【知っておくべき歴史】日本が手助けして独立を果たしたアジアの国々

tetsukota96
昨今、自虐史観という言葉が浸透してきました。あの大東亜戦争はなんだったのか。何をもたらしたのか?一部の人間達が創りだした擬物の歴史を正そうではありませんか。

正式名称ではない「太平洋戦争」

戦時中の日本の認識では「大東亜戦争」が正式なもの。
大東亜共栄圏という理想を掲げ、アジア諸民族の独立を大義名分とした。
これを「侵略のための大義名分」とする批判も多いが、真剣に理想のために戦った日本人が沢山いた。

アメリカに消された「大東亜共栄圏」という言葉

戦後、大東亜共栄圏や大東亜戦争という言葉を消し去ったアメリカ。
その理由は次の言葉で語られている。

東京裁判で日本を無罪とした裁判官 パール判事

要するに彼ら(欧米諸国)は
日本が侵略戦争を行ったということを
歴史にとどめることによって、
自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、
日本の17年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)
の一切を罪悪と刻印する事が目的であったに違いない。
ラダ・ビノード・パールの言葉

日本は負けた・・・しかし日本人はアジア人の誇りの種を撒いた。

インドネシア~オランダによる350年の圧政

1602年、オランダはジャワ島に東インド会社を設立し、植民地経営を始めました。首都のジャヤカルタはバタヴィアに改称され、以降350年間に渡って、オランダは東ティモール以外の領土を支配します。

第一次大戦後、1930年前後からインドネシアにも独立を希求する民族運動が発生しましたが、オランダはこれを厳しく弾圧しました。

オランダは、徹底的した愚民政策で狡猾にインドネシア全土を支配しました。100以上ある部族を互いに敵対させておくようにし向け、一部のオランダ人に従順な部族を警官として雇い、経済は華僑を利用し、現地人の反感がオランダ人に直接向かわないようにしたのです。統一言語ができると抵抗運動がおきるので、部族間の言葉はバラバラのままにさせ、道ばたで3人以上のインドネシア人が話していると処罰するほど徹底した支配でした。
インドネシア独立戦争の記憶 ~インドネシアはなぜ親日か~ | 朱雀式ニュース

インドネシアの独立と日本人

大東亜戦争が勃発、世界情勢は風雲急を告げます。蘭印にも日本軍がやってくるらしいという噂が流れ始めたある日、インドネシア人が爆音に空を見上げると、空にいくつもの白い花が咲き、戦士達が降下してきました。我らが空の神兵、日本軍の落下傘兵です。

これこそ、予言に謳われた黄色い人々ではないか! インドネシア人は驚き歓迎しました。彼らの協力も得て、落下傘部隊、銀輪部隊はすさまじい勢いでインドネシアを進撃し、オランダ軍はわずか9日間で完敗することになります。
インドネシア独立戦争の記憶 ~インドネシアはなぜ親日か~ | 朱雀式ニュース

日本は将来のインドネシア独立を見越して、インドネシア人の若者からなる祖国独立義勇軍(PETA)を組織し、日本軍式の軍事教練を施しました。このPETAが、独立戦争の中心戦力となり、後のインドネシア国軍の母体となったのです。今でもPETA出身の軍高官は「日本精神のおかげでオランダに立ち向かうことができた」と語っています。

2000人以上の日本軍将兵が、現地に残ってPETAと運命を共にし、4年にも及ぶ独立戦争を戦い抜いたのです。PETAは厳しい訓練を乗り越えたとは言え、実戦の経験はありません。彼ら歴戦の日本軍将兵は、インドネシア人を指揮して常に最前線で戦ったので、死亡率も非常に高かったと言います。
インドネシア独立戦争の記憶 ~インドネシアはなぜ親日か~ | 朱雀式ニュース

インド~イギリスの植民地支配

イギリスの植民地支配によりインド政府は毎年莫大な経費をイギリスへ支払っており、インドで生み出された収入はイギリスへ流失してしまう構造となっていた。さらに当時のインド経済を支えていた農業輸出では、輸出した綿などの価格の下落により生産者である農民の収入が減少し、土地、農耕器具などを貸金業者へ担保として渡したため、農業が衰退する結果となった。農業の衰退がその後数回発生したインドでの飢饉につながった。
インド植民地

