母が処刑され、庶子として過ごした幼少期
ヘンリー8世の王女として生まれたが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子とされた。
エリザベス1世 – Wikipedia
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義理の母の再婚相手といちゃつき、追い出される
14歳のエリザベスは、キャサリンの説得により自らの王位継承権が復活され、自身も残っている手紙の中でキャサリンを「大好きなお母様」と呼んでいたにも拘らず、シーモアと騒々しく遊び、悪ふざけをした。
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パールのネックレスは亡き母アンのものに、よく似ています。
1546年に描かれたようなので、当時13歳でしょうか。
庶子とはいえ、キャサリンのおかげで王位継承権も再び手に入ったのに。
しかも14歳にして、40歳を相手にするとは・・・。
シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩くこともあった。
ある日、キャサリン・パーが抱き合っている2人を見つけ、彼女はこの状況を終わりにさせた。
1548年5月にエリザベスは追い出されている。
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腹違いの姉に投獄される→メアリーの死後、王位継承
続くカトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が死去すると王位を継承した。
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さすがBloody Mary(血まみれメアリー)と呼ばれただけあるお顔ですよね。
自分の両親を離婚に追いやったアンブーリン(エリザベスの母)には、エリザベスの身の回りの世話をするようにとという仕打ちを受けたり・・・。
結婚したスペイン王とは子供に恵まれず、創造妊娠を繰り返したり・・・。
子供を生めない体質?!
数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その理由は明らかではない。
歴史家たちはトマス・シーモアとの一件が彼女に性的関係を厭わせた、もしくは自身が不妊体質であると知っていたと推測している[71][72]。
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独身を貫いたのは、母の死がトラウマの可能性大
未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由[74][75]や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも斬首されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因[76]とする説もある。
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妻のいる幼馴染との愛人関係
1559年春にエリザベスの幼馴染であるロバート・ダドリー(ジェーン・グレイ擁立事件で処刑されたノーサンバランド公の四男)への友情が愛情に変わり、広く知られるようになった。
彼らの交際は宮廷、国内そして外国でまで話題になった[78]。
また、彼の妻エイミー・ロブサート (en) が「片方の乳房の病」に罹り、女王は彼女が死ねばロバート卿と結婚するだろうとも言われた。
エリザベス1世 – Wikipedia
メアリー1世にロンドン塔へ送られていた幼なじみのエリザベスとは、牢番の子どもを使ってメッセージを送りあったとされている。
女性関係が派手な人物であり、1578年には初代エセックス伯ウォルター・デヴルーの未亡人レティス・ノウルズ(エリザベスの母の姉の孫)と再婚した。
彼女の連れ子ロバート・デヴルーは、実はウォルター存命中にダドリーとの間にできた、不倫の子であるとも言われる。
侍女と極秘結婚をした愛人を処刑
ローリー卿は新大陸(アメリカ)にエリザベスに因みヴァージニアを建設するなどし好意を得ていたが、エリザベスの侍女と極秘結婚したためロンドン塔に幽閉される。
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ほかにも、タバコを見たことがなかった召使いがローリーにバケツの水を浴びせたというエピソードがある。
1591年、密かに11歳年下の女王付きの女官エリザベス(ベス)・スロックモートンと結婚した。
翌年になってこの無許可の結婚が発覚すると、女王はローリーを牢に入れ、ベスを宮廷から解雇するよう命じた。
数年後には、ローリーは再び寵愛を受けるようになった。(!!!!!)
晩年の愛人は一人目の愛人の息子・・・?
レスター伯の義子であるエセックス伯は晩年の寵臣で、女王が老齢に達していたこともあり寛容であったが、反乱を起こし処刑されている。
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母方の曾祖母メアリー・ブーリンは、エリザベス1世の母親であるアン・ブーリンの姉だった。
エリザベス1世のお気に入りで、甘口ワインの専売権を得る。
エリザベスは、有能な者と美貌を愛でるための者を重臣として配置した。
エセックスは明らかに美貌を気に入られたが、本人は頭脳派も兼ねているつもりだったと言う歴史家もいる。
天然痘の痕と禿げにより、『時間が驚かされた貴婦人』と呼ばれる
実際の彼女の肌は1562年に罹患した天然痘の痕が残り、髪は半ば禿げあがり、カツラと化粧に頼っていた[167][168]。ウォルター・ローリー卿は彼女を「時間が驚かされた貴婦人」と呼んだ[169]。しかしながら、彼女の美貌がより失せるとともに、廷臣たちはより一層、褒め称えるようになった[167]。
友人たちの死後、うつ病を発症した後に生涯を閉じる
1602年秋まで女王の健康状態は良好だったが、友人たちの死が続き、彼女は深刻な鬱病に陥った。1603年2月のノッティンガム伯爵夫人キャサリン・ハワード (en) の死去はとりわけ衝撃となった。3月に彼女の健康状態が悪化し「座り込み、そして拭いがたい憂鬱」のままとなる[180]。1603年3月24日午前2時か3時、エリザベスはリッチモンド宮殿 (en) で死去した。69歳没。
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父親からの認知はされている場合を指し、認知をされていない場合は私生児となる。