身近にある一之宮巡りへ
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)
丹波国一之宮、旧官幣中社
御祭神は、大国主命、三穗津姫命。(この二柱を出雲大神と称します)「日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり、
此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮」と紹介されています。古来大平和の御神意に拠り、国と国人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤く、
崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇和銅二(709)年に初めて社殿を造営。
現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し、
古来より今尚禁足の地であります。又御陰山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝えられています。
出雲大神宮・丹波国一之宮(京都):ぶらり寺社めぐり
籠神社(このじんじゃ)
丹後国一之宮、旧国幣中社
御祭神は、彦火明命(ひこほあかりのみこと)です。
相殿に、豊受大神、天照大神、海神(わたつみのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)をお祀りしています。社殿によれば、神代より「奥宮・真名井原(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)」に「豊受大神」をお祀りしてきました。
その後、第10代・祟神天皇の御代に「天照大御神」が大和国の笠縫邑から遷座され、
合わせてお祀りされることとなりました。第11代・垂仁天皇の御代に、「天照大御神」はこの地より遷座、
第21代・雄略天皇の御代には「豊受大神」が遷座され、
現在はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に鎮座されています。
これにより当社は「元伊勢」と称されています。当社は、養老3年(719年)に「真名井原」から現在地に遷座し、主祭神を「彦火明命」とし、
豊受大神、天照大御神を相殿にお祀りし、社名を「籠宮(このみや)」に改めました。「籠宮」の名は、御祭神が籠に乗って雪の中に現れたとの伝承によるものと伝えられています。
籠神社・丹後国一之宮(京都):ぶらり寺社めぐり
flickr Kono Shrine by kuribo
出石神社(いずしじんじゃ)
但馬国一之宮、旧国幣中社
御祭神は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)、出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)です。日本書記には、「(新羅の王子である)『天日槍』は垂仁天皇の御代に日本に聖王がいると聞いて、
播磨国にやってきた。その時持っていた『八種の神宝』を奉じたので、天皇から好きなところに住むことを許された。
そこで宇治川を遡って近江国に入り、その後若狭国を巡り、但馬国に至り『出石』に居所を決めた」と記されています。当時の出石一帯は泥海でしたが、天日槍は岩山を切り開いて濁流を日本海に流し土地を豊かに造り変え、
さらに鉄の文化を伝えることで殖産の興業に力を注いだと伝えられています。
「八種神宝」は「八前大神」として天日槍命とともにお祀りされています。創立年代は不詳。社伝によれば、奈良時代に谿羽道主命と多遅麻比那良岐が
「天日槍命」を祀ったことに始まると伝えられています。
出石神社・但馬国一之宮(兵庫):ぶらり寺社めぐり
粟鹿神社(あわがじんじゃ)
但馬国一之宮
御祭神は、粟鹿大神(あわがのおおかみ・お祀りされている十一柱の神々の総称)。
主な御祭神は三柱。
日子坐王(ひこいますのみこ/第9代・開化天皇の第3御子で山陰に派遣された四道将軍の一人)、
天美佐利命(あめのみさりのみこと/大国主の御子)
彦火々出見尊(ひこほほでみのこみと/山幸彦)です。創祀年代は不詳で、約2000年前以上とも伝えられています。
社伝には、景行天皇の御代、熊襲を征する行軍の途中、社殿を造営されたとの記録があります。「粟鹿」の名は、「鹿が粟を三束くわえて山(粟鹿山)から現れ、人々に農耕を教えた」との言い伝えに由来します。
粟鹿神社にはその鹿が祀られていると伝えられています。
粟鹿神社・但馬国一之宮(兵庫):ぶらり寺社めぐり
宇倍神社(うべじんじゃ)
因幡国一之宮、旧国幣中社
御祭神は、武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)です。
武内宿禰命は、第12代・景行天皇から、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の5朝に
お仕えした宰相です(複数名が名前を受け継いだものと考えられる)。
日本で最初に「大臣」の称を賜わり、総理大臣の祖ともいえる国の功神です。社殿によれば、創建は孝徳天皇大化4年(648年)。
「因幡国風土記逸文」には、「仁徳天皇55年、武内宿禰は御年360余歳で当国に下降し、
亀金の双履を残して行方知れずとなった」との記述があり、当地が武内宿禰の終焉の地と伝えられています。
その後、伊福部氏がその祖神である武内宿禰の御霊を、双履が残されていたとされる宇倍山の麓に
お祀りしたと伝えられ、これをもって宇倍神社と創祀とされています。(諸説あるようです)
宇倍神社・因幡国一之宮(鳥取):ぶらり寺社めぐり
倭文神社(しとりじんじゃ・しずりじんじゃ)
