小林秀雄の本居宣長

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「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。 文学史交差点

戦争中のことだが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだことがある。それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、始めてお尋ねする機会があった。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞きながら、一向に言葉になってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気付いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出てしまった。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥ずかしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取り留めもない雑談を交わして来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。

小林秀雄
books pro: 小林秀雄全集〈第4巻〉作家の顔

はじめに折口信夫とはじめて会ったときの挿話がかかれている。別れぎわに折口信夫は「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ。では、さようなら」といった。これは重要なことをいわれたとうけとれるが、小林秀雄はそれ以上何を感じたのか語っていない。

吉本隆明

本居宣長というのは、何をした人か?

本居 宣長(もとおり のりなが、1730年6月21日(享保15年5月7日) – 1801年11月5日(享和元年9月29日))は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。
本居宣長 – Wikipedia

当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した。紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書[4]に出会って国学の研究に入ることになる。
本居宣長 – Wikipedia

真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』[5]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。

日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱した。
本居宣長 – Wikipedia

大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明や思想を尊重する荻生徂徠を批判した。

平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。これは、万葉の「ますらをぶり」を尊び、平安文芸を「たをやめぶり」と貶めた賀茂真淵の態度とは対照的である。
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2019年07月06日