ウラジーミル・ナボコフの著作

VNabokov
ウラジーミル・ナボコフの著作をまとめました。

彼が書く散文は、散文が書かれるべき唯一の方法で書かれている――すなわち、恍惚感にあふれているのだ。
ジョン・アップダイク『アップダイクと私』所収「ナボコフ名人」


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彼の散文の最も素晴らしい箇所には、人間の現世の営為がいかなる分類学にも載っていない外部の種によって逐一眺められていて、おりおりそこの使者が生者のくり広げる芝居で客演していくのだ、といった印象を与えるものがある。
W.G. ゼーバルト『カンポ・サント』所収「夢のテクスチュア――ナボコフについての短い覚書」

■ロシア語で執筆された小説

『マーシェンカ』

マーシェンカ
ナボコフの処女長編。

「哀愁のヴェールを通して浮かぶかわいらしい眉、細いつややかなうぶ毛。愛しのマーシェンカ――。鮮烈な追憶のうちに突然よみがえる甘美な初恋の日々と、ベルリンでの亡命者たちのうらぶれた生活を対比して描く青春小説」

初めての小説に自分や自分の代理を登場させて自己の私的な事柄に踏み込むことは初心者によくある傾向だが、手近なテーマとして魅力を感じるからというよりは、もっとよいものへ進む前に自分のことに始末をつけて楽になっていたいという気持ちからのほうが大きい。─『マーシェンカ』〈英語版への序文〉
いま、何年ものちになってみると、空想上の出会いと現実に起った出会いとが互いに分ちがたく混ざり合い溶け合って、生きた人間としての彼女がその前ぶれとなった少女のイメージと切れ目なく連続していることが感じられる。─『マーシェンカ』
ガーニンは今になって、秋の庭園のさわやかな匂いとまじり合ったその香水の匂いを思い出してみようとしたが、周知のように記憶というものはどうしても匂いだけはよみがえらせてくれない。過去と結びついた匂いほど、その過去を完全に生き返らせてくれるものはないのだけれども。─『マーシェンカ』
二人の手紙が当時の恐ろしいロシアの中をどうにか越えてゆく有様には、どこか感動的で驚異的なものがある。一羽のモンシロチョウが堀を飛び越えてゆくようなものだ。─『マーシェンカ』
マーシェンカ (1987)
ジョン・ゴールドシュミット監督により映画化。

『キング、クィーンそしてジャック』

キング、クィーンそしてジャック
「三角関係」という古典的で伝統的な主題を扱った、ナボコフ流の「姦通小説」。
フランツは腕時計をちらりと見た。文字盤は複雑に咬み合った金属の網で頑丈に保護されている。にもかかわらず、おびただしい時間がその牢獄から逃げ去ったのだ。─『キング、クィーンそしてジャック』
時には、けだるい重みが彼には堪え難くなり、彼女が脇見をしているのをいいことに、彼女の美しさのなかにささやかな瑕を見つけ出し、それを心の支えにして、空想を醒まし、官能の容赦のないときめきを鎮めようとした。─『キング、クィーンそしてジャック』
彼は大理石のように美しい妻をもった独身者だった。何も蒐集する対象がない情熱的な蒐集狂だった。死に場所である山頂を見出し得ぬ探検家、記憶に留まらぬ本の貪欲な読書家、そして、幸福にして健全なる失敗者だった。─『キング、クィーンそしてジャック』
壁紙の模様──赤褐色の花束がくり返し変化がつけられて、規則正しく連続したもの──は三つの方向からドアに辿り着いたものの、これ以上もう行き場がなく、みごとに統一がとれているけれども、人間の考えと同様、部屋を離れることもできず、自分たちの地獄の圏内から抜け出ることもできない。

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King, Queen, Knave (1972)
イエジー・スコリモフスキ監督により映画化。

『ディフェンス』

ディフェンス
「天才チェスプレーヤー、ルージンに唯一の幸福をもたらすはずのチェスが、彼を狂気と破滅に追いやっていく――。何よりもチェスを愛した作家が描く、孤高の物語」
彼が求めている秘密は単純なもの、調和のとれた単純さであり、それこそがこの上なく精密にできた魔法よりもはるかに人を驚かせることができるのだ。─『ディフェンス』
チェス盤を眺めても脳はこれまで前例のない疲労感で萎縮した。しかしチェスの駒たちは無慈悲で、彼を捕らえて放さないのだった。そこには恐怖があり、そこにまた唯一の調和もある、というのも世界にはチェス以外に存在するものなどあるだろうか?─『ディフェンス』
記憶の中には薄明かりに照らされたささやかな回廊があり、そこにはなんらかの形で好奇心を誘われた人々がずらりと並んでいる。─『ディフェンス』
愛のエチュード (2000)
マルレーン・ゴリス監督による『ディフェンス』の映画化作。

