聖ヨゼフの階段
サンタフェにあるロレット・チャペルは、建築家 P.ムーリーによってが設計されて1873年から工事が始まった。しかし構築物がほとんど完成されてから一つの恐るべき誤りが発見された。
せっかく作られた聖歌隊用の二階の桟敷行く階段が無いのである。
困ったシスターたちは、多くの大工を呼び相談したが、皆、これに、ふさわしい階段できない。
バルコニーを作り直すか、ハシゴで登るかだというダケだった。
途方に暮れたシスターたちはノヴェナ[九日間の祈り]をすることにしたという。
そしてノヴェナの最後の日に一人の灰色の髪の毛の男が一匹のロバを連れやってきた。
その老人は一つの道具箱を持ってアカデミーの所で止まり、シスターたちのために一つの階段を建設することができるかどうかを尋ねた。シスター達は喜んで同意すると、
彼はシスターたちの前で木片をタライにつけて作業を開始した。
用いた道具は一本の鋸、T定規それに金槌だけ。
出来上がった階段は33段、完全に360度を2回転するらせん状。
木の釘は使われているが、鉄の釘は一本も使われていない。そして驚くことに、
螺旋階段を支えるはずの支柱がなく、まるで宙に浮いているようにみえる。
この支柱の無い現在の科学を持ってしても建築工学上の謎であり奇跡といわれている。
そして階段が完成すると、その男の人は支払いを受ける前に不思議にも姿を消してしまったという。
なお、地方の材木工場は、この事業のために購入されたいかなる木材の記録も持っていなかったという。
マンドラゴラ
魔術や錬金術の原料として珍重される植物。絞首刑になった男の精液から生じるという言い伝えがある。
人の体のような根がその本体であり、引き抜くときにこの世のものとは思えないような悲鳴を上げるとされ、
この悲鳴を聞いたものは発狂して死んでしまうという伝説がある。
このため、マンドラゴラを採取する際には、注意深く値を掘り、人が遠くに離れてから、
犬に引っぱらせて引っこ抜くという手間をかけるという方法が取られる。
その手法はこうだ。マンドラゴラに犬を結び付けて人は遠くに離れる。そして十分な距離を取ったのちに大声で犬を呼ぶ。
犬が人の方へ駆け寄ろうとする勢いで、マンドラゴラは悲鳴を上げながら抜ける。
当然、この声を聴くことになる犬は発狂して死んでしまう。
市場では、その時に死んだ犬の死体を本物の証明としてマンドラゴラの証明として、一緒に取引される。
十分に成熟したマンドラゴラは、自ら地面から這いだし、自らの先端の根っこを足のように使い徘徊すると言われる。
その姿はコボルトやごプリンに似ていると言われる。
地中海地域から中国西部にかけてに自生する植物であるマンドレイクが、マンドラゴラのもとになったと言われているが、
このマンドレイクも人の体のように枝分かれする根を持ち、その根には幻覚、幻聴を伴い時には死に至る神経毒を持っている。
デスバレーの動く岩
米国カリファルニア州のデスバレー国立公園に奇妙な石がある。干からびた大地の上に点在する数十個の石に、
それぞれてんでバラバラに引きずられた後がついているのだ。近年では、監視する取り組みもおこなわれているが、
その瞬間を見た人は誰もい。ただ気がつけば石が動いた軌跡のみが残されているという。
このことは古くら知られており、1948年には地質学者ジム・マクアリスターらが、エリアの岩盤をマッピングしその謎を探ろうとした。国立公園の博物学者たちも、この謎に取り組もうとさまざまな記録を残している。
現在有力な仮説として、ジョン・リード博士の説がある。このデスバレーで、
冬季に雨が降ると浅い湖が出来て、夜になると表面に薄い氷が張という事から、
その氷が石に付いて地表からわずかに意思を浮かせ、そこに強風が吹くと石が移動することになるのではないかという説である。
しかし、それにしては石の軌跡がそれぞれに違い、時には蛇行したり、鋭角に曲がったり、
また逆方向へ進んでいたりするという説明をするためには、
