日本が世界に誇るテクノグループ、YMOことYellow Magic Orchestra。今なおサウンドの進化を止めることのないその姿勢は、世界中の数多くのミュージシャンに影響を与え続けています。ここでは、YMOの結成から1983年の散開までの軌跡をまとめてみました。
結成について
1978年、はっぴいえんど、ティン・パン・アレー等で活躍していたベーシストの細野晴臣を中心に、サディスティック・ミカ・バンドのドラマーとして活躍していた高橋幸宏、スタジオミュージシャンとして数々のセッションに参加していた坂本龍一の三人でYellow Magic Orchestraを結成。後にRydeenのヒットなどで世間に認知されると、頭文字を取ったYMOという呼び方が定着します。ちなみに、直前まで画家の横尾忠則氏を含めた4人編成だったのが、記者会見直前でドタキャンされて3人になったとか。
テクノの大御所もファイアークラッカーを「人力で」セッションするところから始まった
結成前から細野晴臣が構想していた通り、シンセサイザーやコンピュータを用いた音楽を模索していくことになります。これらの機器は当時は非常に高価であり、また物理的にもとても大掛かりで運用面でも不安定な要素がまだ多く残っていました。海外ではすでに、ドイツのクラフトワークなどがそのような音楽の第一人者として、一定の評価を確立していました。ちなみに、最初のセッションでは、シンセをまったく使わずに「人力だけで」マーティン・デニーの『ファイアークラッカー』をあわせましたが、あまり面白い出来にはならず、お蔵入りになったそう。
国内での成功とワールドツアー、そして劇的な変化に伴うプレッシャー
YMOは国内での成功を追い風に、初のワールドツアーを行います。あえて中国人と誤解されるかのように赤い人民服を着ることで、西洋から見た間違った東洋、そして日本に対する偏った知識を逆に面白がるかのように、YMOのイメージとして打ち出していきます。そして、パチンコ屋に行っても『Rydeen』が流れてくるほどの劇的な成功と環境の変化により、メンバーは次第に重圧を感じ始めていきます。1980年にリリースのアルバム『公的抑圧』はタイトルに当時のメンバーの心境が読み取れます。ちなみに、このアルバムはワールドツアーの演奏にスタジオでの演奏を部分的にオーバーダビングしたアルバムで、当時としては珍しいものでした。
YMO中期、『BGM』『TECHNODELIC』
YMOを襲ったプレッシャーは、次第にメンバー間に軋轢をもたらします。その緊張関係とシンセサイザーなどの機器の進歩が相まって、YMOのサウンドは大きな変化を遂げます。1981年にリリースされたアルバム『BGM』は実験的、前衛的な面が強く打ち出され、それまでのポップな曲調が極端に排除されたものでした。その音像は暗く、ヨーロッパ的なデカダンスが打ち出されたもので、高橋幸宏曰く「ファン切り離し」とまで言われたこの作品は独特の存在感を放っています。続いてリリースされた『TECHNODELIC』でも前衛的な方向性は続き、こちらは前作とはまた打って変わり、乾いた音響や金属音、ノイズが多用されています。前者は細野、高橋がイニシアチブを取り、後者が坂本がそうであったと言われており、いずれのアルバムも、YMOの最高傑作として捉えるファンは多いようです。また、『TECHNODELIC』は、それまでは録音した音声を曲中で単発的に使用するに留まっていたサンプラーという機器を、初めて今日見られるように反復的に使用したアルバムと言われています。
『浮気なぼくら』〜テクノ歌謡路線、そして散開へ
1982年の一年間のブランクを経て、1983年にシングル『君に、胸キュン』をリリース。また前2作のシリアスな空気とは打って変わったテクノ歌謡的な曲であり、ファンは意表をつかれることに。同年5月にはアルバム『浮気なぼくら』をリリース。これにより、1981年頃からメンバー間ではすでに合意が取れていたYMOの散開に至ることになります。なお、解散という言葉は用いずに、散開という言葉が使用されました。
最後に
当初は、1993年の再生、スケッチショウ、HASYMOを経ての2012年の現在までをまとめてみようと思いましたが、ここにて力尽きたので、一旦記事を公開させていただきます。長いファンの方でもしご覧になった方には、突っ込みどころあるかとは思いますが、何卒ご容赦を。
以下は、当初、御三方のプロフィールも入れる予定だったのですが、これまた教授のみでしかも中途半端になってしまい。一応、とりあえずということでそのままにしておきます。重ね重ね中途半端で申し訳ないですが、何卒。
坂本龍一
1987年には、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』にて、日本人初のアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞。
父親は、三島由紀夫等の名立たる文学者を担当した名編集者、故・坂本一亀氏。