伯耆国一之宮、旧国幣小社
御祭神は、建葉槌命(たけはつちのみこと)です。
相殿に、下照姫命、事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高彦根命をお祀りしています。※建葉槌命・・・日本書紀に登場する神。経津主神と武甕槌命が「葦原中国」の国津神を平定しするのだが
星の神である「香香背男(かがせお)」だけは征服できなかった。
二神は「倭文神建葉槌命(しとりがみたけはづちのみこと)」を遣わし、ようやく服従したと記されている。創祀の詳細は不明。機織に携わった氏族である倭文氏が、祖神である「建葉槌命」を
お祀りしたことに始まるとされています。
※社伝には「下照姫命(したてるひめのみこと)に関するものが多く、かつては下照姫命が
主祭神だったのではないかとの推測がなされていました。
倭文神社・伯耆国一之宮(鳥取):ぶらり寺社めぐり
flickr 倭文神社_4 by variationblogr
出雲大社(いずもおおやしろ)
出雲国一之宮、旧官幣大社
御祭神は、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)です。明治4年までは「杵築大社(きずきたいしゃ)」と呼ばれていました。
下記の「国譲りの神話」によって築かれた社であると伝えられています。
「杵築大社(出雲大社)」は当時の日本において最大の建築物とされ、「雲太、和二、京三
(一番大きな建築物が出雲の杵築大社、二番目に大和の東大寺大仏殿、三番目が平安京の大極殿)」
との数え歌が残っています。
出雲大社・出雲国一之宮(島根):ぶらり寺社めぐり
flickr 出雲大社 by zenjiro
熊野大社(くまのたいしゃ)
出雲国一之宮、旧国幣大社
御祭神は、「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」です。
※素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名とされています。(出雲国造神賀詞にある神名)
※「伊邪那岐が可愛がられる御子で、神聖なる祖神であり、熊野に坐します尊い神である櫛御気野命」の意味。創建は神代と伝えられ、詳細は不明。
「出雲国風土記」(西暦733年)には「熊野大社」と記され、「延喜式神名帳」(西暦927年)では
「熊野坐神社」と記されています。火の発祥の神社として、「日本火出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)」とも称されており、
古来、杵築大社(きづきたいしゃ・現在の出雲大社)と並んで出雲国の大社として信仰を集めています。中世には「上の宮(熊野三社・・・御祭神は、速玉・事解男・伊弉冉三神)」と
「下の宮(伊勢宮・・・御祭神は、天照大神・素盞嗚尊・五男三女)」に分かれていたとのこと。
1881年に両宮は合祀。現在地は「下の宮」にあたります。
熊野大社・出雲国一之宮(島根):ぶらり寺社めぐり
flickr 出雲 熊野大社 by cyesuta
物部神社(もののべじんじゃ)
石見国一之宮、旧国幣小社
御祭神は、主祭神として宇摩志麻遅命(うましまじのみこと・物部氏の初代)、
相殿に<右座>:饒速日命、布都霊神、<左座>:天御中主大神、天照皇大神、
<客座>:別天神、鎮魂八神、をお祀りしています。物部氏の総氏神である、大和の石上神宮と表裏一体をなす神社とされています。
御祭神の父神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は、「十種神宝」を奉じ、天磐舟に乗って
大和国・哮峯(いかるがみね)に天降り、御炊屋姫命を娶られ、御祭神がお生まれになりました。社伝によれば、宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、物部一族を卒いて尾張国・美濃国・越国を平定し、
後にこの石見国で没したと伝えられています。
宇摩志麻遅命は社殿の背後にある「八百山」に葬られ、第26代・継体天皇8年(西暦513年)、
天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されました。これが物部神社の創祀とされています。
物部神社・石見国一之宮(島根):ぶらり寺社めぐり
水若酢神社(みずわかすじんじゃ)
隠岐国一之宮、旧国幣中社
御祭神は、水若酢命(みずわかすのみこと)です。
相殿に中言神(なかことのかみ)、鈴御前(すずごぜん)をお祀りしています。
※水若酢命は、古代に隠岐統治した大須別命(おおすわけのみこと)の御子とも伝えられ、
隠岐国の国土開発を行なった神と伝承されています。社伝によれば、第16代・仁徳天皇の御代の創建と伝えられていますが、詳細は不明。
※旧記では、第10代・崇神天皇御代の創建と記されているようです。
「延喜式神名帳」に「穏地郡・水若酢命神社」と記されている古社です。
水若酢神社・隠岐国一之宮(島根):ぶらり寺社めぐり
由良比女命神社(ゆらひめじんじゃ)
隠岐国一之宮
御祭神は、由良比女命(ゆらひめのみこと)です。創建の年代は不明。
仁明天皇・承和9年(842年)に官社に列格。
「延喜式神名帳(905年)」に名神大社「和多須(わたす)神」とその名が記されています。<イカ伝説>
社前の「由良の浜」には、毎年10月から翌年2月にかけてイカが押し寄せ、
別名「イカ寄せの浜」と言います。
かつて由良比女命が芋桶に乗って海を渡っているとき、海に浸した由良比女命の手をイカが引っ張ったの、
そのお詫びに、毎年「由良の浜」にイカの群が押し寄せるようになったと伝えられています。
由良比女神社・隠岐国一之宮(島根):ぶらり寺社めぐり
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