』
しんのすけ『うわぁ~~い!』
しんのすけ「かあちゃん…オラ……オラ……!」
しんのすけは、何もかもを振り切って
玄関の扉を開けた
しんのすけ「いってくるゾ!」
一方マサオ宅
マサオ「じゃあ、行ってきます!」
マサオ母「あら、マサオ、どこに行くの?」
マサオ「うん、皆でしんちゃん家にお見舞いに行くんだ」
マサオ母「あら、しんちゃん休んでるの?」
マサオ「うん、もう一週間くらい」
マサオ母「…やっぱり、お母さん今、大変なのかしらね…」
マサオ「え?どうしたの?」
マサオ母「…いい?余所で言っちゃダメよ?」
マサオ「う、うん」
マサオ母「野原さん家、先々週あたりからお父さんが帰ってこないらしいの」
マサオ「え!?し、しんちゃんのお父さんが!!?」
マサオ母「えぇ…」
マサオ「…仕事じゃないの?」
マサオ母「詳しくは分からないけど仕事じゃないそうよ」
マサオ「そうなんだ…」
マサオ母「だから、あんまり長居しちゃダメよ。分かった?」
マサオ「う、うん…お見舞だけしてくる」
マサオ母「じゃ、気をつけてね」
マサオ「いってきます…」
ネネ「ちょっと遅いわよ、マサオくん!!」
マサオ「ご、ごめん!」
風間「まぁまぁ、僕も今来たところだし」
ボー「ぼく、いちばんのり」
ネネ「一番遅かったマサオ君には罰でもくらわてあげたいけど…まぁ今はいいわ、早く行きましょう!」
マサオ「い、今はって…(ガタガタ)」
風間「だ、大丈夫だよ、多分」
ボー「ぼぉー」
マサオ「うわぁあはあああん!」
マサオ(そういえば、さっきの話…皆に伝えた方がいいのかな…でも、余所では言うなって言われたし…うう…でも…)
風間「マサオ君?」
マサオ「は、はひぃ!!!」
風間「どうしたの、難しい顔して」
マサオ「え、いや、その~あの…」
ネネ「何なのよ、言いたいことあるならハッキリ言いなさいよ!!」
マサオ「はいい!あの、今日、やっぱり行くのやめない!?」
一同「え!!!?」
マサオ(しまった間違えた!!)
マサオ「いや、違くて、行かないってわけじゃなくてその、違うの、えと、」
ネネ「何が違うってのよ!!今更何よ!!!」
マサオの胸倉を掴み、振り回すネネ
マサオ「ううわ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁあん!ごめんなさいいい~!」
風間「ね、ネネちゃん!落ち着いて!」
ボー「らんぼう、よくない!」
ネネ「ふん!あんたみたいな薄情者、来なくていいわよ!帰りなさい!あたし達だけで行くわ!」
マサオ「そ、そんなぁ!」
風間「ネネちゃん…ちょっと言いすぎじゃあ…」
ツンツン
風間「…?どうしたの?ボーちゃん」
ボー「あれ、みて」
風間「あれ……?」
ボーちゃんの指を指す方向を見てみると
風間「………………あ!」
ネネ「あぁ!」
道の真ん中で横たわる見覚えのある坊主頭が
「「しんちゃん!!!!!」」
慌ててしんのすけのもとに駆け付ける四人
風間「おい!しんのすけ、しっかりしろ!大丈夫か!?」
風間がしんのすけを抱え上げて上体を起こした。
風間「うわぁ!」
ネネ「し、しんちゃん、ケガしてる!!」
マサオ「うわああああっ!」
ボー「こうえんに、いこう、いそいで!」
風間「しっかりしろ!しんのすけぇぇ!」
四人は急いで公園に戻った。ベンチに寝かせてやり、顔をハンカチで拭う
ネネ「ひどい…っ」
ボー「かおじゅう、きずだらけ」
風間「一体…何が」
マサオ「………!」
マサオ母『…やっぱり、お母さん今、大変なのかしらね…』
マサオ(まさか……!)
マサオ(まさか…そんなことあるわけないよね、しんちゃんがお母さんになんて…)
でも…
「…オくん」
でも……!
「マサオ君!!!」
マサオ「え!?」
風間「どうしたのマサオ君、今日なんかおかしいよ!?」
マサオ「そ、そんなことないよ!」
ネネ「マサオ君、もしかしてネネ達に何かかくしてるんじゃないの!?」
マサオ「え、えぇ!?そんなことないってば!」
ボー「あやしい」
マサオ「なんだよ皆して!そんなことないって言ってるじゃん!!!!」
風間「そ、そう…」
マサオ「ハァッ…ハァッ……」
マサオ(な、何でぼく隠しちゃうんだろう…言うべきだって分かってるのに…!)
しんちゃん「…ま……く……」
一同「!!!!」
ネネ「しんちゃん!!」
風間「しんのすけ!!?」
ボー「しん、ちゃん!!」
マサオ「し、しんちゃん!」
しんちゃん「…みんな…?何してんの……?」
風間「ばか!何してんのじゃないだろ!!なんであんなとこで倒れてたんだよ!」
ネネ「顔中傷だらけだし…びっくりしたんだから!」
ボー「しんぱい、した!」
マサオ「うう…よかったよぉ…起きてくれて…!」
しんのすけ「みんな…」
風間「!?、どうした!!?」
しんのすけ「いや~あんまり見つめられると照れますなぁ~///」
ずっこける四人
風間「なんだよそれー!?こっちは心配したってのに!!」
しんのすけ「いやぁ~ん風間く~ん、会いたかったわよ~ん。」ンチュー
風間「やめろおおお!くっつくなぁああ!」
マサオ「あはは、よかった…いつものしんちゃんだ!」
ボー「ぼぉー」
ネネ「しんちゃん、こっちきて。手当してあげる!」
しんのすけ「え~オラこのままでいいゾ~」
ネネ「い・い・か・ら・きなさい!」
しんのすけ「ほ、ほい…」
ネネ「ママから携帯用救急箱もらってたの、持ってきててよかった!」
しんのすけ「お~流石ネネちゃん、気が利きますな~///それ何ヶ月前からかばんに入れっぱなしだったの~?」
ネネ「あぁ?」
しんのすけ「おう…す、すみません…
で、皆さん集まってどしたの?」
風間「どしたの?じゃないだろ」
ボー「しんちゃんのおみまい、いこうと、してた」
しんのすけ「お?オラの?」
マサオ「しんちゃん、ずっと幼稚園休んでるでしょ?具合でも悪いのかなって…」
しんのすけ「ほうほ~う…」
ネネ「よしなが先生に聞いても『お休みです』ってしか教えてくれないから…」
風間「なぁ…しんのすけ、何があったんだ?」
ボー「おしえて、しんちゃん!」
マサオ「ぼ、僕も知りたい!」
しんのすけ「………」
風間「その顔の傷とか…どう見てもおかしいって。何かあるんだろ?」
しんのすけ「…」
ボー「しんちゃん、くつ、ない」
ネネ「ああっ、本当!しんちゃんくつしたのままじゃない!」
しんのすけ「…………」
風間「なあ、しんのすけ!」
しんのすけ「実は…」
風間「実は?」
しんのすけ(かあちゃん)
しんのすけ「…………」
風間「しんのすけ?」
しんのすけ「シロに逃げられちゃったんだゾー!!!」
風間「は…はぁ!?」
しんのすけ「じゃ、そーゆーことでー」
風間「いや待てよ!なんでシロが逃げたらしんのすけが傷だらけなるんだよ!おかしいだろ!」
しんのすけ「いや~実はシロを探してたんだけど、草むらにはいったらくつなくなっちゃうし、シロかと思ったらただの知らない野良犬だし。しかもその犬に追いかけ回されて、こんなふうになっちゃんだんだゾ」
風間「え、えぇぇえ?」
ネネ「しんちゃん、それ本当なの!?うそじゃないの?」
しんのすけ「やだな~も~、うそついてどうすんの~」
ボー「でも、傷が、多すぎる」
しんのすけ「犬に引っ掻かれたり、枝に顔ぶつけたり、高いところから落ちたりしたの~」
マサオ「えぇ!?だだだ大丈夫なの!?」
ネネ「大丈夫なわけないでしょ!!しんちゃん、病院いきましょう!」
風間「そ、そうだよ!とにかく詳しい話は後でいいよ、病院いこう!」
ボー「シロは、ぼくたちが、さがしてあげる」
しんちゃん「ダメだぞ!!!」
ネネ「え?」
風間「なんでだよ、しんのすけ」
しんのすけ「傷なら大丈夫だゾ!ほら、ネネちゃんが手当してくれたしぃ?」
ネネ「でも、ネネの手当だけじゃふあんだもの!」
しんのすけ「傷なんて深くないし?オラこんなに元気だし?」
風間「でもお前、倒れて気絶してたじゃないか!」
しんのすけ「あれはシロを誘い出すためにソーセージのマネをしてたら寝ちゃっただけだゾ」
風間「うそつけ!!!」
しんのすけ「もぉー何でもいいでしょ!!とにかくオラは大丈夫なの!!」
風間「大丈夫なわけないだろ!!」
しんのすけ「風間くんの分からず屋ー!頭でっかちー!」
風間「分からず屋はそっちだろ!こっちはこんなに心配してるのに!!」
マサオ「ち、ちょっと二人とも落ち着いて…」
してるのに「あら~っ風間くんったら心配してくれてるの~?優し~い///あ・り・が・と」んちゅぅう
風間「ふざけるなよ!!!!!」
しんのすけ「………?」
マサオ「風間くん…?」
風間「幼稚園には来ないし…道の真ん中に倒れてるし…傷だらけだし…何で…何なんだよ…」
しんのすけ「トオルちゃん……」
ネネ「ネネも…ネネもすごく心配してた。ずっと幼稚園休みで…何かあったのかなって…」
ボー「しんちゃん、いないの、さみしいし、つまんない」
マサオ「ぼ、僕だって!!!」
しんのすけ「みんな…………」
しんのすけ「いや~照れるゾ///」
風間「だからお前……!」
しんのすけ「ありがとう」
風間「!」
しんのすけ「オラ、嬉しいゾ!みんな優しくて、あったかくて。オラ、幸せだゾ」
風間「しんのすけ…」
マサオ「しんちゃん…」
しんのすけ「でもオラは大丈夫!!心配しないでほしいゾ」
ボー「ぼぉー…」
しんのすけ「ネネちゃん、手当してくれてありがとうだゾ。オラ、このままでいいや」
ネネ「でも…」
しんのすけ「じゃ、オラ、シロ探さなきゃいけないから!」
マサオ「し、しんちゃん!」
しんのすけ「お?」
マサオ「僕も、シロ探すの手伝おうか…?」
ボー「うん、てつだいたい!」
しんのすけ「ありがとう、でもいいゾ」
マサオ「え、どうして?」
しんのすけ「シロ、最近怖がりでオラ以外の他の人がくると逃げちゃうの。も~なさけないったらありゃしない!」
風間「そう、なのか…?」
しんのすけ「そ!だから気持ちだけうけとっておくゾ!」
マサオ「う、うん…」
しんのすけ「じゃ!!!」
風間「…しんのすけ!!!」
しんのすけ「なあに?トオルちゃん」
風間「それやめろ!…じゃないや…その…」
しんのすけ「な~に~?もう、じれったいわね~」
風間「…また、幼稚園、来るよな」
しんのすけ「…」
マサオ「そうだよ、しんちゃん!元気なら早く幼稚園きてよ!」
ネネ「そうよ!しんちゃん来てくれなきゃ、リアルおままごと話が進まないのよ!!」
ボー「いい石、みつけた、みせてあげたい」
しんのすけ「…」
風間「なあ…」
しんのすけ「もっちろんだゾ!!」
顔を上げたしんのすけは、いつもと変わらない、しんのすけのあどけない満面の笑顔だった
しんのすけ「んもぅ~みんなオラがいないとダメなんだから~『クビはモモを呼ぶ』ってヤツ~?」
風間「それをいうなら『類は友を呼ぶ』だろ」
しんのすけ「そうとも言う~」
風間「そうとしか言わないよ!ていうか使い方絶対違うだろ!」
公園に、幼稚園児五人の笑い声が響いた。こんな姿も他愛もない日常風景だったのに。笑いながら、どこかが痛んだ
風間「あ、そろそろ僕たちも帰らなきゃ………」
マサオ「わぁ、もうこんな時間!」
ネネ「いっけない!晩御飯のお手伝いしなきゃいけないんだった!」
ボー「ぼぉー」
しんのすけ「ほうほう、皆さんお時間のようですなー。ほんじゃ、オラも帰りますか!」
風間「大丈夫か?一人で」
しんのすけ「やだ、トオルちゃ~ん、心配してく」
風間「もういいよその流れは!」
しんのすけ「風間くんつれないゾ」
ネネ「あはは、じゃあ、しんちゃん。また幼稚園でね」
マサオ「ばいばい、しんちゃん!」
ボー「まってるね」
風間「必ず来いよ!」
しんのすけ「ほいほーい!んじゃま!別れる前に!久しぶりにやりますか!」
風間「やるってなにを?」
しんのすけ「オラたちの合言葉!」
ネネ「ああ、あれね!」
マサオ「うん、やろうやろう!」
ボー「ひさしぶり!」
風間「ったくしょーがないなぁ…」
せーのっ
「「「春日部防衛隊、ファイヤー!!!!!!」」」
帰路についたマサオは、一人考え込んでいた
マサオ(しんちゃん…あんなに傷だらけで…一時はどうなっちゃうかと思ったよ…しんちゃんはああ言ってたけど、本当はどうなんだろう。しんちゃん、周りによくウソつくし…)
マサオが足を止めた。ここからしんのすけの家まではそんなに距離はない。
マサオ(しんちゃん…!僕、心配だよ…お母さんがああ言ってたし…しんちゃんのママ…大丈夫なのかな……でも、あんまりしつこくしちゃうと、嫌われちゃうかもしれないし、間違いだとしたら、しんちゃんに迷惑だし、ネネちゃんに怒られるし…!)
マサオ(しんちゃん…!)
マサオ「……やめよう」
マサオ呟き、また、家路へと足を進めた
マサオ「しんちゃんが大丈夫だって言ってるんだもん!大丈夫だよ!きっと!むしろ、信じないほうがひどいよね!そうだよ、しんちゃんを信じればいいよね。大丈夫大丈夫!」
マサオは自分に言い聞かせるように、声を出しながら
歩く。
歩く。
マサオ「あのケガは野良犬のせい!」
大丈夫。
マサオ「倒れてたのも、犬を探してたから!」
大丈夫。
マサオ「幼稚園にも来てくれる!」
大丈夫。
マサオ「また、会える!」
大丈夫。
マサオ「大丈夫!」
大丈夫。
マサオ「大丈夫、」
大丈夫。
マサオ「だいじょう…」
気付けば、家の前に着いていた。
ゆっくりあるいたせいか、もうあたりは真っ暗だ。
マサオ「しんちゃん…大丈夫…なのかな…」
大丈夫
だけど
マサオ「やっぱり不安だよ!!」
泣き出しそうだった。やはり、心配でたまらない。マサオはしんのすけの家の方に向かって駆け出そうとした
すると
家から母の声
マサオ母「もう!あの子ったら!いつまで遊んでるのかしら!もうすっかり日も沈んだっていうのに…帰ってきたらただじゃおかないわよ!!!!」
マサオ「……あ……あは…は…」
マサオは駆け出しかけた足を引っ込め、玄関に向き直った。今にも涙が溢れそうだ
マサオ「だいじょうぶ…だいじょうぶ…」
マサオは俯きながら、家へと入っていった
その頃、しんのすけは家に着いていた。
しかし、まだ外にいた。正確には外にいるしかなかった。
しんのすけ「どうしよう…鍵が開かないゾ…」
いつもなら簡単に開けられるはずのドアの鍵が開かないのだ。隠していた合い鍵も見つからない。窓も全部閉められてしまった。入り込めそうな隙間もない。日も沈み、空では星が瞬き始めた。寒空の下、しんのすけは途方に暮れていた
冬でないとはいえど、夜は流石に冷える。まして、しんのすけは薄着でくつははいていない。体温が奪われ、体が震え出した。
しんのすけ「どうしよう…寒い…さむいゾかあちゃん…」
一階の電気はすべて消えていた。二階からは相変わらず楽しそうなみさえとひまわりの声がした。しんのすけは玄関先にしゃがみ込んだ。
ふと、家の裏の方に目をやる。あそこには、シロの小屋がある…。
しんのすけは家の裏に向かった
しんのすけ「シロ、お邪魔するゾ」
しんのすけシロの小屋へと潜り込んだ。シロの毛並みはモコモコしていて、とても暖かい。抱きしめれば、寒さなんてほとんど気にならなくなるほどだ。『わたあめ』で、包んでほしいくらいだ。しんのすけは身を丸くした
けど
シロはもういない
しんのすけ「シロ…帰ってきて欲しいゾ…」
実は、シロが逃げた話は事実だった。あれはひろしが最後に出勤した日の事。シロは忽然と姿を消したのだ
しんのすけ『かあちゃん!シロがいないゾ』
みさえ『ええ!?嘘でしょ!!?』
しんのすけ『大変だ大変だ大変だ!!』
みさえ『静かになさい!とりあえずパパに連絡してみるわ…』
みさえ『あ、あなた?シロがいなくなっちゃったの…うん、鎖ごと…うん…分かったわ』
しんのすけ『とうちゃん何て言ってた?』
みさえ『とりあえずお前達は近所を探せって…見付からなかったら帰りにお父さんが交番に行くらしいわ』
しんのすけ『シロ大丈夫かなぁ』
みさえ『とにかく、探しに行くわよ!』
しんのすけ『ブー・ラジャー!』
しんのすけ「シロ…」
しんのすけは、シロがいたであろう場所を撫でた。ずっと、ただただ撫で続けた。
しんのすけ「何で皆…いなくなっちゃうの…」
腕が痛む、
顔が痛む、
何よりも、心が痛む。
何もかもが溢れてしまいそうだった。壊れてしまいそうだった。しかし、それでもしんのすけはアクション仮面を握り締めてぐっと堪えた。シロの温もりを感じながら、寒さを堪え、朝を待った。
しんのすけ「ひま…かあちゃん…とうちゃん…シロ…オラ…」
しんのすけ「寂しいゾ………!」
眩しい日差しが降り注ぐ。
しんのすけは、狭い犬小屋の中で目を覚ました。立ち上がろうと体を起こしたら、盛大に頭を屋根にぶつけてしまった。
しんのすけ「くぅ~~~~~っ!痛いなぁ!こんな狭い部屋なんて聞いてないわよ、もう!」
ぷんぷん、と一人でふざけてみるが、何も楽しい事はない。
しんのすけ「鍵…開いたかな…」
しんのすけは、這うようにして小屋から出た。
忍び足で玄関までたどり着き、恐る恐る、ドアノブに手をかけた
ガチャン
しんのすけ「開いてるゾ!」
しんのすけは盛大に扉を開いて中へ飛び込んだ。
しんのすけ「おっかえり~!」
いつもの癖で挨拶をしてしまった
みさえ『おかえりじゃなくてただいまでしょ?』
と、みさえの声が帰ってきたらどんなに嬉しかっただろう。しかし。
家の中は誰もいないかのように静まり返っていた。
しんのすけ「も~誰かお迎えぐらいしてほしいゾ!」
しんのすけはまたもやぷんぷんと一人で怒りながら、そのまま家に上がろうとした、
が、すぐに立ち止まった
しんのすけ「オラ…すごく汚いゾ」
とりあえず、一番汚れている靴下を脱いで家に上がった。自分の家のはずなのに、どこか冷たい雰囲気がする。つま先で歩き、急いで洗面台に向かう。
しんのすけ「あ~あ~、おズボンもおシャツもボロボロだゾ!」
一度、砂を払ってから洗濯機へ放り込む。どれもこれも、犬小屋で寝たせいか、所々に小さな穴が開いていた。
しんのすけ「で、も、これは無事だったゾー!」
ジャジャーンと脱いで掲げたのは、アクション仮面が大きくプリントされたブリーフ。しんのすけの一番のお気に入りだ。
しんのすけ「これが無事だっただけでも何よりもですな~ワーッハッハッハッハ、ワーッハッハッハッハ!!」
ほいっと、アクション仮面のブリーフを洗濯機に放り込んだ後、しんのすけはハッとする
しんのすけ「かあちゃん…ちゃんと洗濯してるっけ…………」
ここ数日、いつも洗濯物を干していた場所が使われた形跡は全くない。もしやかあちゃん、洗濯まで………?