インド独立と日本人

インド国民軍と共闘して行ったインパール作戦は大失敗に終わる。
この作戦で亡くなった日本兵は約50000人、インド国民軍兵は約3000人にものぼり、戦後も大東亜戦争で最も無謀な作戦の一つとして語られています。

戦後イギリスは
「インパール作戦に参加したインド国民軍は反逆者である」
として、3名の将校を処刑しようとしましたが、これがインド国民の怒りを買い抗議運動がインド全域に広がっていきました。

この抗議運動はインド国民軍の暴動にまで発展し、事態収拾が困難になったとしてイギリスは統治権を譲渡し、相当な年月がかかると思われたインド独立はパキスタンと共に1947年(昭和22年)8月15日に実現しました。
●アジアの独立と解放

インド国民軍退役軍人デロン中佐は、その後日本に手紙を出しています。

「日本はインドにとっては良い国だと思います。
日本はチャンドラ・ボーズと共にインド独立の為に戦ってくれました。
これははっきり言えます。
インドは日本軍の犠牲により独立する事が出来たのです。
もしあんなに犠牲者を出さず、又インド国民軍に協力しないでインドに進出した場合、インドの軍(イギリス軍インド部隊)は自分達の方針を変えなかったでしょう。
25万のインドの軍が方針を変え、チャンドラ・ボーズの軍となったことにより、イギリスから独立することが出来たのです。
私達は常に日本に対し感謝の気持ちを持っています。
最後にもう一度、ありがとうございました。」
●アジアの独立と解放

ビルマ(現ミャンマー)~1824年から1948年までイギリス領インドの一州とされる

イギリス帝国主義はビルマ植民地の森林資源(チーク林)を独占的に支配するために,まず森林資源の国家的所有を実現し,民間商社のチーク林伐採は政府発行の特許によって行ない,それは主に自国独占商社に与えられた。その結果,ビルマ人民の自主的経営は禁止され,全ビルマのチーク林資源はイギリス帝国主義の独占的支配下におかれたのである。このようにして経済的価値の高いチーク林資源はイギリス帝国主義に収奪され,それはビルマ人民の経済からまったく遊離することになったのである。
CiNii 論文 – ビルマ植民地,マレー植民地,タイ国半植民地(東南アジアにおけるイギリス帝国主義の森林開発の展開 (II) )(林学科)

ビルマ独立と日本人

「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」
日本への感謝を独立宣言に記録する国 ミャンマー – 日本が好きなだけなんだよ

最後に

日本は戦争をし、負けました。
しかし、アジアはその後次々と独立しました。
そしてそのリーダーたちは日本への評価と感謝の言葉を述べています。
これは事実なのです。
いくら侵略の大義名分と言われようが今現在たくさんの国々であふれるアジアの地図を見てください。そして彼らの言葉を聞いてください。

日本が影響を与えたことは2つのことです。
①誇り
白人の奴隷であったアジアの中で唯一白人達と互角に戦えるアジアの希望であった日本人。
ロシアを破り、大東亜戦争初戦でほとんどのアジア植民地を開放しました。
彼らは日本人に追われ、降伏する白人たちを見てアジアの誇りと戦う勇気を得たのです。
②教育
白人たちの植民地支配はプランテーションを代表とする完全なご都合主義でした。
その国の文化を否定し一部の特権階級を作り出し統治させ甘い汁を吸いました。
自分たちが儲かるような植民地経営であったため、教育などは必要なくインフラ整備などの行いませんでした。
しかし、日本はというと子どもたちへの学校教育やインフラ整備など彼らの身になった統治を行いました。そして軍事教育を施したことで後の独立戦争の礎を築きました。

残念ながら今の日本ではあの戦争のことはアメリカ、中国、朝鮮といった一部の国々のエピソードをかき集めたものしか教えられません。それは現在も続く自虐史観に至るのです。

なぜ白人の植民地だらけなのか?
なぜ日本は独立を保っていたのか?
なぜ他の国々は白人を倒せなかったのか?
なぜ日本が去った後、独立が相次いだのか?
なぜ、彼らは日本に賛辞を送るのか?
あの時代をもう一度学んでみましょう。

リンク

https://matome.naver.jp/odai/2136275328093176401
2013年03月09日