それぞれの石に違った方向から吹く風が当たらないと説明がつかず、完全な説明とは言われていない。
この問題は、今なお全米の科学者たちを悩まし続け、
今でもあらたな実験や仮説が提唱されては消えていく状態であるという。
デオンという男、あるいは女
18世紀のフランスの外交史上に不思議な人物がいる。その名をシャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモンという。この人は、生涯の前半は男性として、後半を女性として生きたという。
女装させて8歳まで女の子として育て、その後も女装を好み、世間から少女として扱われることに喜びを感じるようになったデオンは、その美貌からルイ15世が、ぞっこん惚れ込んだという。この国王はデオンのその女装と美貌を外交に利用しようとしたのだ。
27歳のデオンは完璧な女装をしてリア・ド・ボーモンという女性の偽名でロシアに渡った。そしてロシアのエリザベータ女帝に近づき、
密かに情報をルイ15世に送っていた。当時、デオンの存在は一部のモノをのぞいてはフランス政府ですらその存在が隠されていたという。
そして二度目にデオンがロシアに渡った際は、女装せずに普通に男性としていた。今度はデオンは、ボーモンの兄であるという触れ込みで、
周囲の人々をごまかしたという。
その後フランスに帰国したデオンは、男性として軍隊生活を送る。デオンの武勇は多く、フェンシングの達人でもあったという。
また一方で、デオンの外交手腕は確かなものであったらしく、全権公使を任ぜられ英国に渡った。英国の社交界にも顔を出し、
しばしば女装で現れて英国社交界を混乱させたという。
英国社交界に入り浸るようになったデオンは、英国王のジョージ三世の妃と懇意になる。ある日、一夜を共にしたことが一部の
人間に知れてしまったというのだ。すぐさま帰国しなければ命が危ない。だがフランス政府はこのときとばかり、
帰国の引き換えとしてデオンがスパイ生活で得た数々の機密文章の提出と、死ぬまで女性の姿でいることを条件として出した。
なるほどデオンが女性を押し通せば、妃との男女の関係が無かったことになる。しぶしぶデオンはこのことに従う。
帰国したあとのデオンは、デオンの性別に興味を持つ多くの大衆に絶大な人気があったという。
またデオンは時としてフェンシングの剣を握り、スカートをまくしあげて決闘をおこなったと伝えられている。
デオンが死亡した時には、医者化゛その死体を見分し、男性らしからぬ胸のふくらみと、小さな男性器をみつけたと伝えられている。
大師の弟子
大師御廟は撮影禁止だと本山を案内してくれた僧侶は言った。
厳粛な佇まいの大師御廟を参拝した後で、
ふと裏手が気になった。
覗き込むと無数の石塔ともいえぬような石が寄り添うように無数にある。
「これはなんですか?」
案内してくれた僧侶に尋ねると、僧侶は其方に手を合わせて
「修行中に亡くなれた方たちですよ」
と教えてくれた。
「しかし数が多すぎる。どうして、このような祀られ方をされているのですか」
「昔は、修行のさなかに気が狂うというような事がおおかったと聞いております」
詳しく話を聞くと、まだ仏教の実践が試行錯誤の段階であった時代、
かの地では高みに登るために中には過激とも思えるような多くの行が行われて、
それで精神を壊して狂い死にする人も多くいたらしいという事。
それらの人々は一番に目指した大師のすぐそばのここに
名も刻まぬまま埋葬されたことがあったという。
「修行と言うのは精神の矯正で、いってみれば精神の奇形のようなものを
目指すところがあるのかもしれません。盆栽などと同じで、
無理に急な力をかけてしまうと、ぽっきりと折れてしまうことがあるのかもしれませんね」
僧侶は、そう言ってふたたび手を合わせた。
サルガッソー海
メキシコ湾流、北大西洋海流、カナリア海流、大西洋赤道海流にと言う
海流の流れに囲まれた長さ3000キロ以上、幅1100キロ以上になる海域。