しんのすけは洗濯機によじ登って中を確認した。洗濯機の中には、しんのすけの洗濯物以外入っていなかった
しんのすけ「なんだ、かあちゃん洗濯はしてるのか。安心安心…」
しんのすけは気づいた。さっき自分が入れた服を含めて、洗濯機の中には、しんのすけの以外、入っていない。
しんのすけ「かあちゃん…オラの分洗ってくれてないゾ…」
しんのすけは、もう何も傷つかなかった。傷なら、昨日殴られた傷の方が痛い、父親が帰ってこない方が辛い。そんな痛みや辛さに比べれば、こんなけと、どうとも思わなかった
しんのすけ「ま、自分で洗っちゃえば済む話だゾ!」
わあ~いとしんのすけは洗濯物を抱えて、風呂場に入っていった
しんのすけ「アクション仮面、オラがピカピカにしてやるゾ!」
しんのすけはたらいに洗濯物を入れお湯に浸し、石鹸でゴシゴシ洗いはじめた。みるみるうちに、汚れが落ちていく。
しんのすけ「おぉ!オラのおパンツピカピカになったゾ!いや~オラって実は天才かもしれませんなぁ///」
鼻歌混じりに。楽しそうに。しんのすけはたまっていた自分の洗濯物を次々洗っていった
しんのすけ「ふぅ~みんなピッカピカだゾ!スッキリしましたなぁ~」
洗濯物を洗い終えたしんのすけは、満足そうに額を拭った。
しんのすけ「さて、次はオラがピカピカだゾ!」
流石に湯舟はもう水になっているため、シャワーで我慢することにした。上から水を浴びると、顔の傷に染みて痛かった。このまま汚れと一緒に、傷も流れてしまえばいいのに。しんのすけは頭を洗いながら、そう思った。
しんのすけ「…いやぁ~朝からシャワーだなんてーオラ大人のオトコになった気分だゾ!」
感情を隠すように、しんのすけは笑い飛ばした
しんのすけ「ほっほーい、すっきさっぱりしたー」
タオルを頭にかぶせながらしんのすけは風呂から出てきた。両手には、洗った洗濯物を抱えていた。
しんのすけ「これ干さなきゃな~」
ヨタヨタと歩きながら、寝室へ向かう。まだ傷は痛むが、ネネちゃんの手当のおかげでだいぶ楽にはなっていた。しんのすけは、おそるおそる自分の洋服タンスを開けた。
しんのすけ「よかった…服は無事だっゾ」
しんのすけ「いくらオラが素晴らしい肉体美だからって裸で過ごすのは恥ずかしいもんねー」
ヘラヘラと笑いながら、しんのすけは新しい服に着替えた。昨日のおもちゃの一件もあり、もしかしたら服すら全部捨てられてしまったのではないかと内心焦っていた。
しんのすけ「オラ、変身完了!」
みさえの化粧台の鏡の前でポーズをとる。鼻息を荒くしながらふと、化粧台の上に目をやると、口紅やファンデーションのケースが軽くホコリがかっていた。
しんのすけ「かあちゃん…ここ使ってないのか…」
寂し気に、指で台をなぞる。鏡に写る自分の顔は相変わらず傷だらけで酷いことになっていた
しんのすけ「………おパンツ干さなきゃ…」
洗濯物をカゴに入れ、窓から外に出る。いつも母親が洗濯物を干していた場所、いつもシロがじゃれてきたっけ。
しんのすけ「…届かないゾ……」
母親には簡単に届いた物干し竿だが、しんのすけにはあまりにも高かった。しんのすけは家の中から何か台に出来るものはないか探した。
しんのすけ「これでいいや!」
しんのすけが選んだのは、台所の椅子と段ボールだった。
しんのすけ「ほっほ~い、届いた届いた~」
洗濯物を洗濯バサミで挟み、パンッパンッと、母親の見様見真似でシワを伸ばす。とても清々しく思えた。
しんのすけ「かあちゃん、こんなこといつもしてたんだ…」
自分の分だけでなく、とおちゃんや、ひま、オラの分まで…
しんのすけ「かあちゃんって大変だな…」
もし今、かあちゃんに会いに行ったら、またいつもの厳しく優しいかあちゃんに戻っているんじゃないか。なぜだか分からないが、そんな淡い希望が突然、浮かんだ。
しんのすけ「おわったゾー!!」
目の前には、自分で洗って自分で干した洗濯物。風になびいてパタパタと音を立てた。
しんのすけ「アクション仮面のおパンツも一段と輝いて見えますな~」
満足気に頷き、しんのすけは洗濯物を眺めた。自分でやったのだ。全て。
しんのすけ「かあちゃんに見せたいゾ…」
しんのすけは突然、みさえに会いたくなった。見せたいのだ、自分の成果を。けど、もしまだ怖いみさえであったら。そう思うと、なんとも言えなくなってしまった
しんのすけ「ウチに戻ろう」
椅子から降りようとしたその時
みさえ「何してんのよ」
しんのすけ「!!!!」
みさえが窓からこちらを見ていた。寝起きのようで、なんともだるそうな顔をしている。
しんのすけ「かあちゃ……」
と、その時
足元が
崩れた
しんのすけ「うわぁああぁっ!」
椅子の上に段ボールを乗せ、その上に立っていたことを忘れてしまっていたのだ。急いで降りようとした弾みで段ボールは滑り、椅子は倒れ、しんのすけは体を思いっきり地面にたたき付けてしまった
しんのすけ「………………かっ!」
胸に激痛が走った。息が出来ない。
ふと、窓に目をやると、無表情でみさえがこちらに向かってきた。
しんのすけ「かあ…ちゃん…」
みさえはしんのすけのすぐ傍まで来た。倒れるしんのすけを見下ろし、冷たい目をこちらにむけていた。刺さるような、どこか叱咤するような、そして、しんのすけを否定するような眼差しを。
しんのすけの淡い希望は、崩れ去った。
ああ、
かあちゃんは、まだ…
「かあちゃん」じゃないんだ…
みさえはしんのすけから目線を反らすと、椅子を拾い上げて付いた草を払った。そして、しんのすけに向き直って口を開いた
みさえ「勝手に使わないでよ。アンタのモノじゃないんだから」
しんのすけ「…あ、か………」
苦しくて、苦しくて、痛くてたまらないしんのすけは、手を伸ばした。見下され、叱咤され。それでも、母親に縋ったのだ。
しんのすけ「かあちゃ……!!」
みさえは、それ以上は何も言わず、椅子だけ持って家の中に戻ってしまった。
しんのすけ「はぁっ……はぁっ……はぁっ、あ」
しんのすけはゆっくり、ゆっくり呼吸を落ち着かせた。母親にむけて伸ばした手が空しく下ろされる。
しんのすけ「…っかあちゃん……、かあちゃん…かぁ、かあちゃん…!!」
呼んだ。ひたすらに、呼び続けた、姿が見えなくなってからも。全身に痛みが走っていても。
しんのすけ「かあちゃんかあちゃんかあちゃんかあちゃんかあちゃんかあちゃん…!」
顔の傷がまた開いてしまったようだ。頬から生暖かいものが流れる。
それでも
呼び続けた。
みさえは台所に椅子を戻し、一人リビングに向かった。
みさえ「………」
あたりを見渡す。必要のないと判断したものは昨日、まとめて捨ててしまったため、部屋の中はがらんと広くなっていた。あるのは中央に置かれたテーブル、テレビ、空になったおもちゃ箱だけだった
そして、佇むみさえ。虚ろな瞳はどこを向いているかわからなず、ブツブツと何かを呟きながら、みさえはその場にしゃがみ込んだ。
ひまわり「たやう!」
みさえ「ひまわり…」
気づけば、ひまわりが横にいた。子供の成長は目まぐるしく進む。ひまわりはこの数週間で、いかに早く階段を上り下りするか覚えたようだ。心配そうに、みさえを見つめるひまわり。手を、膝の上に乗せてきた。
ひまわり「あ、たや!うー」
みさえ「…」
みさえはひまわりを抱き寄せ、背中をさすってやった
みさえ「大丈夫…大丈夫よ…ひまちゃん、大丈夫………」
ひまわり「たやう?」
みさえ「大丈夫…ひまちゃんもいずれ分かるからね…」
ひまわり「やう……」
みさえ「だから今はお部屋に戻りましょうね」
ひまわり「あ…うぅ…びぇぇええええええ!!!!!」
泣き叫ぶひまわり。だがしかしみさえには、もうひまわりの姿など見ていなかった。
しんのすけ「ひま…ひまが泣いてるゾ…………」
少しでも動けば、体中が痛みを発する。もう、どこがどう痛いかなんて、分からなかった。どうでもよかった。
あのまま草の上で、本当に動けなくなるまでじっとしていようかとも思った。視界がぼやけていく。もう、何をしたって。何を願ったって。無駄かもしれないと思ってしまったから。
けれど
ひまわり「あ…うぅ…びぇぇええええええ!!!!!」
しんのすけ「……!?」
家の中から、劈くようなひまわりの泣き声がした。遠退いた意識が、呼び戻された。
しんのすけ「ひま…ひまぁ…!」
這いつくばるように、しんのすけは必死に前に進んだ。痛い、痛い。怖い、辛い、怖い。だけど、ひまわりが泣いている
しんのすけ「今…にいちゃんがたすけにいくゾ………!」
アクション仮面を握りしめ、しんのすけは、ひまわりの元へ向かった。
しんのすけ「ひま!!」
ひまわり「うあああああ!!!!びえぇええええええぇえん!!!」
そこには、目を閉じたみさえに抱き締められて泣きわめいている、ひまわりの姿があった
しんのすけ「…………ひま?」
何で…何でかあちゃんに抱きしめてもらっているのに、何で
何で
しんのすけ「何で泣いてんの………?」
しんのすけ「…………ずるいゾ」
そうだ。思えばひまわりばかり。ひまわりには優しい言葉で話して、優しく抱き抱えて、いっしょに楽しく笑って…おしゃべりして…ずっと…ずっとずっとひまわりはそうしてもらっていたのに…
しんのすけ「ひまは…ずるいゾ」
どうして、オラばっかり。オラが、帰ってこないとうちゃんにそっくりだから?言うこと聞かないから?ワガママ言ったから?どうして?何で、かあちゃん。何で、オラだけこんなふうになっちゃったの?かあちゃん、傷が痛いゾ。血は出るし、体は動かないし。お腹だってすいたゾ。もう昨日の朝から何も食べていないゾ。かあちゃん、かあちゃん。寂しいゾ、かあちゃん。
オラも抱きしめてほしい
大丈夫だと頭を撫でてほしい
叱られたっていい
かあちゃん
かあちゃん
気づけばしんのすけは、
みさえの背中にしがみついていた。
昨日の怒りとは違う。縋るように、求めるように。母親の背中に飛びついていた。
悲しいのか、分からない。辛いのか、怖いのか、はたまた嬉しいのか。今までされたこと、抱いた感情、望み、全部全部まとめて集めたような涙が、次から次へと溢れ出した。もう、止め方なんて知りもしなかった。
光のないみさえの目が、しんのすけを写した。ただただ黙ってしんのすけを見続けた
しんのすけ「かあちゃん……オラ…………オラ………」
みさえ「………」
しんのすけ「どうしたらいいかわからないゾ…」
みさえ「…」
ひまわり「びぇええぇぇぇええん!ああああ!」
震える腕でみさえの背中に抱き着くしんのすけ、しんのすけをただ見据え続けるみさえ、泣き止まないひまわり。かつて、この空間にあったはずの幸せを、打ち消すかのように泣きつづけた
すると
「ちょっと、大丈夫!?」
リビングの入口には、回覧板を抱えた隣のおばさんが、こちらを伺っていた。
おばさん「あ、いや、ごめんなさい勝手に…ひまちゃんの泣き声がしたから…」
おばさんは、明らかに様子のおかしいみさえたちね雰囲気に気づいたようで、ひどく動揺していた。ぼぅっと、みさえがおばさんに目を向けた。
おばさん「あ…あたし、お邪魔だったかしら……ねぇ?」
おほほ、と苦笑いのおばさん
突如、みさえが立ち上がった。突然動き出したみさえに、しがみついていたしんのすけは振り払われてしまった。
おばさんは少したじろぎ、後退りをした。みさえはおばさんに向かって行く。
おばさん「あ、ごめんなさいね!ホントね、回覧板届けに来ただけなの!!いや、ホントに!ね!ね!!」
ごめんなさい!と頭を下げ、回覧板を前に突き出す。それを受けとるみさえ。と、
みさえ「そんな!わざわざ出向いてもらっちゃって。こちらこそすみません!」
おばさん「はえ?」
恐る恐る顔を上げてみると
そこには、いつもと変わらないみさえが頭を下げていた。
おばさん「の、野原さん?」
みさえ「すみません、実は今ちょうど起きたところで…」
だらし無く笑って見せるみさえ。おばさんはどこか安心したものの、先程までのただならぬ雰囲気に違和感を感じていた。
おばさん「え、あ、いや、こっちも朝早くにお邪魔しちゃったし。悪いことしちゃったかしら」
みさえ「そんなことないです!あ、お茶でもいかがですか?」
おばさん「いやいやそんな!気をつかわなくていいのよ。あ、あたし、これからちょっと用事あるの」
みさえ「そうですか、すみません何のお構いもしなくて…」
おばさん「だ、大丈夫よぉ。じゃ、回覧板よろしくね」
みさえ「はい~ありがとうございます」
おばさん「…」
おばさんは、終始ニコニコと笑顔で話すみさえの背後にいる、泣き止みはしたが落ち着かない様子でこちらを見つめるひまわりと、みさえに振り払われたまま動かないしんのすけが、気になって仕方がなかった。
おばさん「…じゃあ、お邪魔しました」
足早に野原家から立ち去るおばさん。ここ最近、野原家の様子がおかしいことには薄々気づいていた。何でも、旦那さんが帰ってこないらしい。そんな噂話は、主婦の膨大な情報網を駆使されてあちこちに広がっていた。
おばさん「しんちゃん達…大丈夫かねぇ…」
最初に見たときの、あのみさえの虚ろな目。あの様子は、ただ事出はないような気がしてならない。けど、どこか、
関わってはいけないような、
そんな雰囲気が伺えた。
おばさん「あんまり深く関わっちゃうと、面倒なことになりそうだしね…」
ふと、振り返って野原家を見つめた。一見、何の変わりもないただの一戸建て。あの家の中で一体何が起こっているのか。
おばさん「………」
おばさんは、服の裾をぐっと握りしめた。
おばさん「…きっと、野原さん寝起きだから調子が悪かったのよね………」
きっとそうよ。言い聞かせるように呟きながら、おばさんは自分の家へと入っていった
しんのすけ「かあちゃん…」
みさえ「…」
おばさんが家をあとにしてから、みさえは今までの冷たい女に戻ってしまった。
みさえ「ひまちゃん、上にいきましょうね~」
そのままひまわりを抱き抱え、二階へ向かおうとする。ひまわりは、いつの間にかすっかり泣き止み、みさえの腕の中で笑っていた。
しんのすけ「かあちゃん!!!」
しんのすけが、声を荒げた。その声に、みさえの足が止まる。
しんのすけのみさえを呼ぶ声は、今までの縋るような弱々しさはなかった。何かを訴えるような、伝えるような、強い芯のようなものがあった。
しんのすけ「そんなに、嫌なの!!?」
肩で息をする。叫ぶ度に顔の傷がビリビリと痛む。それでも、伝えたかった。
しんのすけ「そんなにとうちゃんにそっくりなオラが嫌なの!!?」
みさえがこちらを向く。その目には、今までとは違って揺らいでいた。
しんのすけ「何でとうちゃんがそんなに嫌なの!!?」
みさえ「……」
しんのすけ「とうちゃんが何か悪いことしたの!?帰ってこないから!?足臭いから!!?」
みさえ「………」
しんのすけ「かあちゃん、もしかして何か知ってるんじゃないの!?とうちゃんが帰ってこない理由とか!」
みさえ「……!」
みさえが反応するのが、しんのすけにもはっきりと分かった。
しんのすけ「…?かあちゃん知ってるの!?」
みさえ「知らないわよ」
しんのすけ「嘘だ!かあちゃん何か知ってるでしょ!!」
みさえ「知らないって言ってんでしょ!!!」
みさうが声を張り上げる。しんのすけは少し怯んだが、今更脅える必要はなかった。
しんのすけ「…嘘だゾ…絶対…かあちゃん知ってる…!!」
みさえ「……」
しんのすけ「教えてほしいゾ…オラを嫌いになった理由…とうちゃんが嫌いになった理由…とうちゃんが帰ってこない理由も…全部…」
しんのすけ「かあちゃん!!!」
みさえ「…アンタは…」
みさえが口を開いた。今にも泣き出しそうな目でこちらを見て、ゆっくりと言葉を発する。
みさえ「アンタはまだ…何も知らなくていいのよ…」
しんのすけ「……え?」
みさえは、顔を隠すようにしんのすけから視線を外し、階段を上っていった。後を追い、二階へ向かおうとするしんのすけ。
しんのすけ「かあちゃん!!何で!!」
みさえ「お願いだから!!!」
二階の扉の前でみさえが叫んだ。思わず足を止めるしんのすけ。
みさえ「お願いだから……黙っててちょうだい……!」
そう言うと、みさえはひまわりと部屋の中へ消えていった。
しんのすけは、階段の下で座り込んだ。全身の力が、一気に抜けてしまった。
しんのすけ「かあちゃん…?」
あのみさえの声は、叱咤は、叫びは。今までの冷酷なみさえの声だけではなかった。どこか、以前の母親を思わせる、暖かな雰囲気が垣間見えたのだ。
しんのすけ「かあちゃんは…きっと何かと戦ってるんだゾ……」
きっと、自分の見えない場所で、自分に話せない事情で、何か、大きなモノを抱え込んで、戦っている………
しんのすけ「きっとそうだゾ…」
しんのすけの胸の中で、崩れ去った淡い希望が再び蘇った。
しんのすけ「暖かいゾ…」
しんのすけは、そっと瞳を閉じた。
しんのすけ『とうちゃん、かあちゃん!早く早く~!』
みさえ『コラ、待ちなさいしんのすけ!』
ひろし『はははっ、ご機嫌だなぁ、しんのすけ』
しんのすけ『だって今日はシロも一緒のお出かけゾ!』
ひろし『特別だからな!』
シロ『アン!アン!』
しんのすけ『お~よしよしシロ~。ほら!ひまも早く行こうって!』
ひまわり『たやあう!』
みさえ『もう、しょうがないんだから』
ひろし『よし、それじゃあ行くか!!』
シロ『アン!!』
しんのすけ『出発おしんこ~キュウリのぬかづけ~~!』
しんのすけ「とうちゃん…かあちゃん…ひま…シロ…」
少し前に、家族みんなで近くの広原まで出かけたことを思い出した。父親が家族サービスだとシロも車に乗せ、一緒に連れていってくれた。みんなで走り回ったり、ボールで遊んだり、ひまに花を摘んであげたり、シロと追いかけっこをしたり、かあちゃんのお弁当を食べたり、とうちゃんと綺麗なお姉さんを物色したり……………
しんのすけ「みんな、楽しそうだったゾ…オラも、楽しかったゾ…」
あの日の様子は、今でもはっきりと思い出せる。それくらい楽しくて、大切で、忘れられない思いでとなっていた。
しんのすけ「また…みんなで行きたいゾ………」
けど、今のままではそれは叶えることができない。父親は不在、愛犬は行方不明、母親はあんな様子。妹もまだ無事ではあるが…今日みたいに突然泣き出したり、いつおかしくなってしまうか分からない。
しんのすけは、自分の手の平を見つめた。先程母親にしがみついた時の感触を思い出す。
しんのすけ「かあちゃん…やせちゃったゾ…」
今思えば、今までに比べて不自然なくらいに、母親の背中は骨張っていた。きっと、母親もこの数週間、二階に篭り、ろくに何も口にしていないのだろう。
しんのすけ「かあちゃん…」
ぐゅるるるるるる~
しんのすけ「…」
と、途端にしんのすけの腹の虫が鳴き声を上げた。
しんのすけ「んもぉ~!しんみりした雰囲気が台なしだゾ!」
しんのすけも、気づけば昨日の朝から何も食べていなかった。しんのすけは、ふらふらと台所へと向かった。
しんのすけ「何かないかな~…」
今までほとんど空になっていた冷蔵庫を開けてみた。すると、
しんのすけ「おぉ!いっぱい入ってるゾ!」
一体いつ足したのか。冷蔵庫は新しく補給された食べ物が詰まっていた。
しんのすけ「オラが風間くん達に会いに行ったときかな…」
そんなことをぼんやり考えながら、戸棚も開けてみる。そこには。
しんのすけ「わぁ~い!チョコビだゾ!!」
戸棚の中には、チョコビが買い足されていた。しかも結構な量だ。
しんのすけ「かあちゃんフトモモ~!やっぱりこれがないとダメですなぁ~」
そういって封を切るしんのすけ。が、ピタリと手を止める。
しんのすけ「これ…オラ食べちゃっていいのかな…」
以前なら、家にあるチョコビはすべてしんのすけのために買ってもらったものだったため、何も考えずに食べていた。しかし、今は違う。もしかしたら、自分のではないのかもしれない。もしかしたら、食べてはいけないのかもしれない。
しんのすけ「どうしよう…開けちゃったゾ…でも…お腹すいてるし…」
しんのすけ『かあちゃん…やせちゃったゾ…』
しんのすけ「かあちゃんもお腹すかしてるはずだゾ…」
しんのすけは、ぐっと箱を握りしめた。
しんのすけ「…まぁ、開けちゃったものは仕方ないゾ!」
そう自分に言い聞かせた。
しんのすけ「…」
しんのすけは、棚の中から小皿を取り出し、その中にチョコビをあけた。中身の半分ほどが出たあたりで止める。
しんのすけ「…う~ん、これじゃ少ないかも…」
しんのすけはもう少しだけ、チョコビを足した。
しんのすけ「これくらいかな~?」
しんのすけは、リビングに行って、台所で見つけた紙に何かを書くと皿をもって二階へと上っていった。
コンコンコン
みさえ「……………」
ひまわり「たやぁ?」
扉をノックする音に、みさえは顔を上げた。
ひまわり「たやう!あ、あう~」
みさえ「どうしたの~ひまちゃん」
ひまわり「んやぁ!たたゆ!」
みさえ「気のせいよ。きっと」
みさえは、無視しようとし。しかし、やはりどこか気になる。誰がいるかはもちろん分かっている。みさえはドアノブに手をかけた。ゆっくりと扉を開く。
みさえ「………」
そこには、予想していた息子の姿は見当たらなかった。
みさえ「?」
さらにドアを開ける。すると
コツッ
みさえ「っ!!」
何かに当たった。びっくりして思わず、身を屈めてしまった。
みさえ「びっくりした…何よ…?」
おどおどと扉の向こうを覗き、当たった物を確認する。そこには、チョコビが詰められた小皿が置いてあった。
みさえ「………」
みさえはふと、皿の下に敷いてある、紙を見つけた。
みさえ「何よこれ…」
そこには、しんのすけの字でこう書かれていた。
『かあちゃんへ ダイエットのしすぎはダメだゾ ちゃんとごはんたべないと ほんとうはオラがおりょうりしてあげいけど オラまだできないからチョコビにしたゾ ごめんね 』
みさえ「…………」
紙全体を埋め尽くす力強いしんのすけの文字。
『かあちゃんはいま きっとなにかとたたかってるんだよね とうちゃんがまだかえってこないのも きっとなにか りゆうがあるってオラわかったゾ でも オラは やっぱりかあちゃんととうちゃんとひまとシロみんなでいたいゾ 』
みさえの手は震えていた。文章は、裏面まで続いていた。
『オラ かあちゃんがすきだゾ たいへんなせんたくとか そうじとか いつもしてくれて ごはんもつくってくれて おけちだなとかおもうけど そんなところも だいすきだゾ けどオラ まえみたいな おこるけどやさしいかあちゃんのほうがすきだな』
みさえ「…………」
『でもオラは シロも ひまも とうちゃんも みんなみんなだいすきなんだゾ だから オラはきらいなままでもいいから とうちゃんは きらいにならないでやってほしいゾ あしくさいけど それでも オラとひまの カッコイイとうちゃんだゾ』
みさえ「あの子…」
『でも』
ふと、みさえは下のほうに小さく書き足してある言葉を見つけた
それは
『やっぱり オラのことも』
『すきでいてほしいゾ』
みさえは、顔を覆い、その場にへたれこんだ。
みさえ「……っ!」
声を殺して涙を流した。胸が熱い。苦しい。苦しい。苦しい―
みさえ「しんのすけ……!」
みさえ「あたしは……あたしは……!」
どうすべきなのだ。
もう、言ってしまうべきなのか。けど、まだ自分自身収集がついていないのに。まだ、理解できていないのに。受け入れることが出来ないのに。
どうすれば…
みさえ「どうすればいいのよ…!」
みさえは頭を抱え込んだ。
みさえ「アナタ…助けてよ…アナタああ………!!!」
必死に助けを求めた。今ならわかる。この数日間、どれほど自分が残酷な行いをしていたか。思い返すと、体が震え出した。ぼんやりとした記憶の中には、傷だらけのしんのすけの姿があった。
みさえ「しんちゃん…しんちゃん…!ごめんね、しんのすけ…!ごめん……!!」
ただただ懺悔をした。しんのすけを殴った拳が震える。この手で、大切な息子を、あんな大切だった息子を、傷つけ、突き放し、振り払ったのだ。
みさえ「あたし…どうしたら…!」
ひまわり「あ、あやう~…」
みさえ「ひま……?」
ひまわりは、小さな手でみさえの背中をさすっていた。優しく、何度も、いつもみさえが、そうしてくれているように。
ひまわり「たやう、あ、あう」
みさえ「ひま…」
泣かないで、と。言ってくれているようだった。
みさえ「ひま…ありがとう…大丈夫よ…大丈夫…」
みさえはひまわりをその場で抱きしめた。
みさえ「ひまにまで心配されるなんてね…」
みさえは泣きながら、小さく笑みを浮かべた。
みさえ「あたしってば…弱いなぁ…!」
暫くするとみさえは、決心したように涙を拭い、顔を上げた。
みさえ「…ひまちゃん、お父さんのお話、しよっか」
ひまわり「たやぅ?」
もう、迷わない
しんのすけは、リビングでチョコビをかじっていた。
しんのすけ「ん~、久しぶりのチョコビは格別だゾ~」
先程、みさえの小皿にほとんど盛ってしまったため、少量しか残っていなかった。それでも、しっかり噛みながら数日ぶりのチョコビを、食べ物を味わっていた。
しんのすけ「でもやっぱこれじゃ足りないゾ…」
暗く静かなリビングに、しんのすけのため息と腹の音が鳴り響いた。
しんのすけ「もぉ~さっきからうるさいゾ、お腹の虫さん。我慢してよ~」
しんのすけ「かあちゃん…ちゃんと食べてくれたかなぁ…」
少しでもちゃんと食べてほしいと思って分けたチョコビ。今更だが、もし、食べてはいけないものだったらどうしようという不安が込み上げてきた。
しんのすけ「かあちゃん、あれだけじゃ足りないよね…」
呟くと、しんのすけの腹の音がまた鳴り響いた。
しんのすけ「だ~か~ら~、我慢してよ~!!オラだって我慢してるし、かあちゃんの虫さんだってきっと我慢してるゾ!」
しんのすけは、満たされない腹をさすった。
しんのすけ「どうしようかな…チョコビはいっぱいあるけど…」
確かに、チョコビはたくさんあるが、一つ目は封を切ってしまったから食べたものの、他のものは流石に手を出しがたい。
しんのすけ「他の食べ物も…オラ食べていいのかなぁ…でもオラ、ごはんつくれないしなぁ…」
また、視界が歪んだ。勝手に涙が溢れ出す。
しんのすけ「かあちゃん…オラお腹すいたゾ…」
みさえ「じゃあ、ご飯にしようか」
しんのすけ「!!!」
しんのすけは顔を上げ、しっかりと前を見た。そこには
ひまわりを抱き抱え、こちらに微笑むみさえの姿があった。
しんのすけ「…………かあちゃん?」
みさえ「どうしたのよ、そんな顔して」
うふふ、と、みさえが笑う。ひまわりがこちらをじっと見ていた。
しんのすけ「かあちゃん……」
みさえ「なぁに、しんちゃん」
しんのすけはフラフラと立ち上がり、ゆっくりと歩きだす。みさえに向かって、ゆっくりと足を進める。
しんのすけ「かあちゃん…?」
みさえ「…」
みさえの目の前まで来たしんのすけは、みさえの瞳を見た。光を宿した、温かい目をして、しんのすけを見ている。ああ、かあちゃんが、かあちゃんが…!