『目』


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ナボコフの「小さな長編小説」。

http://www.amazon.co.jp/dp/4560043019/

人生が実は夢であると突然判明することは恐ろしいが、それよりも遥かに戦慄的なのは、夢だとばかり思っていたこと──流動的で無責任な事柄が出しぬけに凍りついて現実そのものに変貌し始める瞬間である!─『目』
自己破壊を決意した人間は世俗的な事柄からは遥かに遠ざかっているのである。その場合、腰を落着けて遺言状を書くことは、ちょうど腕時計のネジを巻くことと同じ程度に不合理ではないか。なぜなら全世界はその人間もろとも滅びるのだから。─『目』
歯痛から戦争が起こるかもしれないし、小糠雨のせいで蜂起は失敗するかもしれない。すべては流動的であり、すべてはチャンス次第であり、あのヴィクトリア朝風の格子縞のズボンをはいた気むずかしい市民、『資本論』の著者の努力は、不眠と偏頭痛の果実は、すべて虚しいのだ。─『目』
私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。─『目』
なぜなら、私は存在しないのである。存在するのは私を映す無数の鏡たちだけなのだ。知人が一人ふえるたびに、私に似た幻影の数は増加していく。幻影たちはどこか私の知らぬ場所で生き、私の知らぬ場所で殖える。私は単独では生存していない。─『目』

『偉業』

偉業
ロシア育ちの多感で夢見がちな少年マルティンは、両親の離婚とともに母に連れられクリミアへと移る。その後、革命を避けるようにアルプスへ、そしてケンブリッジで大学生活を送るのだが…。うねるような息の長いナボコフ独特の文章を忠実に再現、「自伝的青春小説」が新しく蘇る。
ボートは花が咲き乱れる両岸のあいだを滑って行った。透きとおって緑がかった水面にはマロニエが映ったり黒苺の乳白色の灌木が映り込んだりしている。ときおり花びらが落ちてくると、水に映ったその像も水底から相手に向かって慌ててあがってきて、最後には──ひとつに合わさるのだ。─『偉業』
アゲハチョウが燕みたいなその尻尾を開いたり閉じたりして飛び過ぎて行った。─『偉業』

『偉業』の英訳 “Glory” からの翻訳。

『カメラ・オブスクーラ』

カメラ・オブスクーラ
「裕福で育ちの良い美術評論家クレッチマーは、たまたま出会った美少女マグダに夢中になるのだが、そこにマグダの昔の愛人が偶然姿をあらわす。ひそかによりを戻したマグダに裏切られているとは知らず、クレッチマーは妻と別居し愛娘をも失い、奈落の底に落ちていく……」

ロシア語原典から初の翻訳。

『マルゴ』は、『カメラ・オブスクーラ』の英訳 “Laughter in the Dark” の邦訳です。

実際のところ、女に一目惚れしたからというだけで、ブローニングを手にとって、知りもしないその女を撃つなど無理な相談だろう。─『カメラ・オブスクーラ』
言うも奇妙なことに、恐怖はどこかにかき消えてしまい、悪夢はもはや、あのいくぶん妄想じみてはいるが満ち足りた状態へとうつりかわっていて、そんなときには罪をおかすことすらが甘ったるく、なんの呵責も感じないでできる。というのも、人生は夢なのだから。─『カメラ・オブスクーラ』
おそらく、彼のなかでたったひとつまがい物でなかったのは、芸術や学問の領域で人が生みだすものはなにもかも、大なり小なり洒落の利いた手品か、うっとりするようなペテンなのだ、という無意識の信念だけだった。─『カメラ・オブスクーラ』
マグダは座って悲しげな笑みを浮かべた。涙はまたとないくらい彼女を美しくした。顔は赤く染まり、濡れた瞳はきらきらひかり、頬にはなんともすてきな洋梨のかたちをした涙の粒が細かく震えていた。─『カメラ・オブスクーラ』

こちらもロシア語原典からの翻訳。

『絶望』

絶望
〈完全犯罪〉を描いたナボコフ初期の傑作! 自分そっくりの男を身代わりにした保険金殺人の結末は?