これらの海流が時計回りに回って巨大な渦を作っているため、この海域は潮の流れが無い状態となり、あらゆる浮遊物が流れ込み滞留している。
特に数百年にわたってサルガッスムと呼ばれる海藻類が密集してそれらが絡み合い、潮の流れのない無風状態が続くとそれらが
半液体状になるまでになってしまい「粘りつく海」ともよばれることがある。
帆船の時代はまさに魔の海域であった。
もともと風の弱い亜熱帯に属しているうえに、潮の流れも無くなると
その粘りついた海からに足をとられた帆船は、数週間は身動きがとれなくなるということが常だった。
船乗りは乗員の食糧保全のため、飼料を消費する積荷の馬を捨てる、あるいは食べてしまわなくてはならなくなるので
「馬の緯度」と呼ばれ忌み嫌われた。
この海で風に恵まれず立ち往生してしまうと、何週間も動けずにいる間に船体に海藻が絡みつき、風が吹いたときには
既に動けない状態になってしまっていることがあったという。そのため船乗り達は水と食糧の不足でしばしば全滅したという。
この海で風に恵まれず立ち往生してしまうと、何週間も動けずにいる間に船体に海藻が絡みつき、風が吹いたときには
既に動けない状態になってしまっていることがあったという。そのため船乗り達は水と食糧の不足でしばしば全滅したという。
現在でもこの海域は、小型の船舶にとっては危険でサルガッスムがスクリューに絡まってしまうと
そのまま動けなくなることがあるという。そうなると自力で脱出することは厳しくまた岸に流れ着くこともない。
何らかの事情で救難信号を発することが出来なければ、船は乗組員が死に絶えた後も
そのままその海域を漂い続けていることになるという。
電波ジャック
今の日本の放送局では、単に番宣のことをいったりしているが本来は、
正規の放送に第三者が許可なくいきなり割り込んできてメッセージなどを送信することを言う。
いくつか有名な事件があるが、1987年にアメリカのマックス・ヘッドルーム事件は未だ犯人が捕まっていない事件として有名である。
この奇妙な放送の内容は、テレビドラマの最中に、突然、画面にマスクを被った男が現れて意味不明な言葉をまくしたてる。
そして、そのマスクの男はズボンを脱がされて女性にお尻をハエ叩きで叩かれるという映像だった。
このどことなくユーモラスな内容で、おおくの人々の関心を引いた。
さらにワイオミング事件という、不気味な放送が流れたというものがある。
現在では砂嵐の映像が鮮明すぎるので、フェイクではないかと言われているが
犯行グループがマスターに近い所で録画した物が流失したものである可能性も提示されている。
日本でかつて発生していた電波ジャック事件は、過激派がなどが起こした
政治的な内容のもんが主体であったが、デジタル放送への移行で技術的にテレビの電波ジャックは不可能になったとされる。
一部でデジタル放送への移行を急いだ理由に、有事の際に某国からの電波ジャックを恐れていたためと言う話もある。
しかし実際のところは現在、アナログ波が開いている状態であり以前より低出力でアナログ波に電波が
乗せれる状況になったっているという。それに現在はまだ受信チューナーもかずおおくでまわっている状態である。
放映そのものは確認されていないが、アナログ放送終了後に、2chにて
西日本でのアナログ波の電波ジャックを予告するような内容の書き込みがあったりしたことが一部で知られている。
R村の橋
自分が住んでいる街から、車で20分ぐらい行ったところにR村という、小さな村がある。
かなり古い村で、建物は入植当時のものが結構残っていて、教会や橋(石橋)といった主要なものは大概入植当時に立てられた、歴史があるものなんだ。
しかし、こういう建築物の建設に関わったのは、入植者ではなくて罪を犯して、刑務所や監獄に入所させられていた、所謂「罪人」の人たち。
だから、労働環境は酷く、そして監督する人たち(大概軍人だったらしい)からのイジメも結構あったらしい。
R村の石橋もやっぱり罪人たちによって作り上げられたんだが、こんな言い伝えがある。