しんのすけ「かあちゃん…かあちゃん……!!」
みさえ「…ごめんね…しんのすけ………!」
みさえは、ひまわりを降ろし、しんのすけを抱きしめた。両腕でしっかりと、強く、強く。涙を流しながら。泣きながら、強く。
涙が、止まらない。しんのすけはみさえの肩口に顔を埋め、泣いた。大声をあげて、喚くように、泣いた。今までの、恐怖や痛みや悲しみがぐちゃぐちゃになってしまった涙ではない、
温もりを感じる、暖かな、優しい、喜びの涙が、二人の瞳からとめどなく流れていた。
みさえ「ごめんねしんのすけ…こんな弱いママで…」
しんのすけ「、そんなこと、ないゾ」
みさえ「ごめんね…痛かったでしょ…」
しんのすけ「…」
みさえ「辛かったでしょ…」
しんのすけ「…」
みさえ「怖かったわよね…」
しんのすけ「……怖かったゾ…」
しんのすけ「かあちゃん、急にオラに冷たくなったし、オラのおもちゃ捨てちゃうし、ご飯作ってくれなくなっちゃったし…」
みさえ「…」
しんのすけ「オラ、たくさん殴られたし、お洗濯もしてもらえなくて…」
みさえ「…うん」
しんのすけ「悲しかったし、辛かったし、痛いし………怖かったゾ…………」
みさえ「…………うん、ごめん、しんちゃん…ごめんね…!」
後悔が、みさえを襲った。ああ、自分はなんて、勝手で、残酷なことを、この子にしてしまったのだろう。なんて、自分は、愚かで、醜い、歪んだ心をこの子にぶつけてしまったのだろう。謝っても、許してもらえるわけがない。
それでも、みさえは、しんのすけに謝りつづけた。ひたすら、繰り返して、意味もない謝罪をしつづけた。
みさえ「ごめんねぇ……!しんのすけ……!!」
しんのすけ「でも!!」
しんのすけはみさえの顔を見て、叫ぶ。
しんのすけ「いっぱい殴られるよりも!血が出ることよりも!ご飯食べれないよりも!!」
声が震える。顔が熱い。傷が痛む。それでもみさえの目を見て、しんのすけは、叫んだ。
しんのすけ「かあちゃんまで、いなくなっちゃうほうが、ずっと、ずっと、怖かったゾ!!!!!」
みさえ「………………っ!!」
しんのすけを抱きしめながら、みさえは更に涙を流した。嗚咽が止まらない。
みさえ「しんちゃん……ごめん…!」
しんのすけを産んだその日から、母親になったみさえ。強くなろうと、この子を守るために、強く優しい母親になろうと、あの日、決めたはずなのに…
今では、守ると誓ったこの子に自分が守られていた。みさえはようやく気づいた。あぁ、
みさえ「しんちゃん…」
あたしは弱い母親だけど、この子を産めて、本当によかった…!
みさえ「ありがとう……!」
ひまわり「たやあ!!」
突然、ひまわりが二人の間に潜り込んできた。
しんのすけ「おぉ、ひま!」
みさえ「どうしたの」
ひまわり「う~…」
ひまわりは不機嫌そうに頬を膨らませ、眉間にシワを寄せた。
しんのすけ「かあちゃん、ひまもいっしょにギュッでしてほしいゾ!!」
みさえ「ふふ、じゃあ二人いっぺんに!」
みさえは、ぎゅうっと間に入り込んだひまわりごとしんのすけを抱きしめた。みさえの腕の中で、嬉しそうに笑う二人。
蟠りも、ドロドロした感情も、すべて、吹き飛んでしまいそうなくらい、眩しい笑顔だった。
しんのすけ「かあちゃん、ちゃんとチョコビ食べた?」
みさえ「うん、食べたわよ。ありがとう」
しんのすけ「オラ、かあちゃんはお肉がついてる方がやっぱり好きだゾ」
みさえ「ちょっとそれどうゆう意味よ!」
しんのすけ「いやぁ~///」
みさえ「照れるな!!…けど、あれじゃやっぱりお腹が空くわね。何か食べましょうか」
みさえは立ち上がり、キッチンに向かった。
しんのすけ「わぁ~い!!オラ、ペコがハラハラ~~~!!」
みさえ「しんちゃん、何が食べたい?」
しんのすけ「え!いいの!?」
みさえ「今日は特別よ」
しんのすけ「ヒューヒュー!かあちゃんフトモモ~!!」
みさえ「それを言うなら太っ腹でしょ」
しんのすけ「そうとも言う~」
ガチャガチャと、食事の支度を進めるみさえ。
しんのすけ「じゃあオラ、デミグラスハンバーグがいいなぁ~」
みさえ「はいはい、ハンバーグね」
ひまわり「あやう、うあ!」
しんのすけ「ひまは、ちょっぴり大人な雰囲気のミルクがいいって言ってるゾ!!」
ひまわり「たやっ!」
みさえ「ふふ、どんなミルクよ」
しんのすけ「とうちゃんは~?」
ハッとするしんのすけ。静まり返る部屋の中。
しんのすけ「あ…う…」
みさえ「…」
しんのすけ「お……オラ、間違えちゃったゾ~~」
あははと必死に照れて誤魔化そうとするしんのすけ。
みさえ「しんちゃん」
みさえが、こちらを振り向いた。
みさえ「ごはん食べたら、パパのとこ、行こうか」
しんのすけ「…………え?」
悲しげな顔で微笑むと、みさえは向き直り、鼻歌混じりに野菜を切りはじめた。
しんのすけ「…?」
首を傾げながらひまわりを見ると、しんのすけを真似て「たや?」首を傾けた。ふ、と寒い風が背中を撫でる。
しんのすけ「とうちゃん…?」
一体…何があるのだろ―――
しんのすけ「あー!!かあちゃんピーマン切ってる!!オラいらないゾ!」
みさえ「ワガママ言わないの!美味しいんだから食べなさい。」
しんのすけは台所へと走って行った。ひまわりも後をはいはいで追いかける。
他愛もない日常が、少し戻った野原家であった。
みさえ「はい、出来たわよ~」
しんのすけ「うわぁ~い!ハンバーグハンバーグ!」
しんのすけは、久しぶりに三人で食事をとった。目の前には、自分のリクエストしたハンバーグにチキンライスが並んでいた。
しんのすけ「おぉ~、なんだかレストランみたいだゾ」
みさえ「おおげさねぇ。それじゃあ、食べましょう」
しんのすけ「いっただきま~!す」
しんのすけは久しぶりに、家族と食事をとった。今まで一人で寂しいと泣きながら食事をしていたこの空間が、嘘のように思えてきた。
みさえ「そんなに急いで食べなくても大丈夫よ」
口の中いっぱいにご飯を詰め込み、もぐもぐと口を動かしながら美味しそうにハンバーグを食べる。そんなしんのすけの姿を見て、みさえは自然と顔が綻び、また涙腺が緩んだ。
みさえ「はい、ひまちゃんも、ミルク飲みましょうね~」
みさえは、ひまわりを膝の上に乗せた。嬉しそうにじたばたと手足を動かすひまわり。みさえの顔から、また笑顔がこぼれる。
みさえ「ほら、暴れないの!」
ひまわり「えへへへぇ~///」
この数週間、ひまわりとずっと一緒にいる生活。二階に篭り、おむつやミルクなどの最低限の世話しかしてやれていなかった自分を振り返った。たまに、あやして一緒に笑うようなときもあったがひまわりは、こんなふうに、心から笑ってくれていただろうか。
あの部屋にいたひまわりは、部屋から出してもらえないストレスか、はたまたみさえの異変に気付いてか、いつもどこか不安そうな表情をしていた。
みさえ「ひま…」
それでもひまわりは、自分の傍にいてくれた。心配してくれた。励ましてくれた。
みさえ「ひまも、ありがとうね」
ひまわりはミルクを飲み終え、ぷはぁっと一息着くと、みさえに向かって
ひまわり「たや!」
と、元気よく、返事をした。
しんのすけ「ごちそうさマンボウの踊り食い~!」
手をあわせて、クネクネと変な動きをするしんのすけ。踊りながら、台所まで皿を運ぶ。
みさえ「ごちそうさまでしょ」
しんのすけ「あ~、すっごく美味しかったゾ!」
みさえ「…まだお腹すいてない?大丈夫?」
しんのすけ「だいじょーぶ!満腹満腹~」
ポン、と力強くお腹を叩くしんのすけ。
みさえ「うふふ、よかったわね」
みさえも、自分の食器を片付けはじめる。
しんのすけは、リビングでひまわりと遊んでいた。
しんのすけ「ほら、ひま~アクション仮面だぞ~!」
ひまわり「たう~あやう!」
しんのすけ「ワァーッハッハッハッ!そんな攻撃、オラとアクション仮面には通用しないゾ!」
楽しそうにごっこ遊びをする二人。皿を洗いながら、みさえは微笑んだ。
みさえ「早くこれ済ませて…行かなきゃね」
伝えなければいけない。しんのすけに。
しんのすけ「ねぇ、かあちゃん」
皿洗いを終え、手を拭きながらリビングに戻ったみさえに、しんのすけが声をかけた。
みさえ「なぁに?」
しんのすけ「これから、とうちゃんの所に行くんだよね」
みさえ「…うん、行くわよ。」
しんのすけ「とうちゃんに、会えるんだよね」
さ、準備しようね。しんのすけも着替えちゃいなさい。」
しんのすけ「ほっほーい!!」
嬉しそうに立ち上がり、いそいそと服を着替えはじめるしんのすけ。ずっと帰ってこなかった父親にやっと会える。やはり、寂しくてたまらなかったのだ。
しんのすけ「とうちゃんに会えるんだから、おパンツもおニューにしなきゃね!」
どれ履こうかなー、と楽しそうに服を選び、着替えるしんのすけ。そのまわりには、着ていた服が脱ぎ捨てるように散らかされていた。
みさえ「あの子ったら、また服脱ぎっぱなしにしちゃって…」
まったく、と軽くため息をつき、みさえが注意しようとした時
しんのすけ「ぅおっとっと、いけないいけない」
しんのすけは、言われる前に服を抱え、洗濯機へと運んで行った。
みさえ「偉いじゃないしんのすけ!自分からちゃんと入れるなんて」
洗濯機へと服を放り込んで戻ってきたしんのすけに、みさえは手を叩いた。
しんのすけ「いやぁ~当たり前のことをしただけだゾ///」
頭をかきながら照れて見せるしんのすけ。自分で洗濯物を干してから、いかに母親の仕事が大変か分かったしんのすけは、少し、自分から動いてみたのだった
みさえ「これからもちゃんとしてくれると嬉しいんだけどね~」
しんのすけ「オラちゃんとやれるゾ!お洗濯だって出来たし、オラにおまかせだぞ!」
みさえ「あら嬉しい!じゃあ洗濯物はこれから全部しんちゃんに任せようかな~」
しんのすけ「う…か、かあちゃん…流石にそれは勘弁だゾ…」
みさえ「うふふ、冗談よ。さて、あたしも着替えなくちゃ…」
しんのすけ「かあちゃん早く早く~!」
みさえ「ちょっと待ってね~」
家の外で、しんのすけは地団駄を踏んでみさえを急かした。靴がボロボロなしんのすけは、ちょっと大きめのサンダルを履いて出かけることにした。しんのすけが足を動かす度に、ブカブカのサンダルが脱げそうに揺れた。
みさえ「しんちゃん、途中で新しい靴買おうか…?」
しんのすけ「オラ、これで平気だゾ!」
父親に会うには、ちょっと格好悪いかもしれないけど、裸足なんかよりもこっちのほうがずっとよかった。
さっきまで朝だったのに、気づけば日は沈みかけて、空はもう薄暗くなってきていた。
みさえ「じゃ、車乗っててちょうだい」
しんのすけ「お!車で行くの?」
みさえ「そうね、ちょっと遠いから」
しんのすけ「わぁ~い!ドライブみたいだゾ!行くゾ、ひま!」
ひまわりをおぶりながら、車に乗り込むしんのすけ。
みさえ「…」
そんな姿を見ながら、みさえは一人、悶々としていた。
みさえ「考えたって…仕方ないわよね…」
みさえは一度大きく深呼吸をしてから、車に乗り込んだ。
みさえ「お待たせ!じゃあ行くわよ」
しんのすけ「しゅっぱつおしんこ~!」
ひまわり「たやたう!!」
車がゆっくりとガレージを抜け出し、野原家を後にして走り出した。
しんのすけ「ねぇねぇかあちゃん」
みさえ「なぁにー?」
みさえは、バックミラー越しにしんのすけの顔を見た。
しんのすけ「これから、どこに行くの?」
みさえ「どこって、パパのところよ」
しんのすけ「だから、とうちゃんはどこにいるの?」
みさえ「…さ~て、どこでしょう~?」
しんのすけ「え~」
みさえ「うふふ」
しんのすけ「んもぅ、かあちゃんじれったいゾ~」
しんのすけ「そういやかあちゃん」
みさえ「ん?」
しんのすけ「シロってどこ行っちゃったんだろう…」
しんのすけは少し寂しそうな顔をして俯いた。
みさえ「…」
車が赤信号で止まった。するとみさえは手を伸ばし、しんのすけの坊主頭をぐりぐりと撫でた。しんのすけが顔を上げる。
みさえ「もしかしたら、シロはパパといっしょにいるかもしれないわよ」
笑いかけるみさえ。しんのすけの表情が明るくなる。
しんのすけ「ホント?」
みさえ「さぁ、どうかしら~」
しんのすけ「うおお、楽しみになってきたゾ~~!」
車はどんどん進んでいく。しんのすけはみさえにいろんな話をした。洗濯物を干した話、昔広原に家族で行ったときのことを思い出した話、アクション仮面の話。みさえは、運転をしながら、ちゃんと話を聞いてくれた。ほころぶ横顔が見えた。
しんのすけ「オラ、とうちゃんとシロが帰ってきたら、みんなでシロのお散歩いきたいゾ」
みさえ「うん…」
しんのすけ「それで、いっしょにごはん食べて、お風呂に入って、みんなで寝て。それで、それで、またみんなで、あの原っぱにいきたいゾ!!」
みさえ「うん…いけたらいいわね」
しんのすけ「いや~楽しみですな~!」
気付くとしんのすけは、ひまわりと頭をくっつけて眠ってしまっていた。暖かそうに寄り添って眠る二人。みさえは、そんな二人を、寂しげな目で鏡越しに見つめた。
みさえ「……」
車はどんどん進んでいく。どんどん、どんどん奥地へと。
激しい揺れに、しんのすけは目を覚ました。ひまわりを起こさないように、そっと頭を上げる。
しんのすけ「………ん?あれ?」
あたりを見ると、真っ暗で何も見えなかった。道路が荒いのか、車体が酷くガタガタと揺れていた。車は、変わらずどんどん進んでいた。
みさえ「あ、しんのすけ、おこしちゃった?」
しんのすけ「かあちゃん?ここどこ?」
しんのすけ「かあちゃん?」
みさえは、ずっと前を向いて運転を続けている。一見、みさえに何の変化も無い。しかし、しんのすけはすぐに違和感を感じた。
しんのすけ「かあちゃん、ここどこなの?かあちゃん?」
ガタン!と車体がまた一段と激しく揺れた。シートベルトをしていても、吹き飛ばされてしまいそうだった。
しんのすけ「うわぁああ!」
しんのすけは、あたりをもう一度よく見てみた。暗くてハッキリ分からないが、うっすらカーライトに照らされて、木が生い茂っているのが見えた。
しんのすけ「……やま?」
ガタガタ
車は、スピードを上げながら、山道を進んでいた。みさえは、相変わらず前だけを見ている。
しんのすけ「かあちゃん、危ないゾ!何でこんなとこ通るの!!」
みさえは振り返らない。
しんのすけ「かあちゃん車の運転ヘタクソでしょ!どっかにぶつかったら怪我するゾ!かあちゃん!」
しんのすけは必死に呼び掛けた。怖くて堪らなかった。こんな暗闇の中。どこに何があるかなんて、見えないし分からない。まして、運転が苦手なみさえがこんな危険な道を運転しているなんて。しんのすけは、みさえを止めようとした。
しんのすけ「かあちゃん!オラの話聞いてるの!?ねぇ!危ないゾ!!」
みさえ「パパに、会いたくないの?」
しんのすけ「え…?」
真っすぐ前を見据えたまま、みさえはしんのすけに言った。しんのすけは驚愕の顔を浮かべる。
しんのすけ「とうちゃん、こんなところにいるの……?」
みさえ「……」
しんのすけ「う、ウソだぞ、そんなの!!!」
しんのすけ「とうちゃんが!こんな場所にいるはずないゾ!!」
しんのすけは首を横に振った。違うと、そんなはずがないと。目を固くつぶって、嫌な感覚を振り払うように。
しんのすけ「とうちゃんがこんな暗くて危ない山にいるはずがないゾ!だってとうちゃんもういい歳だし!こんな場所に車も乗らないで来れるはずないゾ!」
みさえ「…そうね」
しんのすけ「大体、とうちゃん怖がりだから、こんな暗い場所に来たがるはずがないゾ!」
みさえ「…」
しんのすけ「シロだって、とうちゃんといっしょにいるなら、こんな場所嫌がるはずだゾ!!」
声を荒くして、しんのすけは叫ぶ。その声は、みさえに語り、そして自分に言い聞かせているようであった。
みさえ「そうよ……」
みさえは口を開く。
みさえ「しんちゃんの言う通りよ」
車が、止まった
..
みさえ「あの人は、ここにはいない」
しんのすけ「かあちゃん…ここ…」
ひまわり「あ、うう、えっ」
その時、目を覚ましたひまわりがぐずりはじめた。
しんのすけ「あ、ひま、大丈夫、大丈夫だゾ」
お腹を軽く叩き頭を撫でながらしんのすけはひまをあやした。みさえは、車をとめてから、ハンドルを握り締め、ブツブツと何かを呟きつづけている。
みさえ「大丈夫、大丈夫よ、大丈夫……大丈夫大丈夫……大丈夫……………」
しんのすけ「かあちゃん、大丈夫…?」
しんのすけはみさえに問い掛けた。するとみさえは、やっとこちらを振り返り、笑顔を見せた。
みさえ「大丈夫よ、しんちゃん」
ありがとう、と呟き、また前を向く。
しんのすけ「…」
しんのすけは、笑えなかった。安心出来なかった。あの笑顔は、どこも、大丈夫だなんて伝わってこなかった。不安な、泣き出しそうな笑顔。
しんのすけ「大丈夫じゃないゾ……かあちゃん…!!」
みさえ「………そうね」
みさえ「…でも………」
ぽつり、とみさえが呟く。その目から、光は消えていた。
みさえ「こうするしか…なかったのかなぁ…」
みさえは、皿にハンドルを強く握り締めた。手が震えてる。爪が食い込んできて、痛い。一度はあんなに強くなったなのに。強く誓ったのに。あたしは、あたしは――――――
みさえ「やっぱり……駄目だ……!!!!」
みさえが、アクセルを踏んだ
スピードを徐々に上げて前へと進む車。しんのすけは身を屈めた。ひまわりが泣き出す。かつて聞いた、劈くような声で必死に泣き喚いた。
しんのすけ「かぁちゃん!!!!かあちゃああん!!」
ひまわり「びええええええん!!!うわあぁぁあああん!!!」
みさえの耳にはちゃんと聞こえていた。しんのすけの叫び声も、ひまわりの泣き声も。
けど、止まらなかった。
止められなかった。
車がスピードを上げる。
そして、
道が、
あなた…これで…
これでよかったのよね…
あなた――――
みさえは、ゆっくりと
瞼を下ろした
『やめろおおおおお!!!!』
「!!!!」
みさえは目を見開き、ブレーキを踏み付けた
ギャリギャリギャリギャリギャリギャリ!!
みさえ「く、ぅうう!!!」
タイヤが音をたてる。車体が凄まじく揺れる。しかし、それでも車は止まらない。
みさえ「いや…いやぁあ!!」
いや、止まらない、いや、いや、怖い、落ちる、落ちたら、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!!!!