ロシア語原典から初の翻訳。

文学の主人公たちの蒼白い体は、作家の栄養指導をうけながら、読者の生血(いきち)を吸って肥え太るものなのだ。作家の天才とはひとえに、この養分を使って主人公たちに生き返る力をあたえ、長生きさせることにある。─『絶望』
なんてことだろう、ぼくの小説は日記へと退化しようとしている。でもどうしようもない。ぼくはもう書かないでいることなどできないのだから。もっとも、日記ってやつは、文学のなかでもいちばん低級な形式さ。─『絶望』
どうあがいてもぼくは自分の殻のなかに立ちもどって、以前のようにおのれ自身のなかでくつろいで過ごすことができない──そこはとんでもない散らかりようだからだ。家具は手当たりしだいに入れ換えられちまってるし、電球も切れ、ぼくの過去ときたらぶつ切り状態なのだ。─『絶望』
木の葉がくるくるまわりながら落ちてくると、水に映った寸分たがわぬその影もまた、落ちてくる木の葉に向かってくるくると上昇する。ぼくは、避けようもなく出会ってしまうこうした木の葉から目をそらすことができなかった。─『絶望』
Despair (1978)
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督により映画化。

『断頭台への招待』


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断頭台への招待
時代や場所も定かではない架空の専制国家が舞台。その罪名すらも判然としない理由のために死刑を宣告されて投獄生活を送る主人公の孤独な内面を凝視したアンチ・ユートピア的な小説。

後年の『ベンドシニスター』も専制国家が舞台。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000J8V3Y0/

不恰好な小さな窓から夕陽が射し込むことがわかった。赤々と輝く平行四辺形が横の壁に現われた。独房のなかは、驚異的な色素を含んだ、黄昏という油絵具で天井までいっぱいに塗りたくられた。─『断頭台への招待』
救いを求めたなんて奇妙なことだ。現実には一度も手にしたことのないものを、夢のなかで最近失くしたからという理由で嘆いたり、あるいはそれをふたたび見つけるという夢を明日こそ見るのではないかと期待している人間そっくりではないか。─『断頭台への招待』
橇滑りのあとで家に帰る途中、夜の帷の降りることの何と早かったことか……夜空にはどういう星が、どういう思いや悲しみが。そして下界にはどういう無知が。─『断頭台への招待』

『賜物』

賜物
「ベルリンに亡命した青年が、世界的な蝶の研究者である偉大な父への追憶を抱きつつ作家として自立するまでを描く。ロシア語原典から初の邦訳」

ナボコフはロシア語で書いた自作のベストに『賜物』を挙げています。

「作家が、自分はいかにして作家になったかを小説の形で書くことがある。ロシアからの亡命青年ナボコフは、作家になるという運命を選び取り、そこから生じる苦労を神からの賜物として引き受けた。文学は充分その苦労に値するのだ」(池澤夏樹)

写真家オリヴィア・パーカーの作品を使用した帯が美しいですね。

天才というのは、夢で雪を見るアフリカの黒人のことだろう。─『賜物』
定義とはつねに限度を定めることだが、ぼくはそのもっと先に行くことを切望する。様々な障害を(つまり言葉の、感情の、世界の壁を)乗り越えて、ぼくは無限を探し求めているのだ──すべての、本当にあらゆる線が一つになる無限という場所を。─『賜物』
本物の作家は、どんな読者だって無視するべきなんです──ただ一人の読者を除いて。それは未来の読者ですが、それもまた結局のところ、時の中に映し出された作者なんですよ。─『賜物』
自分の周りを歩き回っても、自分自身のことは結局避けて通り、太陽ばかりを追いかけることになってしまう。ところが思考が愛するのはカーテンであり、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)なのですよ。太陽がけっこうなのは、そのおかげで影の価値が高まるからです。─『賜物』

『魅惑者』

魅惑者
『ロリータ』の原型となった中編。
ナボコフの死後、息子ドミトリによる英訳が出版。
二人だけで、はるかな国に住もう。時には丘に、時には海辺に。未開人のように裸がごく自然な習慣になってゆく、温室さながらの暖かさのなかで、ただ二人きり(召使も傭わず)、誰にも会わず、永遠の子ども部屋に住んで。やがて、残った恥かしさも消えてしまう。─『魅惑者』
これは好色では決してない。野卑な肉欲はむさぼる一方だが、精妙な快楽には必ず最後に満足が訪れる。五回や六回のごく正常の情事に耽ったとして、どうしたと言うのか。そんな気の抜けた戯れが、私の唯一の炎とくらべられようか?─『魅惑者』