「雨の降っている日には出来るだけ石橋は渡るな。もし渡っても決して立ち止まるな。
人影を見たような気がしても、絶対に目に入れるな。
人影を見て、目を合わせてしまったら溺れてしまう」
まだ橋が建設段階のときに、罪人があまりの監督者のひどさに、クーデターを起こして大雨の日に、監督者を川に蹴落とし、おぼれさせて殺したことがある。
だから、雨の日にそこに行くと、監督者の亡霊が橋の上に佇んでるんだと。
そして目があえば道連れに連れて行こうとするんだってさ。
浮かばない
住んでる場所には、ちょっと近代的なでっかい橋がある。
河口に近い場所にある橋で、その橋よりもちょっと上流にいろんな工場があるので、そこそこの大きさの貨物船や船も通れるように、かなり下が高い構造となってる。
何十年か前、この橋の橋げたにタンカーが激突。
橋ももちろん落下した。
不幸なことに、丁度橋の上を走っていた車が数台巻き込まれて、人も亡くなった。
この橋のかかる河口は、とりあえず水深がある。
だから、落っこちた車は未だに未回収だったりする。
ここの橋は、地元では自殺の名所になってる。
でも、知る人ぞ知る。というか地元の人しか知らない。
理由は、遺体が浮かばないから。橋の事故で亡くなった人たちが、寂しがって仲間を呼んで、体も返したがらないのでは?と地元では密かにささやかれてたりする。
子供の頃にやった遊び
必要なのは椅子と5人で1人は椅子にすわってもらいます
残り4人は手を「カンチョー!」ポーズにしてその手を座ってる人の
両脇・ひざの裏に一人ずつ入れていって座る人を持ちあげます
が!重くて持ちあがりません 当然ですね
そこで座る人の頭の上に1人ずつ手のひらを下にしてかざしていきます
Aさんが右手をかざしたら次はBさんがその上に同じく右手をかざす
こんな感じで4人の手をお互いが触れないように順番にかざしていき
そのまま10秒位キープしてその直後またはじめと同じ様にカンチョー
ポーズの手で持ち上げると今度はスッと持ち上げる事ができるのです
と、いうのが流行した。なんで重さが一瞬だけ消えるのか分からないけど「オーラパワーだーww」と当時みんなで大喜びしたな~
岩手・宮城にまたがる大籠地区は日本有数の隠れキリシタンの里である
大籠地区には、かつて砂鉄を原料としたタタラ製鉄で炯屋(どうや)が数多くあった
永禄元年(1558年)、技術者として千松兄弟を吉備の国から呼び寄せたが、実はこの千松兄弟がキリシタンであったのだという
これ以後、さらに炯屋が増えるとともに、人々の間に着々とキリスト教が広まっていった
しかしその後、徳川幕府がキリスト教の禁教を命じた結果、この地で実に300余人が殉教したという
当時日本屈指の大大名であった伊達藩領内だからなのか、その弾圧は徹底的であり、また凄惨なものであった
この地が、島原・天草に代表される他の隠れキリシタンの里と違うのはその処刑場跡の多いことである
この地区の中だけで刑場跡は十数箇所もあり、そのいずれにも供養のために地蔵が建てられている
不思議なことに、処刑場の地蔵の首は何度付け替えても繰り返し落ちるのだそうである
ついには諦めて首がなくなったまま放置された地蔵も多いが、そんな場所がのどかな農道の傍らに
ゴロゴロある光景は筆舌に尽くしがたく異様で不気味であるまた、この刑場跡は、やはりというかかつては亡霊に悩まされ、夜な夜な男女の悲鳴が聞こえてきて一睡もできぬ有様だったという
俺もここに一度行ったが、あの時が止まったような、異界としか表現できない雰囲気は体験してみなければわからぬ
異世界度は個人的には同じ岩手県内にあるかの慰霊の森すら遥かに凌ぐ。知る人ぞ知る隠れ里である
参考
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1329016545/
http://blog.livedoor.jp/worldfusigi/archives/5941232.html