しんのすけ「かあちゃああああああん!!」
山奥深く、切り立った崖の上。
地面を削る音が響き渡った後、そこは静寂に包まれた。
その崖の先に、
一台の車が止まった。
みさえ「ハァッ……、ハァッ…………ハァッ………!!!」
その車の中で、みさえは肩を上下に動かし、必死に息をしていた。しんのすけは目を見開き、前を向いている。ひまわりは泣き止み、呆然としていた。
切り立った崖の上。あと数センチ進めば、車体はその下の暗闇へと呑まれていただろう。
車の中の家族三人を巻き添えにして。
みさえ「ハァッ……ハッ……ハッ……」
みさえが呼吸を整え、後ろを振り向いた。見開いた両目から涙を流しながら、しんのすけが呟いた。
しんのすけ「聞こえゾ…………」
しんのすけは、混乱していた。今にも崖から車ごと落ちそうになった。母親が、またおかしくなってしまった。最後に叫んだときに、しんのすけは死を感じた。車が止まってからも、もう、何から考えたらいいのか分からなかった。母親を落ち着かせるべきなのか、妹に声をかけるべきなのか。分からなかった。
ただ、そんな中、あるものが聞こえたのだ。はっきりと、自分の鼓膜を響かせた、あるものを。
しんのすけ「かあちゃん…!今……!オラ…!聞こえた…!」
みさえ「う………、うんっ……!うん……!!」
みさえは泣きながら体を震わせて、しんのすけを見つめて、そして頷いた。何度も。
みさえも聞こえた。もちろん、ひまわりにも。その声は、届いていた。
しんのすけ「とうちゃんの声だゾ…!」
しんのすけ「本当に…本当にここにいたんだ…いたんだゾ!!」
みさえ「うぅ……うあああっ!」
泣き崩れるみさえ。それにつられて、ひまわりも、また泣き出してしまった。
しんのすけは、涙を拭って車から飛び降りた。急いであたりを見渡す。真っ暗で何も見えない中、父親の姿を探した。
しんのすけ「……!とうちゃあああん!!!とうちゃあああああああん!!!!」
しんのすけは、喉が張り裂けそうなほど叫んだ。もう、叫び疲れて、声も枯れてしまいそうだったが、父親の姿を探して、必死に、暗闇に向かって叫んだ。
しんのすけ「とうちゃああん!!返事して!!とうちゃあああん!!!」
しかし、返事はなかった。しんのすけの声だけが、こだまするだけだった。
しんのすけ「…っ!」
しんのすけは、唇を噛み締めて涙を堪える。今ここでまた泣いてしまったら、また父親に会えなくなってしまうと思った。泣き顔なんて、見せたくはない。笑顔で、また会って、パンチでもお見舞いしてやろう。しんのすけは、拳を握り締め、もう一度、渾身の力を振り絞って、
父を呼んだ
それでも、返事はなかった。
しんのすけ「とうちゃん………」
しんのすけは、呆然と立ち尽くした。自分は確かに聞いたのだ。父親の声を、父親の叫びを。なのに、それなのに。まるで、夜の闇が父親を呑み込んでしまったかのように。父親の姿は見えず、ただ真っ暗な森だけが、目の前に広がっていた。
しんのすけ「……とうちゃ…!」
もしかしたら、森の中にいるのかもしれない。あの細く狭い道を、あるって来ているのかもしれない。しんのすけは、森に向かって走り出そうとした。
しかし、そんなしんのすけを、みさえは後ろから抱き留めた。
しんのすけ「何すんのかあちゃん!!」
みさえ「どこいくの!危ないでしょう!」
しんのすけは、みさえの腕の中でもがいた。森の中へ行きたかった。もしかしたら、もしかすると、そんな期待に身を任せて、走り出してしまいたかった。しかしみさえも、放すまいと力を込める。しんのすけは、カッとなって怒鳴った。
しんのすけ「かあちゃん!なんで!!とうちゃんいるんだゾ!さっき、声がしたんだぞ!!なんで!!?」
みさえ「あの人は!!!!!」
みさえの声に、思わず怯むしんのすけ。しんのすけを抱きしめる腕の力が、徐々に抜けていく。
みさえ「あの人は……」
しんのすけを離し、俯くみさえ。しんのすけは、その場から動けず、座り込んでしまった
みさえ「パパはもう…ここにはいないのよ…」
数日後、、、、
銀の介「はぁ…調子がでないのぉ…」
銀の介は、家の外でぼんやりと空を眺めていた。曇りだした空は、どこか自分の心境を表しているように思えた。
銀の介「飯にするか…」
ふと、表に目をやると、どこかで見たことのある車が一台停まっている。玄関を見ると、そこには見覚えのある人影が立っていた。
銀の介「……まさか……!」
銀の介は、慌てて玄関へと駆け出した。人影がこちらを振り返る。そこにいたのは
銀の介「みさえさん…!」
少し疲れた様子で頭を下げるみさえと抱き抱えられて眠るひまわり、「やっ!」と元気に手を挙げるしんのすけの姿があった
銀の介「みさえさん…」
みさえ「お義父さん…突然お邪魔してすみません…」
みさえは何度も頭を下げる。
しんのすけ「じいちゃんお久しぶり~!」
銀の介「あぁ久しぶり。よくきたのぉ」
久しぶりに会えた孫の頭を、ぐりぐりと撫でた。ふと、しんのすけが顔中傷だらけである事に気づいた。
銀の介「しんのすけ…一体どうしたんじゃ?この怪我は…」
しんのすけ「お?これ?」
しんのすけは自分の顔に手を当てる。銀の介がみさえの顔を見ると、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。すると、しんのすけは頬をさすりながら、笑って見せた。
しんのすけ「いやぁ~、またひとつオラが大人になった証だゾ!」
なんちゃって~と笑うしんのすけ。銀の介は、一瞬驚いた表情を見せたが、暫くすると「そうか」と微笑んだ。
銀の介「とりあえず、立ち話もなんじゃ。皆中に入れ」
銀の介が三人を中へと招き入れた。
家の中は、しんと静まり返っていた。やけにどこもかしこも綺麗に掃除された後のようだった。しんのすけはみさえの服の裾を掴んで歩いた。
銀の介「ばあさん、みさえさんじゃ」
居間には、ひろしの母である、つるが座っていた。はっと顔を上げてこちらを見る。
つる「あぁ…みさえさん…!」
みさえをみると、涙ぐんでこちらへ寄ってきた。みさえの手を握り、小さく肩を震えさせ、涙を流した。
みさえ「お義母さんも…突然すみません」
つる「うぅ…うぅう……っ」
みさえの手を握り締めたまま小さく首を振った。皺だらけの手も、また小さく震えていた。
銀の介「ウチに来てくれたってことは…もう、大丈夫なんじゃな…?」
みさえ「はい…ありがとうございます。本当に遅くなってしまいまって…本当に……す…っ、……!」
すみません…、と弱々しく呟くと、みさえは俯き、泣き出してしまった。銀の介は、みさえの背中を摩った。その様子を下から見上げたしんのすけの頬に、みさえの涙が零れた。
銀の介「じゃあ、みさえさん、少し話しをしよう。ばあさん、お茶だしてくれ」
銀の介は、胡座をかいて座った。みさえも涙を拭い、座布団の上に正座をする。
銀の介「しんのすけ」
しんのすけ「なに?」
銀の介「これから少し、みさえさんと話すから隣の部屋に行ってくれないかの」
しんのすけ「んー…」
しんのすけは少し考えたあと、銀の介の顔を見た。
しんのすけ「オラもいたいゾ」
銀の介「しんのすけ…」
しんのすけ「オラも、お話するゾ」
強い、真っ直ぐな瞳で銀の介を見つめるしんのすけ。銀の介は、何かを悟ったように笑みを零した。
銀の介「…分かった」
銀の介はニッと笑うと、しんのすけの分の座布団を用意した。
銀の介「ホレ、座れ!」
しんのすけ「うわぁ~い!やったぁ~」
しんのすけは、みさえの横に座布団を敷き、ちょんと座った。
銀の介「しんのすけは…強い子じゃの」
この子はもう、気づいている。
そしてみさえは、この数週間の出来事を、記憶の限り、ありのままに話した。部屋に篭りきりだったこと、掃除や炊事を放棄したこと、しんのすけを幼稚園に行かせなかったこと、そして、しんのすけに対して行ったこと…震える声で、淡々と銀の介に打ち明かしていった。銀の介とつるは、そんなみさえを咎めはせず、相槌をうちながら、ただただ話を聞いているだけだった。
しんのすけ「…」
しんのすけも、黙ってそれを聞いていた。じんじんと、頬が疼く。
銀の介「そうか…そんなことがあったのか…」
全てを話し終え、俯くみさえに、銀の介が呟いた。
銀の介「みさえさんも…戦っていたんじゃな…あいつの面影と…」
みさえ「…」
銀の介「ワシらでさえ、なかなか振り切れなかったんじゃ…みさえさんも、大変だったろう…」
みさえ「……」
銀の介「…辛かったろう…」
みさえは、また泣き出した。もう、どれほど涙を流したか分からない。涙が枯れるなんて嘘なんだと、そう思った。つるも、つられて噎び泣き、銀の介の目尻には、うっすら涙が浮かびはじめた。
その時
しんのすけ「じいちゃん」
しんのすけが口を開いた。
銀の介「ん?どうした?」
しんのすけ「オラ…とうちゃんのいるところに行きたいぞ」
銀の介「………それは」
しんのすけ「大丈夫」
小さな、それでも強い声で、しんのすけは呟いた。
しんのすけ「オラ、もう分かってるゾ」
銀の介「…」
しんのすけ「とうちゃん…もういないんだよね」
―――――それは、シロが脱走した日の夜のこと。
みさえ「あの人、遅いわね…」
みさえは、玄関先に立ち、ひろしの帰りを待っていた。
しんのすけ「とうちゃん、まだ帰ってこないの~?」
しんのすけが、眠たそうに目を擦りながら、窓からみさえに声をかけた。時刻は10時半を過ぎた。連絡は、まだ何も入ってこない。
みさえ「多分、シロの話をお巡りさんにしてるのよ」
しんのすけ「ほうほう、シロも勝手ですな~家出するならオラにちゃんと言ってほしいゾ!」
みさえ「言うわけないでしょうが!まだ帰ってこないみたいだから、しんちゃんもう寝ちゃいなさい」
しんのすけ「え~オラも待ちたい待ちたい~!」
みさえ「駄目!明日幼稚園なんだから、もう寝なさい!」
しんのすけ「おケチみさえ!」
みさえ「はいはい、おやすみ」
しんのすけは、あくびをしながら家の中に戻っていった
それから暫くすると、みさえの携帯に着信がきた。ひろしからだった。
みさえ「もしもし、あなた?遅いじゃない何してるのよ!」
ひろし『あ~、悪い悪い!それはそうと、シロ、見つけたぞ!』
みさえ「本当っ!!?」
ひろし『ああ、帰りに見つけてさ。追い掛けてたらずいぶん家から離れちまって…それで、あの、ちょっと来てほしいんだけど…』
みさえ「どうしたの?」
ひろし『実は川に落ちちまったんだけど、土手が急過ぎて登れないんだよ。ロープか何か持ってきてくれないか?』
みさえ「えぇ?あなた今どこよ?」
ひろし『いやぁ…よく分かんねぇや、はは』
みさえ「はぁ!?」
みさえ「何よそれ!どうやって行けっていうのよ」
ひろし『はは…本当は警察とかに連絡したほうがいいのかもしれないけど、何か、そっちにかけちまったよ』
みさえ「…そこ、近くにお店とか無かった?」
ひろし『よく覚えてないけど、川沿いに沿って居酒屋と小さな食堂みたいな店はあったぞ』
みさえ「川沿いに居酒屋と食堂ね、分かったわ。車はいやだから歩いて行くわね」
ひろし『え?本当に来てくれんのか!?』
みさえ「何よ!いいなら行かないわよ!?」
ひろし『い、いやいや、来てくれ、頼む!』
焦るひろしに、思わずクスッと電話越しに笑ってしまった。
みさえ「地図を頼りに行くから少し、遅くなるかも…ロープ持って行けばいいのね?」
ひろし『あ、ああ…あのさ、しんのすけとひまはもう寝ちゃったか?』
みさえ「?ええ、もう寝させたわよ」
ひろし『そうか、分かった』
みさえ「じゃあ、今から行くからね!」
ひろし『なぁ…』
みさえ「ん?何?」
ひろし『…ありがとうな、みさえ…』
みさえ「な……何よ急に!!改まって!///」
ひろし『いや…いつもあんまり言えてないなと思ってよ』
みさえ「急に、変なこと言わないでよね!もう、じゃあ、準備してから、探しに行くから!」
みさえは、家の中に戻り、ロープと地図を探した。
ひろし『おう、頼むぞ』
一旦携帯から顔を離し、ロープと地図を手に取る。
みさえ「ああ、そうだ」
再び、携帯に耳を付ける
みさえ「あなた、あんまりあたしが遅いときにはちゃんと警察に」
『ツー、ツー、ツー』
みさえ「……?切れちゃった…」
まぁいっかと靴を履き、外に出るみさえ。
みさえ「とりあえず、川沿いの居酒屋さんか食堂を探して…」
地図にのってるといいけど、と呟きながらバッと地図を広げるみさえ。ふと、先程のひろしの言葉を思い出した。
ひろし『…ありがとうな、みさえ…』
ぼっと顔が赤くなる。
みさえ「あ、あんな台詞、滅多に言わないくせに何でこんな時ばっかり…思ってるなら、普段からちゃんと言いなさいよ!」
照れ隠しのように、悪態をつきながら、みさえは歩き出した。悪口を言いながらも、口元は微笑んでいた。
ひろしは、携帯を掴んだ手を下に下ろした。
ひろし「…充電切れか…」
体中の至る所が軋むように痛い。何で、こんなところに俺はいるんだろう。ぼんやりとそんなことを考えた。膝の上には、ボロボロになり、冷たくなったシロがいた。携帯を離し、そっと撫でてみても、反応はない。
ひろし「…シロ」
会社の帰り、電車から降り、交番に向かおうと考え、いつもとは違う小道に入ったひろし。暫く歩いていると、目の前に狂暴そうな野良犬の群れがいた。
ひろし『うわっ…』
よけて通ろうとしたその時、目に飛び込んできたのは、ボロボロになったシロの姿だった。変わり果てたその姿に驚愕するひろし。
ひろし『シ…シロ!!!!』
ひろしが叫んだ途端、こちらを一瞥した野良犬は、シロをくわえたかと思うと、その場から逃げ出した、。
ひろし『ま、待ちやがれ!!』
ひろしは、鞄を放り出し、犬の後を必死に追い掛けた。
ひろし『ハァ…っハァ…っ…シロ……ッ!!』
ひろしは、全力疾走で、野良犬の後を追い掛けた。野良犬は、グングンスピードを上げ、走り去ろうとする。くわえられたシロが、ガクガクと揺さぶられていた。
かなりの距離を走りつづけ、気付けば、辺りは住宅も見当たらない、人気の少ない場所になっていた。脇には、道路より何メーターか低い位置で、川が流れていた。
ひろし『…こんの、糞犬ぁあ!!!!!!』
ひろしは、野良犬の群れに飛びこみ、シロをくわえている、一番大きな犬の前足を掴んだ。
ひろし『シロを離しやがれぇえ!!!』
しかし、野良犬は必死に抵抗をし、シロを離すとひろしの腕に噛み付いた。腕に鈍い痛みが走る。他の野良犬も、何匹か噛み付いてきた。
野良犬の口から落ちたシロの体は、犬の後ろ足で蹴られ、脇へ転がり、
今にも川に落ちそうになった。
ひろし(まずい…シロ……!)
転がりつづけた末にシロの体は、道路から外れ、川の上空へと飛び出した。
ひろし『シロぉおっ!』
ひろしは、野良犬を振り払い。シロに腕を伸ばした。自分も川に向かって飛び、痛む腕でシロの体を抱き留めた。そのまま、川へと真っ逆さまに落ちていく。
そして、
川に飛び込んだ、その時。
ゴッ
ひろし『!!!っ』
浅い川底の岩に、ひろしの頭部が嫌な音を立ててぶつかった。
そして、ひろしの意識は遠退いていった
ひろし『……ん゙…うぅ…っ』
ひろしは、痛みに目を覚ました。どこかの川原にたどり着いていた。川原といっても、本当に小さい、やっと一人が寝そべることのできる広さだった。
ひろし『シ…ロ……』
ひろしは、自分の腕の中を見た。そこには、ずぶ濡れになって目を閉じるシロがいた。
ひろし『シロ…シロ……っ痛ッ!!!』
ひろしが体を起こすと、頭をとてつもない痛みが襲った。きっと先程打ち付けたところだ。
ひろし『いでぇ……ぁあ、って…………!く、うう……っ!』
頭を抱えるひろし、と、頭に触れた手の平を見てみると、赤くドロッとした液体が付着していた。血だ。血が出ている。
ひろし『あ…頭が……い……』
ぼうっと、視界が曇りはじめた。意識が飛んでしまいそうだった。呼吸がうまくできない、痛くて堪らない、苦しい、苦しい、痛い、痛い、痛い痛い痛い
体が思うように動かない。頭から流れる血が、額を伝う感覚がした。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い
俺は
ひろし『…、しぬ…の…か……?』
視界が、さらに曇る。ああ、駄目だ、もう、俺は
俺はもう…
ひろし『……………っ!』
必死にポケットから携帯を取り出し、開いてみる。奇跡的に、壊れてはいなかった。ひろしは、震える指先でボタンを操作し、電話帳からみさえの番号に電話をかけた。
腕に力を入れ、携帯を取り、耳に当てた。手が震える。けど、けど
多分、もう、俺は…
みさえ『もしもし、あなた?遅いじゃない何してるのよ!』
ああ、みさえの声がする。怒鳴りつけるその声色には、ハッキリと心配している様子が伺えた
ひろしも、声を振り絞る
ひろし『あ~、悪い悪い!』
不思議だった。あんなにも苦しかった筈なのに。みさえの声が聞こえた途端、ふっと胸が軽くなったように思えた。
極力、いつもの調子で話すように。電話越しに会話をして、助けを求めた。本来なら、警察や救急車を呼ぶべきなのだろう。しかし、何としても、みさえに、家族に助けに来て欲しかったのだ。
そう、家族だ。
ひろし『あ、ああ…あのさ、しんのすけとひまはもう寝ちゃったか?』
みさえ『?ええ、もう寝させたわよ』
ひろし『そうか、分かった』
痛みが、蘇ってきた。
せめて、声だけでも聞かせてもらおうかと思った。しかし、その痛みによって、時間がないのだと気づいた。汗が止まらない。痛みも、苦しみも、何もかもがいっぺんに襲い掛かってきた。
俺、家族にちゃんと、何かしてやれていたか?野原家の大黒柱として、ちゃんと家族を幸せに出来たか?俺ばっかりが助けられていたような、そんな気がして、悔しさと悲しさと、そして感謝が込み上げる。伝えたい、伝えなきゃ、俺が、お前に、家族に、
ひろし『なぁ…』
けど
みさえ『ん?何?』
こんなんじゃ
ひろし『…ありがとうな、みさえ…』
たったこれだけのありがとうじゃ足りないなんて、今頃気づいたって、もう遅いのにな。
手の力が抜けてきた。力を入れようとしても、携帯を握っているのが、腕を上げているのが、とても辛くなってきた。
まだ、伝えなきゃいけないことはきっとたくさんあるだろうに、何で俺は、言えないんだ。
さよならとか、しんのすけ達を頼んだとか、もっと沢山のことを、言わなきゃいけないのに、それなのに、どうしてこんなに
別れを認めるのが、怖いんだ
みさえ『もう、じゃあ、準備してから、探しに行くから!』
ひろし『おう、頼むぞ』
その時
『プー、プー、プー』
故障同然の勢いで、携帯の充電が切れてしまった。
視界が暗くなってきた。もう、星空も見えない。膝の上にいるシロの感触も、もう分からない。ただ、徐々に『無』だけが、ひろしを支配していった。
もし、あの時、かけた電話がみさえ出はなく、救急車であったなら。自分は助かっただろうか。無事だっただろうか。いや、きっと、どうしても結果は変わらなかっただろう。
最早今、考えているここは、地上なのかそれ以外なのか。それすら分からない。痛みがだんだんと引いていく。力が抜けていく。
しんのすけ、ひまわり、みさえ
ごめんな、俺は、いい父親なんて、胸を張って言えないかもしれないけど
それでも俺は、
お前達の父親になれて
お前達と家族になれて
幸せだったぞ
ありがとう
さようなら
ひろしは瞼を下ろし。
シロとともに、眠りについた
みさえ「ん~…見つからない…」
みさえは、地図を持ちながらまだひろしを探していた。何度地図をみても、川沿いに居酒屋や食堂らしきものが書いてある様子はない。
みさえ「やっぱり地図にのってないのかしら……」
どうしよう、と曲がり角を曲がったその時。
ドンッ!