■英語で執筆された小説

『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』

セバスチャン・ナイトの真実の生涯
「小説家で腹違いの兄セバスチャンの伝記を書くため、生前の兄を知る人々を尋ね歩くうちに次々と意外な事実が明らかになる…」

英語で執筆した最初の長編。

水中の青白い砂の上に宝石が輝いているように見えるので深く肩まで腕を突っ込んだ後で、にぎりこぶしのなかに発見するただの小石は、日常的な日の光に乾かされると小石のように見えるけれども、本当は垂涎ものの宝石なのだということをぼくは知っている。─『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』
チョコレート売りの少女がかすかに、ほんのかすかに足を引きずっているのではないかしらと感じるのは、群衆のなかで自分一人だけなんだと思うようなとき、ぼくはまるで盲人や狂人たちの間に挟まって座っているような気が始終するのだった。─『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』
教わった話は本当は三重になっていることに心するがよい。語り手が作り、聞き手によって作り直され、肝心のその話の主人公である死者の話は、語り手、聞き手双方の話のなかに包み隠されているからだ。─『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』
どうして過去はこんなにも反抗的なのだろう?─『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』

『ベンドシニスター』

ベンドシニスター
「独裁的警察国家で運命を弄ばれる主人公クルークとその息子。やがて魔の手が息子を人質にとり…」

渡米後に書かれた最初の長編。
ディストピア的全体主義国家が舞台。

まだこの年頃(八歳)では、いずれにしても、きちんとした微笑を浮かべることはできない。微笑は口もとだけでなく、顔全体に拡がってしまう──もちろん、その子が幸福であればの話だ。この子はまだ幸福な子供でいる。─『ベンドシニスター』
過去の資料の助けを借りて未来の計画を立てようとすれば、未来というものの基本原理を無視することになる。未来の基本原理は、いまだ全く存在しないということですからね。この空無へ向かっての、現在の目も眩むような殺到を、我々は何か合理的な運動と誤解しているのです。─『ベンドシニスター』
服従だなんて、ありえないことです──なぜって、我々がいまこの問題を論じているということは、まさに我々が好奇心をもっているということであり、好奇心をもつということはつまり、不服従のもっとも純粋な形態ですからね。─『ベンドシニスター』
みんなこんな経験をするのだろうか? 心はまったく違ったことを考えているというのに、まるで刑務所長の子供が脳の独房からそっと出してくれたみたいに、誰かの顔や、言葉や、景色が気泡となって、過去から不意に浮かびあがってきたりするのだろうか?─『ベンドシニスター』

『ロリータ』

ロリータ
「世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある」

説明は不要でしょうか?
ナボコフの代表作にして、20世紀世界文学の最高峰。

写真家ジャンルー・シーフのカバー写真が美しいですね。

スタンリー・キューブリック監督、エイドリアン・ライン監督により映画化されています。

ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ。植字工よ、このページが埋まるまで繰り返してくれ。─『ロリータ』
朝、四フィート十インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。署名欄の点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。─『ロリータ』
私は自分が誇らしい気分になった。未成年者のモラルを損なわずに、痙攣という蜜を盗んだのである。まったく何も危害を加えていない。若い女性が持っていた新品の白いハンドバッグの中に、奇術師がミルクと、糖蜜と、泡立つシャンペンを注ぎ込んだのに、見よ、バッグは元のままなのだ。─『ロリータ』
ハンバーガーとハンバートのどちらを取るかと言われたら、彼女はいつも、氷のようにきっぱりと、前者を選ぶのだった。溺愛された子供ほど冷酷なまでに残虐なものはない。─『ロリータ』
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
殺人者というものは決まって凝った文体を用いるものである。
ロリータ
大久保康雄氏訳。
http://www.youtube.com/watch?v=QzM6K_0hjaY
エイドリアン・ライン監督版『ロリータ』のドロレス・ヘイズ役、ドミニク・スウェインとハンバート・ハンバート役のジェレミー・アイアンズのスクリーン・テストの様子。

『プニン』

プニン
「亡命ロシア人プニン教授のアメリカでの生活を、ユーモア溢れる軽妙なタッチで、ときにアイロニカルな悲哀をおりまぜて描いた長編小説」

プニン教授は『青白い炎』にカメオ出演しています。

だいたいあの精神医学などと称するものは、どうして人々の秘かな悲しみをそっとしておいてはやらないのでしょう? 悲しみこそはこの世で人々が本当に所有している唯一のものではないでしょうか?─『プニン』
彼は神の独裁を信じなかった。その代わりに、亡霊たちの民主政治をぼんやりと信じていた。多分、死者の霊がいろいろな委員会を組織して、絶え間なく会議を開きながら、生者の運命を司どっているのだろう。─『プニン』

