「前田敦子はキリストを超えた – 濱野智史」の心に残った言葉

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AKB48は「いま・ここ」にある宗教である。

前田敦子はキリストを超えたとは

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

批評家 濱野智史氏による新書。

アイドルグループ「AKB48」のシステムやファンとの関係性を宗教の視点から捉える。

初版:2012年12月
出版:筑摩書房

AKB48は「いま・ここ」にある宗教である

「日本で匿名性の強いウェブサービスが普及するのは、日本社会が「個」の弱い集団主義的性質をいまだ抱えているからだ」

もちろん経済システムとして作動しているが、オタクたちから金を搾りとるために「総選挙」なる政治システムまで擬似的に取り込んでいる。

これはあくまで現時点での作業仮説にすぎないが、AKBという宗教には徹頭徹尾、「近接性」あるいは「内在性」しかない。

前田敦子はキリストを超えた

「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る 」は、AKBが宗教であるとすれば、間違いなくその聖典の一つとなる作品である。

なぜアンチに耐えられるのか

AKBという宗教の特徴は「近接性」にある。それを何よりも体現しているのが、劇場なのだ。

しかしAKBの総選挙ではそうではないのだ。カネで票が買えるからこそ、ファンが共同体のように団結できる。

人はなぜ人を「推す」のか

つまりAKBは、「超越性」なき「近接性」のみを貫いた宗教的システムなのである。

AKBにハマるきっかけというのは、劇場でのメンとのレスがもたらす「一目惚れ」のように、極めて刹那的な瞬間からはじまる。

AKBは、近接性と偶然性の元に、本来であれば血のつながった存在に抱く感情を、「推しメン」である未熟な少女へと差し向ける。

推しメンは偶然の一撃で決まる。

AKBは世界宗教たりえるか

AKBは普通に考えれば宗教では「ない」。当然である。それはアイドルにすぎない。

印象論も間違いではない。ひっくるめて、AKBは何か宗教のようなものとしかいいようがないコミュニケーション・システムなのだ。

この「近接性」こそが現代における「救済」としての意味を持ちうる。

AKBのような「関係性」そのものを商品として売るアイドルが出てきたのだ。いわば資本主義を批判するのではなく、ハックする形で、「疎外」を「近接」に置き換えていく宗教的装置。それがAKBなのである。

果たして何がAKBを特異な宗教たらしめているのか。それが「推す」ということである。

AKBという宗教において、私たちはメンバーの誰かを「推す」ために生きている。たまたま偶然出会った少女たちに、そこまで思い入れることができるということ。この時点で、もはやAKBは宗教というほかない。

私は、いまはまだ<世界宗教>という観点から見れば大変に規模の小さなAKBの総選挙も、今後も続いていけば、世界を一つにする可能性があると信じている。

何度も繰り返しているように、現時点でのAKBは、到底キリスト教のような世界宗教の水準には達していない。だが重要なのは今後のポテンシャルである。

あとがき

しかし<宗教>としてAKBを見ることにも、実は大きな限界がある。それはまだAKBの反面しか見たことにしかならない。それはなぜかといえば、AKBは「祭政一致」のシステムだからだ。

この本には、キリスト教やイエス・キリストを批判したり貶めたりする意図は一切ない。

関連リンク

https://matome.naver.jp/odai/2135527688159307401
2012年12月12日