みさえ「きゃあ!」
?「うわっ!」
みさえは誰かと正面衝突をし、後ろへ倒れ、尻餅をついた。相手も、勢いよく倒れ込む。
?「いったたたた…」
みさえ「あ、す、すみません!大丈夫ですか!?………って」
むさえ「…あ!姉ちゃん!!」
そこには、妹のむさえが倒れていた。
みさえ「あんた、何してんのよこんな時間に!」
むさえ「い…いいじゃん、別に何だって。コンビニ行ってただけだよ」
みさえ「こんな遅くに、一人でウロウロするんじゃないの!」
むさえ「こ、子供扱いしないでよ!てか、姉ちゃんこそこんなとこで何してんの?急に飛び出してこないでよね、危ないじゃんか!」
みさえ「飛び出してきたのはアンタでしょ!」
むさえ「うわ!理不尽~相変わらずだねぇ」
みさえ「アンタね……!って、いけない、こんなことしてる場合じゃないんだ!」
むさえ「え…どうしたの?」
みさえは、今までのいきさつをむさえに簡単に説明した。
むさえ「うそ、まじで?義兄さんが?」
みさえ「うん、携帯も繋がらないし…川って言ってたから壊れたのかしら」
むさえ「川?川って…どこの川にいんの?」
みさえ「えっと…居酒屋さんと食堂があったって言ってたんだけど、見つからないのよね…」
みさえは呟くと、地図を広げる。すると、むさえが何かを考えはじめた。
みさえ「むさえ?」
むさえ「川沿いの居酒屋…食堂………あたし、知ってるかも」
みさえ「えっ!本当!?」
むさえ「うん…小さな居酒屋と食堂が隣接してる場所、多分あそこだよな……地図にのるような大きな店じゃなかったはずだよ」
むさえは手を顎にかけ、う~んと唸った。
みさえ「ちょっとむさえ!案内して!!」
むさえは、コンビニで買ったパンを食べながら居酒屋へ向かった。
みさえ「ちょっと、歩きながら食べないの!」
むさえ「いいじゃんかよー案内してあげてるんだからさ」
みさえ「…というか、何であたしよりもあんたの方がこの周辺に詳しいのよ…何か腹立つ」
むさえ「まぁ、暇なときに、よくいろんな場所ウロウロしてるからね~」
いひひと笑うむさえ。みさえは小さくため息をついた。
みさえ「まぁいいわよ。居酒屋はまだ?」
むさえ「確かこの辺だったはずだけど…あっ」
むさえ「あったあった!」
あれだよ、とむさえが指を差す先に、居酒屋の看板と思われるものが立っているのが見えた。
みさえ「あそこね!」
みさえは、急いでそこに向かう。そこには確かに、小さな居酒屋の隣に古びた食堂が建てられていた。どちらも店内は真っ暗で、営業している様子はなかった
みさえ「ここだわ…むさえ、ありがと!」
むさえ「いいから!それより早く義兄さん探さないと!」
そうね!と、みさえは慌てて店の向かいを流れる川を見下ろした。
みさえ「どこに…」
ひろしは、川から上がれないと言った。なら、まだきっとこの下だ。まさか、もしかしたら、
流されてしまったのでは…
みさえ「…………!」
みさえは、下流方向に駆け出した。
むさえ「姉ちゃん!」
みさえ「むさえも探して!まだきっと、川にいるはずだから」
むさえ「ちょっと、姉ちゃん!?」
むさえが、みさえの腕を掴む。
むさえ「あのさ、やっぱり警察に連絡した方がいいんじゃないの?」
みさえ「警察…?」
むさえ「そうだよ。義兄さんに、もしものことがあったらさ…」
もしも
みさえの心臓が跳ねた。突然、嫌な予感が脳裏を過ぎる。そうだ、何で今さらになって…
みさえ「もしもって……」
むさえ「え?」
みさえ「もしもって何よ!」
みさえはむさえをキッと睨むと、腕を振り払った。そして、また、川沿いを走り出す。
むさえ「姉ちゃん!待ってって!」
みさえ「いいから!アンタも探しなさい!」
そうだ、何で今更、こんな不安が込み上げてくるのだろう。おかしい、だって、そうだ。あの時におかしいと気づくべきだったのだ。あの電話がかかってきたときに。
川に落ちた
土手が登れない
そんな状況を聞いて、何故、完全に無事であると確実してしまったのだろう。
みさえ「どうしよう…!」
嫌な汗が、全身から溢れ出した。
みさえ「はぁ…はぁ……!」
結構な距離を走ってきた。暫く走りつづけたみさえは息を切らし、足を止めた。後ろからむさえが追い掛けてくる。
むさえ「ちょっと…姉ちゃん速いって……!」
ぜぇぜぇと息を吐き、前屈みになるむさえ。みさえは川を覗き、辺りを見渡す。
みさえ「あなた…、何処よ……っ」
ふと、少し先の川端に目を向けた。すると
みさえ「あ!!」
むさえ「んえ!?」
みさえは、目を見開いた
みさえ「いた…!!」
むさえ「うそ!」
慌ててむさえも、みさえの視線の先に目をやる。そこには
むさえ「義兄さん!」
狭い川原で座り込んでいるひろしの姿があった。『もしも』の事態をを考えていたむさえは、よかったと胸を撫で下ろした。
みさえ「あなた!!」
二人は慌てて、川に降りて行った。
なんとか川へ向かえる場所を見付け、急いで降りて行ったみさえは、直ぐさまひろしの傍に駆け寄った。
みさえ「あなた!」
むさえ「義兄さん見っけ!」
みさえ「まったく…何してるのよ!心配かけて!!」
むさえ「そうだよ、………?」
みさえは、ひろしの肩に手を置いて、体をゆする。頭が力無く、ガクガクと揺れた。そんな姿に、むさえは違和感を感じた。
むさえ「義兄さん?」
何か、様子がおかしい。こんなに傍で叫んでいるのに、呼んでいるのに、まったく反応しないなんて。ガクガクと揺れるひろしの頭を見た。そこに
むさえ「…………!姉ちゃん、ストップ!!血が…血が……!」
みさえ「…………え?」
みさえが顔を上げると、まるで顔の輪郭をなぞるように、頭部から流れ、赤黒く固まった血が見えた。
みさえ「え…?え…………?これ……って……?」
むさえ「姉ちゃんどいて!!!」
むさえはみさえを押しのけ、ひろしの首筋に手を触れる。
みさえ「……、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!!」
みさえは体が震え出していた。頭が混乱している。息が苦しい。心拍数が上がる。心臓の音が煩い。震える拳を握りしめ、そのまま胸にあてる。
むさえ「嘘………」
か細く、むさえが呟いた。
声が震える。
むさえ「脈………ない………」
みさえ「…………は」
むさえ「う、嘘だ!!!」
むさえは慌てて、もう一度首筋に手を宛がう。しかし、脈はない。手首も、どこも、脈が動いていなかった。
むさえ「………!き、救急車…救急車!!!!姉ちゃん、携帯!!貸して、早く!!」
むさえは慌ててみさえに携帯を要求した。早く、早く救急車を、早く何とかしないと
みさえ「………?」
むさえ「姉ちゃん!!!!」
みさえ「………」
だが、
みさえは、ぼんやりとひろしの顔を見つめていた。
むさえ「ちょっと姉ちゃん!どうしたの、何してんの!!」
みさえ「……」
むさえ「早く救急車呼ばなきゃ…もしかしたら、あたしの間違いかもしれないし…シロだって動かないし……!!ちょっと、ねぇ、早く!!」
みさえ「………」
むさえ「ああ、もう!!!貸してってば!!!!」
むさえは、頭を掻きむしった。そして全く反応のないみさえのポケットから、携帯を無理矢理取り上げた。
むさえ「救急車…救急車…!!」
みさえ「あなた………?」
そんな中、みさえは、ひろしの手を握りしめて、口を開いた。
みさえ「…もう、こんなとこで寝たら風邪引くわよ?」
むさえ「………え?」
みさえ「ほら、うちに帰りましょ、しんのすけとひまが待ってるわ」
みさえ「シロも、勝手に逃げちゃダメでしょ?ほら、帰るわよ、二人と立って?」
みさえは、動かないひろしの腕を引っ張り、なんとか立たせようとした。しかし、ひろしが立ち上がる気配はない。
みさえ「もう、酔っ払ってるの?だから飲み過ぎないでって言ったじゃない」
むさえ「ちょ、姉ちゃん落ち着いて!何してんの!」
むさえが携帯から耳を離し、慌ててみさえの腕を掴んだ。
みさえ「ほら、むさえからも何か言ってやってよ!」
むさえ「姉ちゃん?ちょっと、しっかりしてよ!」
むさえ「今姉ちゃんがおかしくなってどうすんの!目ぇ覚ましてよ!!」
みさえ「ほら、むさえも目を覚ませって」
むさえ「姉ちゃんに言ったんだよ!!!!!」
むさえが必死に呼び掛けるも、みさえは、どこか壊れたように、ひろしに話し掛けていた。
むさえ「姉ちゃん…?」
『………し?もしもし!?』
むさえは、ハッとして自分の手の中を見た。携帯で119番に連絡をしていたことを忘れていた。慌てて携帯を耳をあてる。
むさえ「すみません!救急車…救急車お願いします!!義兄が倒れているんです!」
むさえは必死に助けを呼ぶ。しかし、みさえはその間も、ぼんやりとした表情で、ひろしに話をしていた。
その後、救急車が到着した。
道が狭く、車が入れないからと、担架が用意され、ひろしは運ばれていった。むさえとみさえが救急車に同行し、共に病院へと向かう。むさえは救急隊員に頼み、冷たく動かないシロも、一緒に連れていった。
病院に着き、二人は暫く、病院内で待機させられた。むさえが頭を抱える。
むさえ「義兄さん…義兄さん…!」
最悪の事態だった。体が小刻みに震える。もしも、怪我でもしていたら、もしも、動けないような場所にいたら、なんて不安を抱えていたむさえだったが、結果は、そんな予想よりも何倍も、悪いものとなった。
みさえは、俯いたまま、ブツブツと何かを呟いていた。
むさえ(…姉ちゃん………)
むさえは、手を組み、必死に願った。どうか、どうか勘違いでありますように。全て、自分の勝手な判断であったと、そう、思わせてほしい。どうか
そして、二人の前に、医師が現れた。おもむろに立ち上がるむさえ。しかし、
むさえ「………」
深々頭を下げる医師の姿を見て、結果は安易に想像がついた。むさえは、力無く床にへたれこんだ。
死因は、脳挫傷だった。頭部には岩か何かをぶつけた傷が残っていた。他は体温の低下。また、体中に犬に噛まれた傷があった。死亡推定時刻は、ひろしがみさえと最後の電話をし終えた直後あたりらしい。
むさえは、体の震えを堪え、医師の話を静かに聞いていた。みさえは俯いたまま、何も言わない。聞いているのか、聞こえていないのかすら、わからない。
むさえ「これは…事故、なんですか……?」
医師「詳しいことはまだ分かりませんが、恐らくそうかと思われます…そちらのワンちゃんの身体も検査いたしましたが、同じように他の犬の歯形が多く残っていました」
むさえ「…………」
医師は、事件性等は、現場の状況を見てから調べられるだろうと言っていた。
むさえは、みさえから聞いた話と、ひろしの行動をイメージして重ねてみた。シロの脱走。ひろしからの連絡、体中に残った犬に噛まれた傷痕…
もしや、野良犬の仕業だろうか…
この辺りは、凶暴化した野良犬がよく目撃されていた。シロの首輪は、鎖が途中で千切れてしまっていたらしい。そこから家の外に出た後、何らかの形で、シロは野良犬に襲われたのだろう。ひろしは、きっとその現場を目撃したのだろう。
そして、シロを守ろうと必死になって…………
むさえ(ただの憶測だけど…あの人なら十二分に有り得る…)
犬だって、大事な家族の一員だと、自慢げに笑っていたひろしの顔が浮かんだ。途端に、涙が込み上げてくる。むさえは、声を殺して、泣き出した。
すると、座っていたみさえが突然立ち上がり、口を開いた。
みさえ「主人は何処ですか?」
むさえは、みさえの顔を見上げた。目から光は消えうせ、無表情で虚空を見つめていた。
医師は、少したじろいで、すみませんと、二人を部屋に連れていった。
とある病室。そこには、よくドラマで見るような光景が広がっていた。
真っ白い布を顔に被せられ、ベッドに横たわる人。むさえは、みさえの背中を押しながら、ゆっくりとそれに近づいた。
むさえは、そっと顔の布を取った。むさえは、この布の下が、違う人のものであればいいのに、と考えてしまった。しかし、
布の下から現れたのは、眠るように目を閉じた、野原ひろしの顔だった。
むさえ「あ……ああ……」
むさえは、また泣き出してしまった。どうしても、涙を堪えるなんて出来なかった。
嘘だと、言ってよ。義兄さん。これは、嘘だと。姉ちゃんが泣き出したら、きっと何処かから『ドッキリ大成功!!』なんて、笑いながら出てきてくれるんでしょ?笑えないよ、こんなドッキリ。笑えないから。早く、早く出てきて、戻ってきてよ…義兄さん…
しかし、みさえは
ひろしに近づき腕を掴んで。満面の笑みでひろしに笑いかけた。
みさえ「じゃあ、帰りましょうか?あなた」
むさえも、まわりの看護婦達も皆、唖然としていた。
むさえ「姉ちゃん、何、言って」
みさえ「だって、明日も会社だし、あんまり帰るのが遅いと朝起きれないでしょ?」
むさえ「でしょ?じゃないよ!!状況分かってんの!!?」
みさえ「まぁいいから、ほらむさえ、この人起こすの手伝ってちょうだい。一緒にお酒飲むんでしょ?」
よいしょと、ひろしを抱き起こそうとするみさえを、慌てて止める看護婦達。
すると、穏やかな表情でひろしに話し掛けていたみさえの様子が一変した。鬼のような形相で看護婦に押さえ付けられたまま暴れ狂っていた。
看護婦「ちょ…ちょっと、落ち着いてください!!」
みさえ「何すんのよ!!!!一緒に帰るのよ!!!!!!」
看護婦「それは、まだ出来ません!!」
みさえ「何でよ!!!家族なのよ!!!!一緒に家に帰って、何が悪いのよ!!!!!!!」
看護婦「とりあえず、落ち着いて…!一度離れてください!」
みさえ「いやあああぁ離してええ!!!離しなさいよ!!」
むさえは、後退りをした。放心状態から突然の豹変。髪を振り乱し、喚くみさえの姿に、むさえは恐怖を覚えた。
みさえ「あなた!!あなたぁぁぁぁぁあああ!!!」
むさえ「や、やめなよ、姉ちゃん…」
みさえ「いやあああぁ何で、何でこんなとこにいるのよ!!ふざけないでよ!!」
むさえ「姉ちゃん…」
みさえ「帰るの!!!早く帰らないと、まだ、この人夕飯も食べていないんだから!!」
むさえ「…」
みさえ「寝てないで、早く起きてよ!!!起きなさいよ!!!ねえ!!!!!!」
むさえ「やめろってば!!!」
パァン!!
むさえは、みさえを一括し、平手打ちを食らわせた。大人しくなったみさえは、驚愕の表情でむさえを見つめ、座り込む。看護婦達は、恐る恐るみさえから手を離した。
みさえ「…何で、何……何でよ…」
むさえ「姉ちゃん…っ」
むさえ「姉ちゃん…もう、分かってるでしょ…?」
むさえは、みさえの肩を掴み、真っすぐ目を見た。みさえは、ぼうっとした表情でむさえを見る。瞳が微かに揺らいだ。むさえの声が震える。
むさえ「…あたしだって…信じらんないよ、嘘みたいにしか思えないよ、こんなの、嘘だって…!!」
そうだ、こんなの嘘だ。夢だ。馬鹿な夢だ。夢であってほしいと、けど、
むさえ「でも……!」
こんな現状突き付けられたら。もう、信じるしか、なかった。
むさえ「義兄さんは……もう…」
みさえ「…何で…………?」
むさえ「………」
みさえ「むさえまで、あたしにそんなこと言うの……?」
みさえは、涙を流していた。泣きながら、むさえを睨みつけた。
みさえ「さっきまで、あたし、普通に電話してたのよ?あの人だって、普通に話して。今日の朝だって、いつもみたいに起きて、ご飯食べて、会社に行ったのよ?何にも変わったことなんてなかったのよ!?」
みさえの目からは、とめどなく涙が溢れる。
みさえ「しんのすけにおはようって、ひまにも、あたしにも普通に、おはようって言ってたのよ!?会社にだって、連絡したし、あたし、あたしは!!」
叫びながら、みさえは頭を掻きむしった。とても強い力で、血が出そうなほど。
むさえ「姉ちゃん!!駄目!!」
あわててみさえの腕を掴み、止めさせる。そしてむさえはそのまま、みさえを抱きしめた。
むさえ「姉ちゃん………」
みさえ「嘘よ………嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ…」
むさえ「………姉ちゃん………」
みさえ「……嘘って言ってよ」
むさえは、ぐっと唇を噛み締め。そして、呟く。
むさえ「嘘じゃないんだよ……」
その途端
みさえ「うわあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ!」
むさえ「いだっ!!!!!」
突然の激しい痛み。
みさえがむさえの腕に噛み付いてきた。
むさえ「痛い!!!姉ちゃん、痛いって!!」
必死にみさえを離そうとするむさえ。しかし、なかなか離れようとしないみさえ。みさえは、泣きながらむさえに噛みつき続ける。まるで、怒りをぶつけるように、騙すなと、言うように。
むさえ「…っ姉ちゃん!!!」
むさえは、痛みを堪えてみさえを呼んだ。
むさえ「逃げないでよ……姉ちゃん!!」
すると、みさえはゆっくりと、むさえの腕から口を離した。
虚ろな目から涙が溢れ、視線はぼんやりと何処か遠くを向いている。
みさえ「……帰らなきゃ」
ぼそりと呟く。拳を握り締める。
みさえ「ねぇ、あなた…帰らないと…しんのすけだって…ひまだって…待ってるのよ……?ねぇ…」
むさえ「だから、姉ちゃん…!」
みさえ「帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ」
さらに固く握られる拳。爪が手の平に食い込む。
みさえ「大丈夫、あなた、まだ、生きてるもの、ねぇ、寝てる、だけ、で、ねぇ」
みさえの口元は、薄く微笑んでいた。ああ
壊れてしまった
むさえは、そう思った。噛まれた腕が、酷く痛んだ。
病院の外に出たむさえは、みさえの携帯から、銀の介の番号を探し、電話をかけた。
プルルル…プルルル…
ガチャッ
銀の介『もしもし?みさえさんか?』
むさえ「あ、あたし。むさえだけど…」
銀の介『あれ?みさえさんの番号だったような気が…』
むさえ「今、姉ちゃんの携帯借りてるんだ」
銀の介『そうかそうか、久しぶりじゃのう!元気~?』
むさえ「…」
銀の介は相変わらず、明るい陽気な声だった。しかし、笑い返すことは出来なかった。
むさえ「あのね、銀ちゃん。落ち着いて聞いてほしいんだ。」
銀の介『ん?どうしたんじゃ?』
むさえ「………義兄さんが…」
むさえは、今までの出来事を銀の介に話した。シロを探しに行って川に落ちたこと。事故か事件かまだ分からないが、犬に襲われた傷があったこと。帰らぬ人となってしまったこと。そして、みさえのこと。むさえは説明の途中から、声が震えてしまった。電話の向こうから、銀の介の声は聞こえなくなった。
暫く沈黙が続いた後、銀の介が口を開いた。
銀の介「今すぐ行く。病院の名前教えてくれ」
自分の震える声とは正反対の、強い、はっきりとした声だった。むさえは、病院の名前と位置を軽く説明をすると銀の介は「わかった」とだけ言い、電話を切った。
むさえは暫くの間、外で空を見上げながら考え込んだ。これから、どうしたらいいのだろう。ひろしはもういない。しかし、みさえはその事実を受け入れまいとして、精神崩壊寸前にまで陥っている。
正直、今の状態のみさえを、病院内に置いておきたくはない。しかし、こんな事態なのに、この場を離れていいのだろうか。銀の介にも、ちゃんと会って話しをしなければならない。
どうすれば、
ひろしの死と、壊れたみさえ。
どうすれば、
思いつく考えはどれも中途半端なものばかりで。むさえは、膝を抱えてしゃがみ込んだ。
むさえ「わかんないよ……!」
普段使わない頭をフル回転させているせいか、頭が痛くなってきた。
そんなとき、脳裏にふっ、と
しんのすけの姿が過ぎった。
むさえ「……そうだよ…しんのすけ…………ひまわり……!」
あの二人にもちゃんと話さないと…今、一番伝えなくてはいけない家族に。
むさえ「………姉ちゃん家行かなきゃ……」
一度、野原家に帰って話しをしないと。家に帰るということは、病院から離れる、というこだ。そう遠くはないとは言えど、みさえを一人で帰らせるのは不安でたまらない。かといって自分が家に向かって、病院にみさえを一人置いていくのも心配だ。二人とも病院から離れるのも心許ない。
銀の介が到着するまで待つべきか。いや、たとえすぐ来るといっても、時間はかかる。きっとこちらにつくのは夜が明けてしまってからだろう。
夜が明けてからでは、しんのすけ達が起き出してしまう。家に両親の姿が無ければ、あの子達に心配をかけてしまう。
むさえ「…………………」
今すぐ二人で家に帰って、あの子もここへ連れて来よう。
むさえは大きくため息をつき、病院内に戻った。
廊下の先にあるベンチに、みさえは顔を伏せて座っていた。ぶつぶつと呟く声が聞こえた。その隣に腰を降ろし、むさえは大きく息を吐いた。
むさえ「姉ちゃん」
みさえは顔を上げない。しかし、こちらの声はちゃんと聞こえているようだった。むさえは壁にもたれて天井を見て、呟いた。
むさえ「家……帰ろうか………」
みさえは少し、顔を上げた。
むさえ「しんのすけたち、置き去りにしたら可哀相でしょ。だからちゃんと…」
みさえ「あの人…」
むさえ「ん?」
みさえ「あの人も一緒に帰らなきゃ…あたしだけじゃ帰れない…」
むさえ「姉ちゃん、あのね…」
みさえ「帰れない…帰らない帰らない帰れない帰らない帰れない帰らない帰らない」
むさえ「…」
むさえは膝の上で拳を握る。これだけは、これだけはしたくなかった。けど、もう
むさえ(義兄さん、ごめんなさい…)
むさえ「姉ちゃん、あのね」
みさえ「あの人は元気なの、大丈夫なのよ、大丈夫、だから、一緒に」
むさえ「まだ一緒には帰れないの」
みさえ「だから!!」
むさえ「義兄さんは!」
みさえの肩に手をかけ、こちらを向かせる。
むさえ「……に、っ……」
声が詰まる。こんなこと言えない。言ってはいけない。自分がこんなこと、決めていいわけか、していいわけがない。けど、
今は、
今のみさえには
こうするしかないのだ
むさえ(ごめんね…義兄さん。あたし馬鹿だから、こんなことしか思いつかなかった…結局はあたし、姉ちゃんが大事なんだね…ごめん、ごめんね…)
むさえ「義兄さんは、大丈夫だから…」
むさえは
むさえ「ちょっと…具合悪くて、今日は帰れないだけだから…」
ひろしの死を、隠蔽した
みさえ「具合…?」
むさえ「そ、そう!今まであんな場所にいたんだもん、そりゃ具合悪くなっちゃうって!だからちょっとここに入院して…いや、入院というか、えと、その…何というか…」
みさえ「具合が悪いだけ…?」
むさえ「そ、そうだよ、うん」
みさえ「入院………」
みさえは、突然立ち上がった。
むさえ「姉ちゃん?」
みさえ「じゃあ、必要なもの取りに行かないといけないわね!」
みさえの表情は、先程の虚ろな様子は無くなって、いつものみさえに戻っていた。
むさえ「姉ちゃん…」
みさえ「急いで帰らないと。もうこんな時間だし、朝ご飯も作らなきゃ」
むさえ「えと…」
みさえ「むさえも気をつけて帰りなさいよ。付き合ってくれてありがとうね」
むさえ「え、あ、あたしも行くよ!姉ちゃん家まで!」
みさえ「え?そう?」
むさえ「う…うん!」
むさえは、元に戻ったみさえの姿に、とてつもない罪悪感に襲われた。
最低なことをした。みさえを騙し、ひろしの死を否定した。こんなこと、してはいけない。分かっているのに。
いそいそ帰ろうとするみさえの背中を見て、胸が痛む。
むさえ「やっぱり…あたしは馬鹿だ…」
こんな嘘、隠し通せるわけがないのに。
偽りが暴かれたとき、みさえはどうなってしまうのだろう。また壊れてしまうのか。今よりも、もっと。立ち直れないほどに。
むさえ「…銀ちゃんに謝らなきゃ…」
あたしは、最低だ。
むさえは、医師達に事情を話し、病院を後にした。
むさえ「すみません…暫くしたら、戻ります」
家に着いた時には、もう日が昇っていた。
ガチャ
みさえ「ただいまー…あれ?」
むさえ「どうしたの?」
家に入り、前を見るとそこには、廊下で眠るしんのすけの姿があった。
むさえ「しんのすけ!?」
しんのすけ「ん~~…?」
しんのすけが目を擦りながら起き上がった。眠そうに瞬きをしながらこちらを見る。
しんのすけ「あれ?むさえちゃん?どしたの?」
むさえ「いや、あんたこそ何でそんなとこで寝てんの?風邪引くでしょうが!」
しんのすけ「だって~かあちゃんもとうちゃんも帰ってこないんだも~ん」
むさえ「、え」
しんのすけ「あ、かあちゃんただいま~」
みさえ「それを言うならおかえり……」
いつもの切り返しの言葉が途中で途切れた。目を見開いて、立ち尽くすみさえ。
しんのすけ「かあちゃん?」
むさえ「どうしたの、姉ちゃん?」
みさえ「…………………っ!」
激しい目眩に襲われ、ふらつくみさえ。頭を押さえて座り込んでしまった。
しんのすけ「わぁあ!かあちゃんどうしたの!?」
むさえ「だ、大丈夫?」
みさえ「う……うぅ……っ!」
しんのすけの姿を見た途端、みさえの頭の中にある光景が流れ込んできた。
シロを抱え、冷たくなったひろし。
医者の声、むさえの声。
病院で横たわるひろし。
自分を制止する看護婦。
動かない、ひろしの姿。
みさえ「何………なによこれ……!!」
頭が痛い、吐き気がする。何かが一斉に自分に流れ込んでくる。
しんのすけ「かあちゃん?」
みさえの元に駆け寄り、手を伸ばすしんのすけ。すると
みさえ「触らないで!!!!」
しんのすけ「!?」
むさえ「!!」
一喝するみさえ。思わずしんのすけは、手を引っ込める。
みさえ「なによこれ……!なによこれぇえ………!」
むさえ「姉ちゃん落ち着いて、姉ちゃん!!」
みさえ「消えろ!消えろ消えろ!」
しんのすけ「かあちゃん…?」
自分の頭を殴るみさえ。突然のみさえの豹変に、しんのすけは戸惑った。
むさえ「し、しんのすけ!」
しんのすけ「え、なに?」
むさえ「ごめん、ちょっと向こう行っててくれない…?」
しんのすけ「え…で、でも、オラ」
むさえ「ちょっとでいいから、ね!?」
しんのすけ「…わかったゾ」
こちらの様子を心配そうに伺いながら、しんのすけは奥の部屋に戻った。
むさえは、みさえを抱きしめる。背中を軽く叩き、呼吸を整えさせる。
むさえ「大丈夫、大丈夫だから、姉ちゃん、大丈夫」
段々と落ち着いていくみさえ。額に汗が滲んでいる。
みさえ「あ…あたし…一体」
むさえ「姉ちゃん、大丈夫?」
みさえ「……むさえ……」
むさえ「ん?」
みさえ「………大丈夫なのよね、あの人、大丈夫よね……」
むさえ「……」
みさえ「きっと今のも、あたしの間違いよね、そうよ、大丈夫よ、ねぇむさえ」
むさえ「うん………」
むさえは、また隠してしまった。伝えなくてはいけない事実。
むさえ「大丈夫だよ、姉ちゃん」
けど、今はまだ言えないんだ。
むさえ「しんのすけ~」
むさえは、寝室に向かいしんのすけを呼んだ。もう一度眠っていたのか、また目を擦りながらトコトコとしんのすけが出てきた。
しんのすけ「むさえちゃん?まだいんの?」
むさえ「まだいんの、ってあんたね…」
しんのすけ「ねぇ、かあちゃんは?さっき変だったゾ。どうしたの?」
むさえ「…姉ちゃん、ちょっと疲れてんだよ。昨日全然寝てなかったの」
あの後、みさえは気絶するように眠ってしまったのだ。むさえは、かつて自分が生活していた二階の部屋にみさえを運んだ。
しんのすけ「ふ~ん…ねぇむさえちゃん」
むさえ「ん?どうした?」
しんのすけ「とうちゃん知らない?」
むさえ「……あ」
黙り込むむさえ。
沈黙の後、むさえはしゃがみ込み、しんのすけに目線を合わせた。まだ眠そうな目でこちらを見る。
むさえ「あ、あのな、しんのすけ…」
じっとしんのすけを見つめる。
伝えなきゃ。せめてこの子には、真実を。本当のことを
むさえ「…、あ…、」
しかし、声が、言葉が出ない。さっきのように、言葉が喉につっかえるような感覚。
駄目だ、言うんだ、言わなきゃ、言え、言え、言え!!