『青白い炎』

青白い炎
「詩人ジョン・シェイドの999行からなる詩『青白い炎』を本文に掲げ、序文と注釈と索引を付して、研究書の体裁に整えたのが、チャールズ・キンボート。彼は詩人の隣人でもあり、ロシア文学の教授でもあるのだが、実は狂人…。彼の施す長大な注釈からはサスペンスが横溢する。二つの異質なエクリチュールを配することで、合わせ鏡の迷宮にも似た不思議な文学空間の現出に成功。実験小説の傑作!」
三段論法。他人は死ぬ。しかしぼくは
他人ではない。ゆえにぼくは死なない。

[註釈]これは少年を面白がらせるかもしれない。年を取ってから我々は自分たちがその「他人」であることを知るのである。

─『青白い炎』

類似は差異の影なんだよ。異なった人々は異なった類似や似通った差異をよく見つけるものなんだよ。─『青白い炎』
七つの大罪はすべて些細な落度であるが、大罪のうちの三つ、すなわち《高慢》、《色欲》、《怠惰》なくして、詩は絶対に生まれなかったかもしれない。─『青白い炎』
この重要な註釈をいささか反ダーウィン風な箴言で締めくくらせてほしい。人を殺す者はつねに自分の犠牲者よりも劣っているのである。─『青白い炎』
淡い焰(新訳版)
2018.11

『アーダ』

アーダ
「ロシア貴族の末裔、同じ父の血をひく危険ないとこ同士ヴァンとアーダが奏でる限りない愛と性のシンフォニー」

ナボコフの最長の長編であるファミリー・クロニクル。『青白い炎』と並ぶ最難関。

それというのも、人間の脳というやつは、それ自体が数百万年もかけて、数百万の土地で、泣き喚く数百万の人間に対して発明し、うち建て、かつ使用してきたあらゆる拷問場の中でも、最もすさまじい拷問場になりうるからだ。─『アーダ』
果てしなく、着実に、デリケートに、ヴァンはアーダの唇に自分の唇をこすりつけ、二人の燃えるように熱い花を、前後に、右へ、左へ、生へ、死へとしつこく悩ましながら、ひらけた田園風景の軽やかなやさしさと、隠された肉体のみだらな充血とのコントラストを、大いに楽しんだものだ。─『アーダ』
最大の悲しみを癒す最大の薬は、奇想天外なことをやってのけることだ。─『アーダ』
未来というやつは、〈時間〉の法廷では、いかさま師にすぎない。─『アーダ』
アーダ(新訳版)
2017.09
アーダ(新訳版)

『透明な対象』

透明な対象
「とある冴えない編集者と大作家と美しい女性。3人の男女のまわりにナボコフ一流の仕掛けが二重三重に張り巡らされ、やがて読者を迷宮へと誘い込む…」
自然および人工物の表面には直截な現実性という薄い膜が張られているので、現在の中に、現在と共に、現在の上にとどまろうとする者は、どうかその張りつめた薄膜を破らないでもらいたい。─『透明な対象』
心のみじめさに探りを入れてもかまわないのは、専門家が、専門家のために、という場合に限られる。─『透明な対象』
我々がやらないことになっているもうひとつは、説明不可能なものを説明することだ。黒い重荷、ずきずきする巨大な瘤を背負いながらも、人間はなんとか生きてきた。すなわち、「現実」とは「夢」にすぎないのかもしれないという仮説である。─『透明な対象』

『見てごらん道化師(ハーレクイン)を!』

見てごらん道化師(ハーレクイン)を!
ナボコフの生前最後に完成された長編。
作家ナボコフの生涯をパロディ化したような作品。
木も道化師、ことばだって道化師。状況だって、算数だってそう。二つのものを合わせてごらんなさい、たとえば冗談とイメージね、そうしたら三重の道化師のできあがり。そら、楽しむのよ! 世界をでっちあげるのよ! 現実をでっちあげるのよ!─『見てごらん道化師(ハーレクイン)を!』
偶然というのは、平凡なフィクションの中ではポン引きとかいかさまトランプ師ほどの意味しかないが、非凡な回想者によって思い出された事実の織りなす模様の中では、驚くべき芸術家だ。─『見てごらん道化師(ハーレクイン)を!』
自分の初めての本が出版されると、作家というものは皆、その本を褒め称えてくれる人たちというのは自分の個人的友人かあるいは直接面識はないにせよ我が同朋であると思うものだし、逆にそれを罵る者は、妬み深い悪党か取るに足らない存在にほかならない、と思うものだ。─『見てごらん道化師を!』
女の子が俗っぽい恋愛小説みたいな口調で話し始めたら、ちょっと辛抱するしかない。─『見てごらん道化師(ハーレクイン)を!』
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