しんのすけ「むさえちゃん?どしたの?」
きょとんと首を傾げるしんのすけ。むさえは、そっとしんのすけの頭を撫でた。
むさえ「…義兄さん……」
伝えるって、決めたのに。
しんのすけ「…………?」
伝えなきゃ、いけないはずだったのに。
むさえ「わかんないや、ごめん」
伝えては、いけないような気がしたんだ。
しんのすけ「………?さっきから二人とも何か変だゾ」
むさえ「そ、そう?あぁ、あれだ。あたしも疲れてんだよ、うん!」
しんのすけ「かあちゃん、昨日どこ行ってたの?」
むさえ「え!?あ、あの、あああれだよ、あたしの家にいたんだよ。義兄さんが帰ってこないって話で…ちょっと…ね」
しんのすけ「ふ~ん…」
少し不満そうに俯くしんのすけ。
むさえ(な、何であたし…また…)
隠してしまった。また。しかもこんな無理矢理な嘘、流石にバレてしまっただろうか。
むさえ「し、しんのすけ…」
しんのすけ「んもう、とうちゃん、また残業でもしてるのかな~仕事遅いからな~とうちゃんは」
やれやれだゾ、とため息をつくしんのすけ。
むさえ(バレてない…のかな…)
しんのすけ「むさえちゃん、オラお腹すいたゾ~」
むさえ「え?あ、ああ、そっかもう朝か!……って、幼稚園…行かなきゃか?」
しんのすけ「ほうほ~う、幼稚園に行くの?大変ですな~もう大人なのに」
むさえ「いやアンタの話だから!!…てかしんのすけ…行く?幼稚園…」
しんのすけ「え?駄目?」
むさえ「え?え…………えと」
しんのすけ「………」
むさえ「…まあいいよ、行きな」
しんのすけ「じゃあお弁当ちょうだい」
むさえ「は?あ、そっかお弁当……」
しんのすけ「あとまだ朝ごはん食べてないし」
むさえ「ああもう分かったから!あたしが用意しとくから、アンタは着替えて来ちゃいな!」
しんのすけ「ほっほ~い」
しんのすけが着替えている間にむさえは、戸棚からカップ麺を見つけ、お湯を注いだ。
むさえ「弁当って、どうすりゃいいんだろう………」
う~んと悩みながら、ふと、残りのカップ麺に目を向ける。
むさえ「…いやいやいやいや、流石に幼稚園生の弁当にカップ麺はまずいか」
仕方なく冷蔵庫の中を確認して、使えそうなものを探してみた。
むさえ「もう冷凍食品詰めればいいか」
しんのすけ「オラハンバーグ食べた~い」
むさえ「え」
振り向くと、パンツ一丁になったしんのすけがこちらを見ていた。
むさえ「ハンバーグって、アンタね」
しんのすけ「…なんかむさえちゃんが、オラの弁当作ってるって変な光景だゾ」
むさえ「いいから早く着替えろ!」
とりあえず、冷凍食品をいくつか詰めた簡単な弁当を作った。
むさえ「ほらしんのすけ、ご飯食べちゃいな」
しんのすけ「朝からカップ麺とか、むさえちゃんらしいゾ…」
むさえ「う、うるさいな!」
しんのすけ「しかものびてる…」
むさえ「それはアンタが着替えんの遅いからでしょ!いいから早く食べな!」
しんのすけは間延びした返事をして、のそのそとカップ麺を食べはじめた。
むさえ「……はぁ」
むさえは小さくため息を着いた。その時、寝室でひまわりがぐずりだした。
むさえ「うわ、やっば!」
むさえは、慌てて寝室向かった。
ひまわり「びぇええええ!うえええぇん!」
むさえ「お~よしよし、泣くな泣くな!」
ひまわりを抱き抱えてあやすものの、一向に泣き止まない。
むさえ「何だオムツか?いや、ミルクかな…」
と、その時、家の外でバスのエンジン音が聞こえた。
むさえ「うっそ!!もうバス来たの!!?しんのすけ!バス来たぞ!」
しかし、台所にしんのすけの姿はなかった。
むさえ「ちょっとどこ行ったの、しんのすけ!?」
しんのすけ「なに~?」
トイレの中からしんのすけの声がした。
むさえ「何してんの!早く出なって!!」
しんのすけ「もうちょっと~」
バスのクラクションが聞こえる。泣き止まないひまわり。トイレに篭るしんのすけ。
むさえ「あ~もう!!」
むさえにとって、久しぶりに忙しい朝になった。
むさえ「あぁ…ギリ間に合った…」
しんのすけを何とか送り出し、ひまわりのミルクを作ってやる。
むさえ「ミルクなんて作るのいつぶりだよ~温度は人肌だっけ…」
ひまわり「ゔ、あうええ、うぅ…」
相変わらずぐずりつづけているひまわり。ミルクを作る素振りをみせたら、少し大人しくなった。
むさえ「よし、できた!ほれ、ひまわり~ミルクだよ~」
程よい温度になったミルクを、ひまわりに飲ませる。嬉しそうに哺乳瓶を掴み、飲むひまわり。しかし。
ひまわり「ゔぇえ…」
むさえ「な、何だよその顔は…」
一口飲んだ途端、渋い顔になった。
むさえ「なによ~美味しくないの?」
ひまわり「たたやゆ!!やい!」
まるで「まずい!」と文句を言っているようだった。うぅ、とたじろぐむさえ。
むさえ「何が悪いんだろ…コツとかあんのかな…」
一度、流し台にミルクを開けてみた。すると、まだ溶けていない粉ミルクが、半固形状で出てきた。
むさえ「うわぁ!あたし粉入れすぎたのか!!ごめんよひま~」
ひまわりは文句ありげに、ぶぅと頬を膨らまし、むさえを睨みつけていた。
むさえ「0歳児がなんちゅう顔してんだよ…」
むさえは再びミルクを作り直した。今度は、ひまわりも普通に飲んでくれた。
むさえ「よかった…美味しいか?ひま」
無言で飲みつづけるひまわり。うまい、と態度で表しているようで、思わず笑ってしまった。
むさえ「毎日こんな奴らの相手して…大変だなぁ姉ちゃんは」
朝の騒々しさのせいで頭から抜けていたが、むさえは結局、しんのすけにまで嘘をついてしまった。
むさえ「ひまに言っても、わかんないだろうしな…」
ひまわり「たや?」
ミルクを飲み終えたひまわりが不思議そうな顔をしてこちらを見る。
むさえ「…いや…ひまでも、ちゃんと分かるよね」
暫くの間、ぼんやりしていると、むさえのポケットに入っていたみさえの携帯が鳴った。
むさえ「あ、やば、姉ちゃんに返すの忘れてた!」
携帯の着信画面を見ると、そこには
『野原銀の介』
の名前が。
むさえ「………!やっば……!」
携帯を返すことよりも、もっと大切なことを忘れていた。慌てて電話に出る。
むさえ「も、もしもし!!」
銀の介『ああ、むさえちゃんか?』
普段の銀の介の話し方よりも、少し静かな声。
むさえ「あぁ、銀ちゃん」
銀の介『オラ達、今病院なんじゃ。むさえちゃん達は何処かの?』
むさえ「えっと…家、なんだけど……ごめんね、銀ちゃん。病院に居なくて…あの、」
銀の介『大丈夫じゃよ。今からそっちに行くから待ってての』
そう言って銀の介は電話を切った。
むさえ「…こっちに来るって、歩いて?…にしても、銀ちゃん着くの早いな…」
かなり急いで来たんだろうな…。オラ達ってことは、お婆さんも一緒か。当たり前か…。
むさえ「…」
先程の銀の介の口調は、静かな声ではあれども、とても穏やかであった。
むさえ「…あんなことして……何て説明したらいいんだよ…」
ひろしの死を隠したこと。ちゃんと銀の介にも話さなければいけない、謝らなければいけない。怒られても、殴られてもきっと、当然だろう。もしも自分が逆の立場であれば、死を否定した相手を許しなどはしない。
むさえ「………う」
それでも、やはり、怖い。みさえとしんのすけに嘘をついたとき、自分はどこか、あの陽気な銀の介の優しさに甘えていたのだろう。きっと、銀の介なら許してくれるかもしれない。もしかしたら、逆に笑うかもしれない。そんな感情を、無意識に抱いていたのだ。
むさえ「ごめんね……ごめんね、義兄さん……銀ちゃん……」
ひまわり「………たゆ?」
むさえは、ひまわりを強く抱きしめ、目を瞑った。
どうしようもないくらいの後悔に襲われて、胸がはち切れてしまいそうだった。
ひまわり「んやぅ、あう~!」
ひまわりは少し苦しそうにして、腕の中から抜け出そうとした。
むさえ「あっと、ごめんごめん!」
そっと手を離して降ろすと、ひまわりはハイハイをして部屋をウロウロし始めた。
むさえ「…姉ちゃん呼んで来るよ」
待っててね、とひまわりをその場に残して、むさえは二階の部屋に向かった。
むさえ「…姉ちゃん、起きてる?」
恐る恐る部屋のドアを開け、中を覗くと、そこには何かを用意しているみさえの姿があった。
みさえ「…むさえ?どうしたの?」
むさえ「え、いや、何してんの、姉ちゃん」
みさえ「見れば分かるでしょ」
みさえは、かばんの中にタオルや着替え、歯ブラシ、洗面用具等を詰め込んでいた。
むさえ「…用意って………」
みさえ「入院って言ったって、病院に何でもあるわけじゃないからね、ちゃんと用意しないといけないのよ」
むさえ「……」
これで、いいのかな。このままで…
むさえ「…あのさ、姉ちゃん。今銀ちゃ…銀の介さんこっちに来てるんだ。」
みさえ「え、そうなの?心配してきてくれたのかしら」
むさえ「今、ウチに向かってるらしいんだけど…」
と、その時、家の外で車の荒々しいブレーキ音が聞こえた。
むさえ「ぅえ!?」
すると、再び携帯に銀の介からの着信が入った。
銀の介『むさえちゃん、着いたぞ』
むさえ「え、あ、もしかして銀ちゃん車で?」
銀の介『レンタカーじゃレンタカー』
むさえ「ああ、そっか……うん」
銀の介『…とりあえず、みさえさんも連れてきてもらえんかの?』
むさえ「………うん、分かった。今行く、ちょっと待ってて」
むさえは、携帯を切りみさえに向き直った。
むさえ「姉ちゃん…銀の介さん外に来たらしいから…ちょっと行こっか」
みさえ「さっきの車、やっぱりお義父さんのだったんだ。病院に行くの?」
みさえはカバンを持って立ち上がり、お義父さんの運転苦手なのよねと呟きながら下へ降りて行った。
むさえ「ひまちゃん、パパのとこ行きましょうね」
みさえは、リビングからひまわりを連れて出て行った。その後に続いてむさえが外に出ると、家の前には車が一台止まっていた。中から銀の介が降りてくる。
銀の介「みさえさん、むさえちゃん…久しぶりじゃな。」
寂しそうな顔を見せる銀の介。ツルが車内からこちらを見て頭を下げる。酷く疲れた様子だ。
みさえ「わざわざ遠くから…すみません」
みさえも深々と頭を下げる。
銀の介「いや…オラ達も急いで来たから何も用意できんかった。すまんの」
みさえ「いえそんな、少し体調崩しただけですし、大丈夫ですよ!入院に必要なものは用意しましたし」
銀の介「…」
むさえ「ち、ちょっと姉ちゃん!」
慌てて、みさえに制止をかけようとするむさえ。しかしみさえは、そんなむさえを余所に、『ひろしは入院している』という事情を話しはじめた。銀の介は、黙ってそれを聞いていた。
むさえ「ね、姉ちゃん、ストップ、って、ねえ」
みさえ「あ、いけない!下着詰め忘れたみたい!」
みさえは、慌てて家の中に戻って行った。むさえはその場に銀の介と取り残された。どんな表情をしたらいいか分からなかった
すると、銀の介はむさえの元に寄ってきて、囁いた。
銀の介「………大変じゃったの。みさえさんも、むさえちゃんも」
むさえ「えっ……」
心臓が跳ね上がる。
むさえ「大変って…何で…」
銀の介「……実はオラ達、もうひろしに会ったんじゃよ」
むさえ「!!」
銀の介は、もうだいぶ前に埼玉につき、病院でひろしの姿を見たのだった。
銀の介「眠っとるようじゃったなぁ…あんなに小さくなって…」
親不孝な奴じゃ、と小さく笑った銀の介。さっきまで泣いていたのか。目が赤くなっているのに気がついた。
むさえ「……銀ちゃん、あの…あたし、」
銀の介「…分かっとるよ…」
むさえ「え…、?」
銀の介「先生から全部聞いたぞ…病院のみさえさんの話も」
むさえは、愕然とした。まさか、もう、知っていたなんて。
銀の介「みさえさんも、あの様子じゃと…ひろしが死んだことに、気付いとらんの」
むさえ「……ごめん、銀ちゃん!」
頭を下げ、銀の介に謝罪をするむさえ。ギュッと目を瞑ると、涙がじわじわと目尻に貯まっていくのが分かった
むさえ「あたし、あたしが言ったんだ!!義兄さんは死んでないって…あんな姉ちゃん見てられなくて…最低なことしたってわかってる、義兄さんのこと、隠して…本当、あたし…最低な…」
むさえの目に溜まった涙が、地面に落ちた。罪悪感や、自分への怒りや、後悔や、いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、ただ、ひたすらに謝ることしか出来なかった。
むさえ「ごめん、ごめん…本当にごめんなさい…!」
そんなむさえの肩に手を乗せ、銀の介は、
銀の介「大丈夫じゃよ」
と、優しい声で呟いた。むさえが、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、銀の介は、ニカッといつもの笑顔を見せ付ける。
銀の介「人間は誰だっていつかは死ぬ。アイツは、それが少し早かっただけなんじゃ。」
むさえ「でも…、でもさ、あたしは…!」
銀の介「いつ死ぬかなんて、誰にも分からない。オラ達だって、みさえさんだって、ひろしにだって分からん。」
むさえ「…そんなこと…何で銀ちゃんは、そんな笑えんの…!?
自分の息子が死んだんだよ!?何で!!」
平然としている銀の介に、思わず声を荒げてしまった。ハッとして口を抑える。銀の介は、少し困った顔をした。
銀の介「…オラだって、勿論辛いぞ。まさか、残される側になんかなると思わんかったし、あんな姿だけじゃあ、まだ死んだなんて思いたくも無い…けどの」
困った顔のまま、へらへらとして見せる。
銀の介「親父のオラがいつまでもメソメソしてても、アイツは何にも喜ばんしの。」
それに、と呟いて家を眺める。
銀の介「きっとアイツも今頃、自分の家族を、心配しとるんじゃろう」
むさえ「銀ちゃんだって、家族じゃんか…」
銀の介「そうじゃの」
ワハハと笑う銀の介の声には、さっきまでの力強さはなかったが、どこかむさえを励ましているようにも聞こえた。
銀の介「それでも、やっぱり今はみさえさんが心配じゃのう」
やっぱり、辛いんじゃん。そりゃそうだよ。息子が死んだんだもん。悲しいに決まってる。
なのに、それでも、みさえの心配を最優先にしてくれるんだ。とことんこのじいさんは大馬鹿で、底抜けの、お人好しだ。
むさえ「なんでそんなに、姉ちゃんを気にかけてくれるんだよお…」
銀の介「当たり前じゃ!オラの息子が惚れた嫁さんじゃから!オラ達が、アイツの代わりに少しでも支えてやらんとアイツに申し訳ないべ!!」
笑い飛ばす銀の介。
むさえはやはり、どこかこの優しさを信じて、甘えていたのだろう。けれど、こんな人で良かったと、銀の介の存在に感謝した。
むさえ「ありがとう…銀ちゃん」
姉ちゃんは幸せ者だな…と、むさえは心の中で思った。すると、銀の介が途端に調子を変えて話し出した。
銀の介「それでの、むさえちゃん。これからのことで、オラからむさえちゃんに頼みがあるんじゃ…」
むさえ「あたしに…?」
銀の介「ああ…少し酷だと思うがの…」
そして、銀の介の口から思いもよらない言葉が出た。
銀の介「…ひろしが死んだことは、みさえさん達にはもう暫く隠しておいてくれんかの」
むさえ「!!!」
むさえ「え、な、何で…」
銀の介「ひろしの葬式は、オラ達の方で済ませたいと思う」
むさえ「銀ちゃん達のって…秋田で…?」
頷く銀の介。先程とは表情はがらりと代わり、険しい顔つきで話を続ける。
銀の介「オラ達も、悩んだんじゃ。さっきむさえちゃんも言っとったろ?これは、みさえさんに対しても、ひろしに対しても、いいことじゃあない…」
それでも、ひろしの死を否定しつづけたまま、葬式を済ませてしまおうと、銀の介は言うのだった。
むさえ「そんな…そりゃ、今の姉ちゃんはあんなだけど、でも…」
銀の介「今のみさえさんに供養されても、ひろしは成仏できんよ…」
むさえは、言葉を飲んだ。
むさえ「でも、姉ちゃん『達』ってことは、もしかして、しんのすけ達にも隠し通せってこと…?」
銀の介「そうじゃ」
ひまわりは、もう気付いてるかもしれんがの。と囁く銀の介。
むさえ「何で!?せめてしんのすけには伝えてあげるべきじゃないの?」
銀の介「しんのすけだけに真実を伝えて、アイツだけ背負わせるわけにはいかない…」
むさえ「でも、そんなの、あの子が一番可哀相だよ!」
銀の介「確かに、これはオラの勝手な望みじゃ。しんのすけには、全てを受け止めた、目を覚ましたみさえさんの口から真実を告げてほしい。きっと、それが出来なければ、みさえさんは、ひろしから離れることは出来ない」
むさえ「………」
銀の介「ゆっくりで構わん。時間をかけてでも、ひろしが愛したみさえさんに戻って欲しい…」
銀の介は、そう小さく呟き、しっかりとむさえに向き直した後、頭を深々と下げた。
銀の介「頼む、むさえちゃん…!この通り……!」
目の前で頭を下げる老人の姿に、むさえは戸惑った。
銀の介は、みさえとひろしと自分達、全てのためにと頭を下げる。しかし、しんのすけはどうなるんだ。
さっきは思わず嘘をついてしまったが、父親が何日も帰ってこなければ、しんのすけだって流石におかしいと思うはずだ。そうなったら、あの子はいつまで真実を知らないまま、父親の影を探しつづけるのだろう。嘘は、いつか暴かれるものだ。永遠に隠し通せるものではない。
しかし、銀の介の言い分も分かる。今のみさえでは、葬式どころではない。きっと、また、発狂の嵐だろう。
むさえ(しんのすけ…姉ちゃん…義兄さん)
むさえは、暫く悩んだ末、何かを決心したような表情になった。拳を握りしめ自分の胸を思い切り叩く。そして、大きく息を吐き、銀の介に向かって言った。
むさえ「………分かりました」
銀の介「むさえちゃん…」
むさえ「だから!だから顔を上げて!頼むからさ!」
目の前で頭を下げて懇願し続ける銀の介の姿に流石に耐え切れなくなったむさえは、ひろしの死を隠すことを承諾した。
その決断は、みさえを最優先にした結果であった。
むさえ「しんのすけには、かなり残酷なことをするけど…時が来たら、あたしがちゃんと謝るよ」
むさえは、心の中でしんのすけへの罪悪感を感じていた。軋むように、胸が痛んだ。
銀の介「ああ、オラも謝ろう」
むさえは、罪悪感の中でどこか自分が安心している様に感じた。自分も正直、まだ、しんのすけに本当のことを話す勇気がまだなかったのだ。
むさえ「でも…もし噂で流れてきた話が耳に入ったりしたらどうするの?義兄さんの会社の人達とか…」
銀の介「その話じゃが…ついさっきオラから連絡をしての、ひろしの知り合いだという人に頼み込んでおいたんじゃ。」
川口さんと言ったかのう、と少し首を傾げる。
むさえ「え…何て頼んだの?」
銀の介「ひろしのことは、最低限の人にしか話さないで欲しい、と伝えたんじゃが…」
むさえ「え……!?会社の人達にまで隠すの!?」
銀の介「………」
むさえ「…それこそ、義兄さんに酷なんじゃないの?」
銀の介「…川口さんにも同じことを言われたのぉ」
むさえ「えっ」
銀の介「けどの、事情を説明したら、川口さんは了承してくれた…『もし、先輩がここにいたとしても、そうしてくれって言うと思います…あの人は、そういう人ですから』っての」
受話器の向こうの声は、微かに震えていたという。
銀の介「確かに、ひろしなら言いそうじゃと思ったわい」
むさえ「銀ちゃん…」
銀の介「オラの勝手な妄想かもしれん。オラもきっと、まだ信じられないんじゃの」
むさえも、ふと思ってしまった。あの人は、普段だらしなくたって、こういうときは自分にマイナスな結果が出る方を選んででも、自分以外の人を、家族を守ろうとする。それが、ひろしだ。
むさえ「義兄さん…」
むさえは、心の中でひろしを思った。そして、銀の介を見た。
むさえ「分かった。分かったよ」
真っすぐな目で、真っすぐな声で、銀の介に返事をする。
むさえ「辛いけど…正しいことじゃないけど…今はこうしたほうがいいのかもしれないから」
銀の介「…ありがとな」
むさえちゃんがいてくれて良かったわい、と再びニカッと笑う銀の介。むさえは、先程の銀の介の言葉で核心を得た。
銀の介『オラもきっと、まだ信じられないんじゃの』
銀の介も、いっぱいいっぱいなのだ。きっと、悩みに悩んだに違いない。割り切っているようで、心の中では泣いているんだろう。当たり前だ。息子の死を隠すのだから。親として、辛い決断だっただろう。
けど、もしかしたら、自分達も心の整理をつける時間が欲しかったのかもしれない。
むさえ(あたしも…しっかりしなきゃな…!)
みさえ「お待たせしました」
銀の介「…みさえさん、少しいいかの?」
みさえ「?」
その後、銀の介は家の中から戻ってきたみさえからひろしの入院用の荷物を「オラが渡しておく」と、半ば強制的に受け取った。最初は、自分がちゃんと渡しに行く、とみさえも反抗し、なかなか引かなかったが、銀の介の説得に渋々不満げに従った。
車に乗り込んだ後、銀の介は車窓越しにむさえを手招きで呼んだ。
銀の介「むさえちゃん、頼んだぞ」
むさえの側で小さく呟いて、小さく笑う銀の介。
むさえ「うん……頑張ってみるよ」
その後、銀の介は荒々しい運転で野原家を後にした。
みさえ「あたし、やっぱりあの人少し苦手かも」
車を見送った後、みさえは苦笑混じりに吐き捨て、家の中に戻っていった。
むさえ「あ、姉ちゃん!」
むさえはみさえの後を追い、玄関口で足を止めた。
むさえ「姉ちゃん、大丈夫……?」
みさえ「大丈夫って、何が?」
むさえ「…ううん、何でもないや」
何食わぬ顔で聞き返すみさえに小さくため息をつく。
むさえ「じゃあ、あたし帰るね」
みさえ「え、もう帰るの?」
むさえ「うん、鍵かけないまま出てきちゃったし」
正直、以前のように再び野原家に居座ろうかとも考えていたが、それでは不自然だと思ったむさえは、近すぎず遠すぎない今まで通りの距離、アパートからみさえの様子を伺うことにした。側にいてやった方がいいのかもしれないのだが、何よりも、自分自信を整理する時間が欲しかった。
昨日の夜から今までで、色んなことが起こりすぎて、むさえもだいぶ混乱していた。銀の介が去ってから、疲労が一気に襲い掛かって来たようだった。
みさえ「アンタ、鍵もかけないで出てきたの?」
むさえ「え、えへへ…」
みさえ「相変わらず無用心なんだから…」
へらへらと笑って見せるむさえに、みさえは普段と何ら変わらない様子で軽く説教をした。むさえは、そんなみさえの姿に、逆に違和感と不安を覚えた。
むさえ「じゃあ、もし何かあったら連絡してね」
みさえ「余計な心配はいいから、早く戻りなさいよ」
むさえ「ははは…それじゃ」
みさえ「じゃあね」
お互いに小さく手を振り、むさえはようやく帰路についた。何日もあそこに居続けたかのような、そんな長い時間のように感じた。むさえは、ぼんやりと空を眺めながら、足を進めた。
むさえ「大丈夫だよね…姉ちゃん…しんのすけ」
みさえは、むさえの姿が見えなくなると、再び家の中へ戻って行った。ふと、リビングに目を向ける。
みさえ「…」
一人リビングに佇むみさえ。平日の昼下がりの空間。いつも通りのはずなのに。何かが違った。
みさえ「………?」
ああ、そうか。ひろしが病院にいるせいだ。入院していて、それで…
病院に………?
どうして病院…?体調を崩して…?何で体調を崩したんだっけ…?昨日の夜…?
みさえ「何だっけ?」
何かが、何かが思い出せない。その何かが分からない。何だっけ…
みさえ「…洗濯物、干さなきゃ」
みさえは、気を紛らわすかのように、いつものように家事に手を付け始めた。
そして午後
しんのすけ「おっかえり~」
幼稚園からしんのすけが帰ってきた。相変わらずちぐはぐな言葉を言いながら、靴を脱ぎ捨て家に上がる。
みさえ「だからただいまでしょ?」
台所から手を拭きながらみさえが出てきた。そうとも言う~と笑うしんのすけ。
みさえ「も~靴もちゃんと揃えなさいって!」
しんのすけ「かあちゃん、今日のおつや何?」
みさえ「おやつの前に手洗っちゃいなさい」
しんのすけ「ほ~い」
みさえ「あ、そうだ、しんちゃ…」
玄関に散らばった靴を揃えたあと、みさえは振り返りしんのすけの後ろ姿を見た。トテトテと廊下を歩くしんのすけの姿が目に映る。
その途端
みさえ「……………っ!」
みさえは、頭を抑える。また、いつかの時と同じ映像が、頭に流れ込んできた。
みさえ「…………また……何………っ!?」
以前にも見たことのある映像。
そう、思い出した。今日の朝に、しんのすけの姿を見たときと全く同じ状況だ。
『シロを抱え、冷たくなったひろし。
医者の声、むさえの声。
病院で横たわるひろし。
自分を制止する看護婦。
動かない、ひろしの姿。』
再び、脳裏を撫でる映像に、みさえは苦悶した。
みさえ「…………っ!」
その時、
しんのすけ「かあちゃん?どしたの!?」
玄関で蹲るみさえの姿に気づいたしんのすけが、慌てて駆け寄ってきた。
また、まただ。
みさえ「来ないで!!!!!」
しんのすけ「…!?」
みさえは、ハッとして顔を上げしんのすけを見た。不安そうな表情でみさえを見つめるしんのすけ。そんな姿でさえも、みさえは見続けられなかった。嫌な汗が体中を流れた。
しんのすけ「かあちゃん…朝から変だゾ…」
みさえはふらふらと立ち上がると、寝室に足を進めた。
みさえ「ごめん……疲れてるみたいだから、寝るわね……」
しんのすけ「かあちゃん?」
みさえは、何もかけずに床に寝そべると、ゆっくり呼吸を整え、目を閉じた。
みさえ(あたしは疲れてるだけ…疲れてるから、きっと悪いイメージが浮かんでくるのよ…大丈夫、眠ればきっと治るわ…大丈夫よね…)
自分に言い聞かせるように、何度も大丈夫という言葉を繰り返した。そんなみさえの背中を、しんのすけはじっと見ていた。
しんのすけ「かあちゃん…」
しんのすけはどこか不安を感じながらも、「疲れてるみたい」というみさえの言葉を信じることにした。
しんのすけ「…ま、かあちゃんが寝てるのはいつものことだし!」
しんのすけは鼻歌混じりにリビングに向かい、テレビを見はじめた。
しんのすけ「おおっ!アクション仮面~!!」
しんのすけには、何も変わらない日常のようであるように感じられた。
しんのすけ「かあちゃ~ん」
暫くしてから、みさえはしんのすけの声で目が覚めた。
しんのすけ「かあちゃん、ごはんまだ~?」
ひまわり「あやう~」
みさえは体を起こし、辺りを見渡した。もうすでに日は沈み、夜になっていた。しんのすけは、ひまわりと並んで座り込み、こちらを伺っていた。
しんのすけ「ほら、ひまもお腹すいたって言ってるゾ」
みさえ「…」
みさえは、何も言わずに立ち上がり、台所に向かった。そして、戸棚からカップ麺を取り出すとテーブルの上に置く。
しんのすけ「…かあちゃん何これ」
みさえ「晩御飯」
しんのすけ「え~またカップ麺~?」
朝もカップ麺だったゾと文句を言うしんのすけを余所に、みさえはひまわりのミルクを作り出した。
しんのすけ「ねぇ~かあちゃん!」
みさえ「ごめん、あたし疲れてるの。それ食べて寝てちょうだい」
みさえは小さくごめんねと、色のない声で呟くと、極力しんのすけに目を向けないようにしてひまわりのを抱き抱え、再び寝室に戻って行った。
いつものしんのすけなら、こんな時にはみさえに対して文句や悪口の一つ二つ程度、零すのだが、みさえの突き放したような声色に、言葉が詰まってしまった。みさえは寝室でこちらに背を向けたまま、あやしながらひまわりにミルクを与えていた。
しんのすけ「…」
何も分からないしんのすけは、みさえに従い、カップ麺を食べるしかなかった。お湯を入れ、リビングに運ぶ。その時、しんのすけはふと、あることに気がついた。
しんのすけ「かあちゃん、とうちゃん帰ってこないの?」
しんのすけは、寝室のみさえに問い掛けた。と、ひまわりをあやす声がピタリと止んだ。
みさえの様子が変わったのがしんのすけにも伝わった。
みさえ「何なのよ……」
みさえの声は震えていた。もしかしたら、聞いてはいけないことを聞いてしまったのか。しんのすけが思ったときには、もう遅かった。
しんのすけ「、かあちゃん?」
みさえ「帰ってこないわよ、あの人は」
しんのすけ「何で?」
みさえ「分からないわよ!!!」
途端に怒鳴り散らすみさえ。しんのすけは、思わずたじろいだ。
みさえ「分からないわよ…!何よこれ!嘘!何なのよ!!!」
みさえの脳裏には、再びあの映像が。
むさえは、大丈夫だと言った。自分も、大丈夫だと思った。それなのに、何でこんな状況が頭の中に流れるのだろうか。
もしかしたら、この映像が事実なのだろうか。こんな、嘘みたいな様子が、自分が思い出せない『何か』であるのか。嘘だ、そんなはずはない。いや、でも、まさか。
思考が巡る。頭が割れそうなほど痛い。何が事実か。自分は何を見たのか、何があったのか。
何を信じればいいのか
みさえ「分からないのよ…!」
みさえは、二階の部屋でひまわりを抱き抱えたまま、座り込んでいた。ぼんやりとどこかを見つめる瞳には、何も映っていなかった。
頭の中では、相変わらず自問自答が堂々巡りしていた。どうして、いやちがう、だって、でも、何が何で、そうだ、いや、けれど、
みさえはごろりとその場で横に倒れた。ひまわりが、みさえの腕から抜け出し、部屋を徘徊し始める。
みさえ「……………」
どうして、こうな風になってしまったのだろう。むさえといたときも、ひまわりといたときも、何にも無かったのに。しんのすけを見た時だけ、どうして…
みさえ「しんのすけ……」
そうか。
しんのすけを見る度、再生されるあの光景。きっと、しんのすけのせいで、あんな状況が頭に流れ込んでくるのだろう、そうだ、そうに違いない。
全ては、しんのすけが悪いのだ
みさえ「あの子のせいよ……」
根拠なんて、無かった。ただの八つ当たりかもしれない。けど、今は、この感情の原因を、掃き溜める場所を、見つけたかった。そうでもしないと、自分の中の全ての感情が、溢れ返ってしまいそうだった。
みさえ「しんのすけのせいよ…」
薄暗い部屋で、みさえは何度も繰り返し呟いた。
その日を境に、みさえは荒んでいった。朝は、荒々しく布団を引きはがししんのすけを叩き起こし、朝食のカップ麺と幼稚園用の弁当を、台所のテーブルの上に置いておくだけだった。黙って従うしんのすけ。
こうして、しんのすけに関心を持たずに日々をすごせば、自分の中のおかしな記憶を消せると思ったのだ。
みさえは二階から降りたがらなくなった。一階には、しんのすけがいるから。夕飯も次第にカップ麺のみとなり、カップ麺が切れてからは、食事の用意自体しなくなった。そして、弁当を作ることすら億劫になり、みさえはしんのすけを幼稚園に通わせることすら、やめたのだ。
こうすれば、しんのすけを意識の外側に追いやってしまえば、しんのすけの存在を忘れれば、自分は救われると思ったのだ。
思ったはずだった。
しかし、消えない。
どんなに突き放しても、どんなに拒絶しても。
しんのすけが、意識の中から消えることはなかった。
リビングにあるおもちゃ箱すら、嫌な記憶が僅かに蘇った。休日にしんのすけを構うひろしの姿が浮かぶ。途端に激しい頭痛に見舞われ、気付けばみさえは、衝動的におもちゃを全てゴミとして捨てていた。
その時、しんのすけが腕に飛びついてきた。
しんのすけ「かあちゃんやめてよ!オラの宝物なんだゾ!みんなみんな、とおちゃんとかあちゃんに貰った、大切な宝物なんだゾ!」
叫ぶしんのすけの姿に、怯えるみさえ。
宝物
とうちゃん、
大切な
みさえ「………………っ!」
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!また、あの光景が流れる事を恐れ、みさえは拒絶した。ふと気づいたときには、目の前には、傷だらけのしんのすけ。
みさえは、さらに怯えた。
みさえ「もう…………嫌………」
そう吐き捨ててみさえは二階に戻ると、姿の見えないひろしに助けを求めた。蹲って体を震わせ、ただただ、ひろしを呼んだ。
きっと、みさえはもう心の何処かで、認めはじめていたのだ。ひろしの真実に。時折、携帯電話に連絡を入れてくるむさえの態度にも、どこか違和感を感じていた。きっと間違っているのは、自分なんだ。
結局、みさえは受け入れる恐怖に負け、ひろしの面影に怯えていたのだ。そして、その面影を漂わせるしんのすけの姿にも。
それでもみさえは認められなかった。認めてしまったら、全てが、消え去ってしまうような気がした。もしかしたら。そんな夢幻に、いつまでも縋り付いていたのだ。
けど、あの日。あの朝。必死に洗濯物を干すしんのすけの姿に、胸が焼けるような思いがした。
ああ、
みさえ「…………しんのすけ…」
なんて、小さくて、懸命な姿なのだろうか。自分は、一体何をしているんだろう。みさえの中で徐々に何かが崩れはじめた。
それでも、自分に抵抗し、しんのすけに冷たく接するみさえ。
みさえ(嫌、嘘よ!嫌、嫌ぁ!)
認めたくない。しかしそんな悶々とした感情でさえ、段々薄れていくのがみさえにも分かった。
認めてしまう恐怖、受け入れてしまう恐怖に怯えた。まだ、信じていたい。
『でも』
しかし
『やっぱり オラのことも』
それらの感情は全て
『すきでいてほしいゾ』
しんのすけの手紙によって完全に消え去った。
しんのすけは、こんな自分を、いつまでも信じてくれていた。あんなに傷だらけになっても尚、みさえの心配をしていた。手紙と一緒に置かれた何の変哲もないチョコビが、とても尊いものに見えた。
恐る恐る一階に降りてみると、しんのすけは少ないチョコビを食べながら、お腹がすいたと呟いていた。みさえは、一度大きく息を吸って、そして
みさえ「じゃあ、ご飯にしようか」
そっと、精一杯の優しい口調でみさえは返答をした。
内心、怖くて堪らなかった。もし拒絶されたら。怖がられたら。そう思うと、体が震えた。逃げ出したかった。
けど、しんのすけは、そんなみさえを受け入れ、許し、一緒にいてほしいと請うたのだ。
自分は、こんなに幼く、優しい子をあんなに無下にしていたのだ。自分の理不尽な現実逃避のために。あんな仕打ちを繰り返したのだ。この子は、こんなになってまで、自分を受け入れてくれているというのに。みさえは、しんのすけを抱きしめながら思考を巡らせた。
みさえ(そっか、あたしは)
そうか、そうなんだ
結局
悪いのは全て、自分自身だったのだ。
食事を終えた後、みさえはむさえに電話をかけた。
プルルプルル
ガチャ
むさえ『もしもし?どうしたの?』
どことなく焦るむさえの声がした。
みさえ「むさえ…あたしね、」
ぐっと唇を噛み締める。むさえも、自分のために、辛い思いをさせてしまった。逃げ出した自分を、むさえは守りつづけてくれていた。今なら鮮明に思い出せる。あの病院で、みさえを必死に宥めようとしていたむさえの表情が。
みさえ「むさえ、ありがとう」
むさえ『……え?』
みさえ「あたしのために…色々……」
むさえ『…姉ちゃん…まさか』
「うん」と、小さく返事をする。
みさえ「あたし、逃げてばっかりだったわね、ごめんね」
すると、受話器の向こうから、むさえの泣き声が聞こえてきた。
みさえ「むさえ?」
むさえ『…ごめん……姉ちゃんごめんね……あたし…あたし、ごめん……!!』
ただただ、謝罪を繰り返すむさえ。その声に、みさえの胸が痛んだ。
こんなに傷つけてしまっていた。あたしが逃げ出したばっかりに。むさえに罪悪感を背負わせてしまった。辛かったはずだ。毎日、毎日、独りで抱え込んで。こんなになるまで、あたしは、何も気づけなかった。気づこうとしなかった。あたしは…あたしは………
みさえ「むさえが謝らないでよ。あたしが…あたしのせいなんだから」
むさえ『でも………!』
みさえ「…あたし……これから
『あの人』に会いに行こうと思う」
むさえ『…行くの?』
みさえ「うん」
むさえ『大丈夫?』
みさえ「あの人に謝らなきゃいけないこと、たくさんあるから」
鼻を啜りながら、そっか、と呟くむさえ。
むさえ『じゃあ、あたし、銀ちゃんに連絡入れとくよ!』
みさえ「あ、ううん、いい」
むさえ『え?』
みさえ「…あたしから、連絡するから」
むさえ『…そっか、分かった』
複雑な心境ながらも、少し安心したようなむさえの声。
みさえ「じゃあ、本当にありがとうね」
むさえ『あ、姉ちゃ』
プッ
最後のむさえの呼び掛けを遮るように、みさえは無理矢理電話を切った。
むさえの泣き声が、頭から離れない。
みさえ「…………むさえ…」
償わないと。謝らないと。自分が傷つけた人達に、自分のせいで、悲しませた人達全てに。
みさえ「…………いかなきゃ」
みさえはぐっと前を向き、立ち上がった。
車に乗り込んだみさえは、無心で車を走らせた。しんのすけの話に相槌をうちながら。今までハンドルが切れなかった場所も。普段なら一旦止まってしまうような道も。ただただ、走りつづけた。
暫くして、しんのすけの話し声が止んだ。バックステージを見てみると、ひまわりと並んですやすやと眠っている。
みさえ「……………」
自分は今、秋田のひろしの実家に向かっている。運転は不安だったが、道は確かに覚えている。ここに来るまでに、色んな風景が目に飛び込んできた。どの風景も、家族で揃って見た懐かしい景色ばかりだった。徐々に、みさえの瞼が熱くなる。
どれもこれも、掛け替えのないモノなのに。逃げて、隠して。
車が進むにつれ、みさえはどんどん不安になっていった。こんな自分、許されるのだろうか。こんな、愚かで勝手な自分、銀の介達が許してくれるのだろうか。何より、ひろしに合わせる顔がない。
みさえ「………っ」
みさえは道の脇に車をとめ、そのまま動けなくなってしまった。とてつもない不安と恐怖が襲い掛かってきた。ハンドルを握る手が震える。
みさえ「…こんなあたし…許してくれるはずないじゃない…!」
もし、銀の介に会って、追い返されてしまったらどうしよう。ひろしに会わせてもらえなかったら、どうしよう。
しんのすけだってそうだ。さっきは受け入れてくれたが、もしこの先、今までの事がトラウマになってしまったり、怯えられてしまったら。
もし、しんのすけに拒絶されてしまったら。
みさえ「……………」
償いの決心が揺らぎはじめた。もし、そんなことになるくらいなら。いっそ
今すぐに。
みさえは、ふと対向車線の先に小さな道があるのを見つけた。暗い山の奥に続いている道のようだ。入口には『危険』と書かれた立て札。
みさえ「……………」
みさえは無意識のうちに、アクセルを踏み付けた。
ひたすら山道を登りつづける。途中、しんのすけの声が聞こえたような気がしたが、朧げで、何と返答したか、覚えていない。
道が開け、目の先に崖が映ったとき、みさえは「ああ」と、思わず安堵の声を漏らした。全てが終わるかもしれない。終わらせられるのだ。この先に進めば、きっと。そうだ、こんな非道な自分、消えても悲しむ人間は、きっともういないだろう。最低な妻だと、母親だと、皆罵るだろう。
このまま不安に苛まれながら、蔑まれながら、拒絶される恐怖に怯えながら生きていくくらいなら、いっそ、ここで、この子達と一緒に。
みさえ(会いに、行きたい)
きっと、この選択は、何も間違っていない。間違っていないのだ。
いこう、あの人に、会いに。
みさえは、しんのすけ達の叫び声を無視し、アクセルを踏む。
いま、行くからね。
みさえ(あなた…これで…
これでよかったのよね…
あなた――――)
しかし、そのときみさえの耳に飛び込んできたのは、
『やめろおおおおお!!!!』
聞こえるはずのない、ひろしの悲痛な叫び声だった。
みさえ「!!!!」
必死にブレーキを踏み付け、車をなんとかとめた。目の前の高い景色に、全身が震える。
あの声は。
しんのすけ「聞こえたゾ…………」
しんのすけの声に、思わず振り返る。しんのすけは両目を見開き。涙を流しながら信じられないような視線でこちらを見ていた。
しんのすけ「かあちゃん…!今……!オラ…!聞こえた…!」
突然、みさえの瞳からも涙が溢れ出した。みさえはハンドルから手を離し、涙を拭う。
みさえ「う………、うんっ……!うん……!!」
声が。あの声が、頭の中に響き渡り、消えない。あの声は、そう、紛れも無い、ひろしのものだ。
しんのすけは、車を降り、外に飛び出した。必死にひろしの名前を呼ぶ。そんなしんのすけの姿を見据えながら、涙を拭った。それでも、涙が止まらない。
ひろしの名前を呼び続けていたしんのすけは、徐に森に向かって駆け出した。
みさえ「……っしんのすけ!」
慌てて傍に駆け寄り、しんのすけを抱き留める。
しんのすけ「何すんのかあちゃん!!」
みさえ「どこいくの!危ないでしょう!」
必死に腕の力を込め、しんのすけを止めた。最期の最期まで、みさえは『自分のため』に全てから逃げ出していた。しかし、今みさえは、走り去ってしまおうとするしんのすけの姿が、暗闇の中に呑まれてしまうのが恐ろしかった。
みさえ「あの人は……」
しんのすけを離すみさえ。もう、認めるしかなかった。逃げることは意味を成さない、と。ひろしの叫び声が、そう訴えかけてきたようだった。
そしてみさえは、この場所で、震える声で、もう
みさえ「パパはもう…ここにはいないのよ…」
逃げることを、やめたのだ。
しんのすけ「……でも……でも」
目の前にへたれ込んだしんのすけは、目を強く瞑り、嫌だと言わんばかりに首を横に振りながら、みさえの言葉を否定した。
しんのすけ「…とうちゃんの声がしたんだゾ……!!」
みさえ「…しんちゃん、いい、よく聞いて……」
みさえは再びしんのすけを抱きしめる。自分の胸の中でしんのすけを落ち着かせた。
みさえ「あの人は…もう…いないの……」
しんのすけ「………」
みさえ「シロを探しに行って…それで…川に………っ」
しんのすけ「………………!」
段々と声が詰まるみさえ。するとしんのすけは、腕の中から抜け出し、みさえに向かって叫んだ。
しんのすけ「かあちゃんのおバカ!!!とうちゃんが帰ってこないからって!!何勝手にそんなこと思ってるの!!」
みさえ「しんのすけ……」
しんのすけ「とうちゃんは帰ってくる!だって、今、とうちゃんの声が聞こえたゾ!!」
みさえは、目の前で喚くしんのすけの姿を見て悲しくなった。自分も、あの夜。こんな風だったのだろうか。認めたくない。だから相手を悪者に仕立て上げ、自分の思いを正当化させて、逃げ出した。
むさえは、どんな心境だったのだろう。どんな気持ちでみさえに嘘をついたのだろう。みさえが真実を知ったとき、どんな心境で謝って来たのだろう。きっと、どちらも辛かったはずだ。
みさえ「あたしだって……」
今まで逃げつづけていた自分が、
みさえ「あたしだって信じられなかった…信じたくなかったわよ…!でも…!!」
今度は、伝える番なのだ。
みさえ「……もう、いないって……認めなきゃいけないのよ…」
苦しそうに顔を歪めながら、みさえはしんのすけに真実を告げた。自分勝手な現実逃避でしんのすけまで巻き込んでしまったことに、とてつもない罪悪感が襲い掛かる。しんのすけは、口を紡いで俯いた。
しんのすけ「……オラ……
暫くして、しんのすけが口を開いた。
しんのすけ「もしかしたらって、何だかずっと思ってたゾ……」
みさえ「……………」
しんのすけ「とうちゃんが帰ってこなくなってから…かあちゃんもむさえちゃんもおかしくなって…もしかしたら、とうちゃんに何かあったって、オラ、ずっとずっと、考えてたゾ…」
しんのすけは俯いたまま、淡々と話しつづけた。
しんのすけ「やっぱり………とうちゃん………、?」
しんのすけが顔を上げ、みさえを見つめた。みさえは、その目から視線を外すことが出来なかった。あまりにも真っすぐ過ぎる瞳が、こちらに向けられている。
しんのすけ「とうちゃん……!」
とめどなく涙は溢れる。けれど、どこか何かを確信したかのような、強い眼差し。この子は、今、自分と戦っている。
まだこんなにも幼いのに。この子は、こんなに逞しい子だっただろうか。みさえ自身は、蓋をし、逃げ出したひろしの真実。それを今、この子は自分の中で真実を受け止めようと、必死に自分自身に訴えかけている。
みさえ「しんのすけ……」
しんのすけ「とうちゃん……」
呼ぶように、呟くように、父を呼ぶ。あまりにも弱々しい、なのに強く胸に響く、声。
しんのすけ「とうちゃん…!」
段々と、声が大きくなる。
しんのすけ「とうちゃぁん…!」
そして、その事実を受け入れたしんのすけは
しんのすけ「とうちゃぁあ゙あ゙ん!!!!」
みさえの膝の上で、泣き崩れた。
しんのすけ「うわぁぁぁぁあああ!!!」
今まで堪えていたものが、全て溢れ出したように。しんのすけはみさえに縋り付き、泣きわめいた。みさえは、ただただしんのすけを抱きしめるしかなかった。
しんのすけの姿を見て、泣き声を聞いて。みさえは改めて、現実を突き付けられた。
そうだ、もう。
しんのすけ「もう、とうちゃん、帰ってこないの……!?」
みさえ「………」
しんのすけ「とうちゃん、もう、いないの……!?」
みさえ「………」
しんのすけ「とうちゃん……もう、会えないの……!?」
みさえ「そう………もう…」
そうだ。
みさえ「ごめんね……ごめんねぇしんちゃん……!!」
もう、ひろしはいない
もう
会えない。
もう、二度と会えない。会えないのだ。しかし
その時。みさえは何かに気づきはっとした。
みさえ「会えない………?」
思い出した。自分は今、何故ここにいるのか。何故、ここまで来たのか。
みさえ「しんちゃん……」
しんのすけ「う……うぅ……っ」
みさえ「まだ…会えるわよ…!」
しんのすけ「……え?」
みさえは、しんのすけを抱き抱えながら立ち上がった。そのまま車に向かう。
しんのすけ「かあちゃん?どうしたの?」
みさえ「あの人に、会いに行くのよ」
しんのすけは、一気に怯えた表情になった。車に向かうみさえ。『会いに行く』その台詞と先程の状況が重なり、フラッシュバックの様に、映像が蘇る。
みさえは、しんのすけを後部座席に乗せる。車内には、泣きつかれた様子で、眠るひまわりがいた。
しんのすけは、しっかりとドアにしがみつき、みさえを見つめた。何かが違う、みさえの様子。その様子に不安や恐怖は感じなかった。みさえは、どこか落ち着いた様子だった。
しんのすけ「かあちゃん…?」
みさえ「大丈夫。ちょっと待って」
車のエンジンをつけ、ゆっくりと車をバックさせる。先程までの運転とは打って変わった、いつも通りの不安定なみさえの運転だ。
ゆっくり、ゆっくりと車をバックさせ、崖の先から遠ざけると、みさえは運転を止めた。
みさえ「あ~、やっぱり夜の運転は駄目だわ!!明るくなってから行こうか」
今日は車で寝てね、と少し申し訳なさそうに、みさえはしんのすけに笑いかけた。
しんのすけ「かあちゃん、どこいくの?」
恐る恐る、尋ねるしんのすけ。
みさえは、少し寂しげな顔をして、答えた。
みさえ「秋田のおじいちゃんの家、行こうね」
夜が明けてから、みさえは慣れない運転でゆっくりと山道を下り、銀の介の家…ひろしの実家へと向かった。その車の中で、みさえはしんのすけにひろしの話をした。
あの日から、何があったのか。しんのすけは、ようやく打ち明けられる真実を、黙って聞いていた。みさえにとっても、朧げな記憶だったが、むさえから聞いた話しを頼りに、伝えられる限り、全てをしんのすけに伝えた。
しんのすけ「とうちゃんは…今じいちゃんの家にいるの?」
みさえ「そうよ」
もう、元のあの人ではないけれど。それでも、ひろしはあの場所にいる。
しんのすけ「…やっと、とうちゃんに会えるんだ…」
みさえは、バックミラー越しにしんのすけを見つめた。しんのすけは、シートに凭れ掛かりながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。
みさえ(しんのすけ…)
みさえは、どこか不安になった。いくら落ち着いた様子であるとはいえ、辛いはずだ。何か言ってやらなければと、言葉を探したが、思いつかない。
再び、バックミラーを見てみると、しんのすけと目が合った。少しみさえが動揺すると、しんのすけはへらへらと、いつものようなだらし無い笑顔を見せた。
しんのすけ「いやぁ~新しいおパンツはいてきてよかったゾ!とうちゃんに会うのに、情けない恰好じゃあ恥ずかしいし~」
みさえは、少し胸が痛んだ。しんのすけは、こちらの様子を気にかけて、明るく振る舞っているのはすぐに分かった。その優しさが、逆に辛く思えた。
けれども、そんな小さな息子の優しさが、とても温かかった。
みさえ「おじいちゃんの家までまだまだかかるから、ちょっとご飯食べていこっか」
しんのすけ「ほっほ~い!!」
みさえ達は、ゆっくり、銀の介の家へ向かっていった。
みさえ「しんちゃん、着いたわよ」
しんのすけ「おぉ~!じいちゃんちだ!」
銀の介の家に到着したのは、翌日の昼だった。迷いはしなかったものの、慣れない運転や、休憩を挟んだおかげで、だいぶ時間が掛かってしまった。
銀の介の家を前にして、みさえは、車の中で深呼吸をした。やはり、怖い。
しんのすけ「かあちゃん、降りないの?」
しんのすけが、後ろから問い掛けてきた。強張った表情を察したのか、少し心配そうだった。
みさえは、またひとつ大きく息を吐いて、胸を叩いた。
覚悟は、出来ている。大丈夫。
みさえ「よし!行こうね」
しんのすけに笑いかけ、みさえは車を降りた。車窓に映った自分の表情は、疲れているように見えた。しっかりしないと。みさえは両頬をぱちん!と叩き自分に、葛を入れた。ひまわりを抱き抱え、玄関に向かう。
玄関の前に立ち、みさえは足を止めた。まず、謝らないと。銀の介達にも、辛い思いをさせたこと。嫁として、情けない姿を見せたこと。葬儀すら、行わなかったこと。
全ては、ひろしの死から目を背けた自分のせいで。
みさえ(泣いちゃ駄目だ、泣いちゃ…泣くな、泣くな…)
ぐっと唇を噛み、玄関の扉を叩こうと手を挙げたその時。背後から声がした。振り返るとそこには。
銀の介「みさえさん…!」
驚いた様子で、こちらに向かって来る銀の介がいた。
みさえ「…!」
みさえは、慌てて頭を下げた。謝らなきゃ。
みさえ「お義父さん…突然お邪魔してすみません…」
違う、そんなことじゃない。こんなことを謝りに来たのではない。しかし、その言葉が、切り出せない。その時、
銀の介「しんのすけ…一体どうしたんじゃ?この怪我は…」
しんのすけ「お?これ?」
しんのすけの頭を撫でる銀の介が、顔の傷に気づいた。みさえの心臓が跳ね上がる。逃げた自分が、理不尽に付けた傷。しかし、しんのすけは、笑ってみせたのだ。
しんのすけ「いやぁ~、またひとつオラが大人になった証だゾ!」
そうか、と呟く銀の介。きっと、銀の介は、何があったか。何故こうなったのか。もう察しているだろう。しかし、みさえの表情を伺った銀の介の表情には、咎める様子は無かった。
銀の介の家に上がったみさえは、家の中を見渡した。葬式の為か、隅々まで綺麗になっていた。
自分も、この場所に居なければならなかったのに。自分は…
より一層、みさえは罪悪感に駆り立てられた。
居間に向かうと、そこにはつるがいた。以前、少しだけ姿を見たときと比べて、更にやつれているように見えた。
つる「あぁ…みさえさん…!」
立ち上がり、フラフラとこちらへ向かって来る。思わず、支えようと差し出した手を握り締め、つるは涙を流した。ああ、謝らなきゃ、謝らなきゃ。
みさえ「お義母さんも…突然すみません」
違う。もっと。もっと大切なことを謝らなきゃいけないのに……!
銀の介「ウチに来てくれたってことは…もう、大丈夫なんじゃな…?」
みさえを心配に見詰め、尋ねる銀の介。
みさえ「はい…ありがとうございます。本当に遅くなってしまいまって…本当に……す…っ、……!」
言葉が詰まる。それでも、言わなきゃ。今なら、今なら言える。伝えなきゃ、謝らなきゃ、ちゃんと…!
みさえ「すみません…」
みさえは、これ以上大きな声を出すことが出来なかった。しかし、伝えなければならない言葉を。謝罪を。ようやく口にすることが出来たのだ。
銀の介は、そんなみさえを見つめながら、頷いていた。
銀の介「じゃあ、みさえさん、少し話しをしよう。」
いよいよだ、と、みさえは顔を上げた。自分が咎められるべき時が来たのだ。もう何も恐れない。
みさえは、ありのまま、今までの出来事を伝えた。どんなに責め立てられようと、どんなに非難されようと。それらは全て、当然の酬いであると、心の中で、何度も自分に言い聞かせた。
全てを話し終えた後、みさえは俯いた。銀の介の叱咤の言葉を待ち構えていると言わんばかりに、俯いたまま、拳を握り締め、身構えた。
しかし、
銀の介「みさえさんも…戦っていたんじゃな…あいつの面影と…」
そんなみさえにかけられたのは、思いもしなかった言葉だった。
みさえ「…」
思わず顔を上げるみさえ。銀の介は、優しい瞳でこちらを見ていた。
銀の介「ワシらでさえ、なかなか振り切れなかったんじゃ…みさえさんも、大変だったろう…」
みさえ「……」
何故、何故、責め立ててくれないのか。何故、非難してくれないのか。何故…
銀の介「…辛かったろう…」
何故、そんなにもみさえを気にかけてくれているのか。
みさえは、涙を堪えられなかった。なんとお人好しな人なのだろう。自分達だって、苦しいはずなのに。辛くて堪らないはずなのに。
みさえは、情けなくなった。こんなにも支えてくれる人がいたのに。気にかけてくれている人がいたのに。それを蔑ろにして、苦しめて、ひろしの幻影に縋り付いていたのだ。
心の中は謝罪でいっぱいだったのに。今では、感謝の気持ちも溢れていた。
そんな中。
しんのすけ「じいちゃん」
噎び泣くみさえ隣に座っていたしんのすけが、銀の介に尋ねた。
しんのすけ「オラ…とうちゃんのいるところに行きたいぞ」
そして
しんのすけ、みさえ、ひまわり、銀の介の四人は、細い山道を上り小高い丘の墓地に来た。いくつもの墓石が立ち並び、草が生い茂っていた。銀の介は、ある墓の前で足を止めた。
銀の介「ほれ、ここがお父さんのいる場所じゃよ」
しんのすけが顔を上げると、そこには「野原家之墓」と刻まれた真新しい墓石が立っていた。
しんのすけ「おお…」
みさえ「………」
しんのすけ「とうちゃん……?」
銀の介「そうじゃよ」
寂しげに微笑む銀の介。しんのすけもみさえも、暫くの間、ただ呆然と墓石を見つめていた。改めて、現実を突き付けられたような感覚に苛まれたが、今までのような、悶々とした感情は薄れていた。
みさえは、ひまわりを抱き抱えたまま墓石に近寄った。
みさえ「あなた…」
銀の介「ほれ、ひろし。みさえさん達が来てくれたぞ」
少し寂しそうな声で銀の介が呼び掛ける。ひまわりは不思議そうな目で、墓を見つめていた。
みさえ「ひま、ほら…パパよ」
ひまわり「あや?」
小首を傾げるひまわり。それでもひまわりは、視線を反らすことなく、墓石をじいっと見つめて続けた。
みさえ「…あなた……ごめんね」
小さな声で、みさえは呟いた。
みさえ「あたし…ずっと逃げて…あなたを探していた。怖かったの。本当はとっくに気づいていたのに…見えないふりをして…あなたにも、しんのすけにも、ひまにも、最低な事をした…母親失格よね…」
みさえは小さく苦笑した後、少し辛そうに唇を噛み黙り込んだ。
しかし、暫くしてから「けど」と言葉を繋いだ。
みさえ「けど、しんのすけやお義父さんやむさえや…色んな人に助けてもらったの。あたし、一人だったらもう戻れなかった。一人だったら今、こんな所になんて居られなかった。あの時…あなたが止めてくれなかったら…あたし達、今頃…」
みさえは、崖の上での出来事を思い出した。あの時、ひろしの声が無ければ、今頃家族もろとも暗い崖の下だっただろう。みさえは、思わず身震いをした。
みさえ「今、こうして、あなたに会えて、あたし、よかった…嬉しいの」
謝ならければいけないことは、山ほどある。伝えなければいけないことも。正直、こうして改めて考えると、切なさと悲しみが込み上げてくる。墓石なんて目の前にしてしまったら、自分は平常心を保っていられるのだろうか、という不安もあった。
それでも今、胸の中は、此処に来られた喜びと、感謝の気持ちで溢れていた。
みさえ「……ありがとう…あなた」
目に涙を溜め、みさえは小さく頭を下げた。みさえの腕の中では、ひまわりが「たや!!!」と墓石に向かって大きく手を挙げていた。
するとその時、しんのすけがみさえの足元に駆け寄った。
しんのすけ「とうちゃん!」
ひろしの墓石を見上げ、声を張り上げる。
しんのすけ「…かあちゃん泣かせたら駄目でしょ!男として情けないと思わないの!?」
ひろしに向かって説教をかますしんのすけに、思わず唖然とするみさえと銀の介。
しんのすけ「まったくもう!かあちゃん、辛そうだったゾ!ご飯も食べないで、お部屋にこもってて…!」
傷が少し痛む。一人寂しく食事をとったリビングが、帰りを待ち侘びた玄関が、殴られた時の様子が、思い出された。
しんのすけ「オラも…オラだって、寂しかったゾ…とうちゃん、急にいなくなるし…何も分からなかったし…オラ…」
段々とか細くなる声。俯くしんのすけは、小さく震えていた。
しんのすけ「もう…、とうちゃんがいないなんて、よく分からないゾ…」
しんのすけ「…オラ、とうちゃんとまた遊びたかったゾ…また一緒にお出かけして、また一緒にご飯食べて…まだ一緒にいたかったゾ」
まだまだ、ひろしと一緒にやりたいことがたくさんあった。家族皆で、やりたいことがたくさんあった。誰ひとりとして欠けてはいけない。大切な思い出を、もっともっと作りたかった。
しかし、もうそれは叶わない。
分かっているはずなのに、理解できない感情が、胸を締め付けた。ひろしと一緒にいた時間は、あまりにも短く。そして、あまりにも唐突すぎる別れで。
でも、それでも。
しんのすけ「とうちゃん、オラ、楽しかったゾ。」
しんのすけはポケットからアクション仮面の人形を取り出した。小さな掌で、それを強く握りしめる。
しんのすけ「お仕事休みの日に、アクション仮面ごっこして遊んでくれたこと、オラ、覚えてるゾ」
最近のヒーローはよく分からないと言いながら「アクションレーザー!!」なんて、思いつきの技を繰り出し、しんのすけに呆れられるひろし。分からないと言いながらも、よくしんのすけと遊んでくれた。
このアクション仮面だって、ひろしとみさえが買ってくれた大切な宝物なのだ。そう、もっと早く気づけたらよかったのに。
しんのすけ「これからは、オラが皆をお守りするゾ!!」
しんのすけは、アクション仮面の人形を、見せ付けるかのように前に突き出した。
しんのすけ「オラがとうちゃんみたいになって、ちゃんと皆をお守りするから、だから」
じわり、と目尻に涙が浮かぶ。泣いてはいけない、としんのすけは拳を更に強く握り締めた。言葉がでない。
自分が守らなければいけないのに。守ると、今ここで誓おうとしているのに。ここで泣いてしまっては意味が無い、としんのすけは思った。けれども、これ以上言葉にしてしまったら、涙が溢れてしまいそうだった。
しんのすけ「かあちゃんも、ひまわりも…シロも…皆……!」
しんのすけは、はっとした。
しんのすけ「シロ………?」
しんのすけは、みさえを見上げて呟いた。
しんのすけ「…かあちゃん…シロは…?」
みさえも、少し驚いた表情になり、銀の介に尋ねた。
みさえ「お義父さん…シロは」
銀の介「…ああ……そこじゃよ…」
銀の介は、墓石の横を示した。そこには、少し盛り上がった土の上にたくさんの花と、見覚えのある首輪が添えてあった。
みさえ「…………っ」
銀の介「この子も…ずっと待っとったんじゃよ…みさえさん達を」
しんのすけは、屈んで首輪を手にとった。
しんのすけ「シロ……シロも、ここにいたんだ」
首輪を、そっと抱きしめる。
しんのすけ「シロは、とうちゃんの傍に、居てくれたんだ」
しんのすけは、目を閉じ、シロの姿を思い浮かべた。
よくみさえにどやされながら、仕方なくシロを散歩に連れていった。嫌々リードを持ってシロの元に行くと、いつも嬉しそうにしっぽを振っていた。
しんのすけ「…」
シロ、大切な家族。
けれどしんのすけは、みさえから話を聞いたとき、ひろしはシロのせいで死んだのではないかと考えてしまった。
もし、シロが家から居なくならなければ、ひろしには何事もなかったのではないか。しんのすけは、シロを一瞬であれど、憎んでしまった。
けど、しんのすけはそんな自分をすぐに戒めた。
しんのすけ「とうちゃんは、シロを助けようとしたんだよね…」
シロは、家族の一員で。ひろしは、そんなシロのために命をかけたのに。シロを憎むことは、ひろしの行動を否定することだと、しんのすけ思ったのだ。
しんのすけ「シロ、ごめんね」
しんのすけは、シロの首輪を抱きしめながら、謝った。もっと沢山、世話をしてやれなかったこと。シロに憎しみを向けてしまったこと。今更後悔してもおそい、けど。
しんのすけ「シロ…!」
シロにも、もう、会えない。
ひろしにも。
守ると決めたのに。誓おうとしたのに。心が揺らぐ。不安になる。悲しみが一気に溢れてしまいそうになった。
しんのすけ「………オラ…!」
その時だった。
みさえ「…?」
そこにいる四人を包むかのような柔らかい風が、突然吹き込んできた。
しんのすけ「うわぁ!」
頬を撫でるようような風に、一瞬、体が浮かぶ感覚に襲われた。まるで、この空間にだけ吹いているように、まわりの草木が揺れた。
不思議な風だった。
しんのすけは、呆けた顔をして風上を見詰めた。
何故だろう、まるで…
しんのすけ「シロ…?」
声は聞こえなかったけど。姿は見えなかったけど。
しんのすけ「……とうちゃん!」
それでも、ひろしが自分の元に来たような、シロが傍を駆け抜けたような、そんな感覚がしたのだ。
それは、しんのすけだけではなかった。みさえも、銀の介も、ひまわりも、ひろしがまるで風の中にいるかのように思えた。
ひまわり「あや!たやう!」
ひまわりが、風を掴もうとするように、一生懸命手を伸ばした。
銀の介「…ひろし……?」
みさえ「あなた……シロ…!?」
四人は、風が止むまで、その場から動けなかった。
暫くして、風が収まった。あたりは、しん、と静まり返る。
しんのすけ「とうちゃん…シロ……」
首輪をそっとシロの眠る場所に戻し、しんのすけは、再び、前を向き直し、呟いた。
しんのすけ「…オラ達のこと、忘れないでね、とうちゃん」
まるで、不安も恐怖も、風がさらってしまったように、心が軽くなった。もう、涙は流れない。みさえも、銀の介も、強張っていた表情が不思議と綻んだ。
しんのすけ「ありがとう、とうちゃん」
しんのすけは、満面の笑みを墓石に向けた。父への感謝も、少しだけ胸に残った悲しみも、全部まとめて、笑顔を見せた。
銀の介「不思議なこともあるもんじゃなあ……」
銀の介は、独り言のように呟いた。
しんのすけ「じいちゃん。オラの声、とうちゃん達に聞こえたかな」
尋ねるしんのすけに、ああ、と笑い返す。
銀の介「ちゃんと、聞こえたろうなぁ」
しんのすけ「なら、よかったゾ」
しんのすけは、少し照れ臭そうにして、頭をかきながら笑った。
その後、しんのすけ達は、墓に向かって手を合わせた。みさえは、長い時間手を合わせつづけ、瞳を閉じたままじっとしていた。
銀の介「みさえさん…そろそろ行こうかの」
銀の介の声に、みさえは顔を上げ、返事をした。
みさえ「また来るからね、あなた、シロ」
少しの間、墓石を見つめた、微笑みながら、みさえは呟いた。
みさえ「ほら、ひまもパパ達に『またね』って」
ひまわり「あたぇ!」
ひまわりは、みさえの口を真似をして、墓石に手を振る。その様子を、銀の介は、目を細めながら見守っていた。
みさえ「じゃあ、戻りましょうね。しんちゃんも、ほら」
しんのすけ「うん」
しんのすけは、みさえ達の後について少し歩いたが、足を止め、墓に振り向いた。
しんのすけ「シロ」
しっかりと向き直し、手を挙げる。
しんのすけ「とうちゃん、またね」
しんのすけは、大きく手を振り、再びみさえ達の後を追い掛けようとした。
と、その時
背後から、先程と同じ、あの柔らかい風が吹いてきた。思わず後ろを振り返る。
すると、
しんのすけ「……!?」
しんのすけは、目を見開いた。
ひろしの墓の前に見覚えのある人影が。
ひろしとシロの姿が見えた。
しっぽを振り、お座りをしたままこちらを伺うシロ。ひろしは微笑みながら、小さく手を振り、口を動かした。
しんのすけ「………!とう」
しんのすけがひろしを呼ぼうとしたその途端、突風がしんのすけを巻き込んだ。あまりの強風に、思わず目を瞑る。
風が止み、慌てて目の前を見てみると、墓の前には誰の姿もなくなっていた。
しんのすけ「…………」
呆然と立ち尽くすしんのすけ。今のは、ひろしだったのか。はたまた、自分の見間違いだったのか。
けど、
しんのすけ「……うん」
見間違いでも、幻でも、構わないとしんのすけは思った。
しんのすけ「またね」
しんのすけは、もう一度大きく手を振り、急いでみさえたちの後を追い掛ける。
しんのすけには、手を振るひろしが『ありがとな』と口を動かすのが、はっきりと見えた。
ひろしが帰ってこなくなり、みさえの様子が変わってしまってから。しんのすけには、全てがとても、長い時間だった。
毎日が、長かった。辛かった。何より、寂しかった。死んでしまいたいとくじけそうな日もあった。それでもしんのすけは、いつか、また今までのような日々に戻れると信じ続けたのだ。
そんな夢も、みさえが元に戻ってから真実を知り、現実をつきつけられられて。もう、今までの日々は戻らないのだと知った。現実を受け入れ、明るく振る舞いながらも、何処かで絶望していた。
もう戻れない家族に、何の意味があるのかと。
けど、今は違う。
優しく吹く風の中で、しんのすけは、満面の笑みを浮かべた。この風の中で、ひろし達は、自分達を見守ってくれるのだと思えたのだ。
たとえ、姿が見えなくたって。触れることが出来なくたって。声が聞こえなくたって。
そこにはいつも、『家族』はいる。
みさえ「しんのすけー?」
しんのすけ「ほっほ~い!」
もう、寂しくない。
―――――それから15年後
みさえ「しんのすけー?何やってるのー?」
しんのすけ「ちょっと待ってー車の鍵が…」
みさえ「もー、また鍵どっかにやったの?ちゃんとわかる場所に置いておきなさいっていっつも」
しんのすけ「あ、あったあった!!」
みさえ「まったく…」
しんのすけ「そんな母ちゃんこそ、ちゃんと用意出来てんの?」
みさえ「あたり前じゃない!」
しんのすけ「…財布、台所に置きっぱなしだったぞ」
みさえ「え…あ!いけない!」
しんのすけ「やれやれ…」
ひまわり「あれ?ママは?」
しんのすけ「財布取りに行った」
ひまわり「また台所にでも置きっぱなしだったんでしょ」
しんのすけ「ポンピ~ン」
ひまわり「あはは、だらしないのは、お兄ちゃんそっくりね~」
しんのすけ「…ひまの財布もリビングにあったんだけど」
ひまわり「うっそ!!」
しんのすけ「親子ですなぁ」
あれから15年。しんのすけは大学生になった。
あの後、様々な苦労があったが、周囲の助けや、みさえの努力のおかげで、しんのすけは大学まで進学し、ひまわりも、無事中学生になることが出来た。今年はいよいよひまわりの受験だ。近場の高校の推薦を狙っているらしい。
しんのすけは背も高くなり、すっかりみさえの身長を追い越してしまった。父ちゃんとどっちが大きいかなんてみさえに聞いたら「同じくらいよ」と、笑いながら答えていた。
しんのすけ「…もう15年かぁ、父ちゃん」
あの年から、しんのすけ達は、毎年欠かさずひろしの墓参りに足を運んだ。銀の介達は、今でも暖かく迎えてくれる。ひまわりは、朧げだが、ひろしの記憶は残っているらしい。以前、尋ねたところ優しいお父さんだった、と答えて、「あと足が臭かったかな」なんて言っていた。
しんのすけ「母ちゃん、ひま、もういくぞー!」
みさえ「はいはい!」
慌ててしんのすけの車に乗り込み、みさえは一つ息を吐いて微笑んだ。
みさえ「じゃあ、行きましょうか」
しんのすけ「ほーいほい、出発おしんこう!」
ひまわり「きゅうりの糠漬け~」
お約束の掛け声に、車内は笑いに包まれた。
父ちゃん。
また大きくなったな、なんて思ってくれるかな。
少しはオラも、逞しくなったかな。
家族を守れるような男になれたかな。
なぁ、父ちゃん。
しんのすけは、ゆっくりとアクセルを踏み付け、車を走らせる。
柔らかい風が、車を包み込むように吹いていた。
END


